第10話

文字数 2,162文字

 怜司は舌打ちをかまし、体勢を崩しながらも霊刀を振り抜く。水塊が空を切り、しかし一歩遅かった。隙をついて下へ逃げおおせた犬神の尻尾すれすれを素通りし、夜空へ消えた。
 一方怜司は空中で体勢を整えながら、下を確認した。足場の形が悪い。ほぼ直角から九十度近くに、つまりL字に曲がっている。落下しながら霊刀を振り上げ、目に映ったそそり立つ壁に力いっぱい突き刺す。さらに両足で表面を強く擦りながら、勢いよく滑り落ちた。だが勢いが殺し切れない。このままでは地面に激突する。
「駄目か……!」
 怜司はあと数メートルのところで霊刀を消し、同時に壁を蹴って後ろへ飛んだ。空中で体勢を整え、しゃがんだ格好で着地し、さらに足を踏ん張る。土煙を上げながら数メートルほど地面を後ろへ滑ったところで、やっと止まった。すぐ後ろには元土の蛇、土の柱がそびえ立っている。
 怜司は息をつく間もなく顔を上げ、周囲に視線を走らせた。さっきまで自分が乗っていたと思われる土の蛇が崩壊し、土煙が流れ込んでくる。上から見ても複雑な形をしていたが、暗いせいで下からだとますます何がどうなっているのか分からない。まるで木の迷路に迷い込んだみたいだ。
 それはともかく、犬神はどこへ行った。そしてさっきのは何だ。まさか樹の攻撃がぶち当たったわけではあるまい。
「怜司くん」
 迷路の外から樹の声が届いた。柱の陰から手が伸びて、ちょいちょいと手招きする。怜司はやっと息をつき、腰を上げた。
 小走りに柱の隙間を抜けて外へ出ると、向こう側に健人と弥生、そして犬神がいた。犬神は元のサイズに近い姿に戻っており、健人と弥生はいたるところ傷だらけで頭から血を流し、揃って全身濡れている。先んじて健人の戦力を削ぎ、水龍が援護に付いていたとはいえ、ここまでやり込めるとは。反対に、樹は顔や腕に切り傷、擦り傷はあるものの軽傷だ。
「左近やられちゃって、防ぎ切れなかった。ごめん、大丈夫?」
 樹ではないのか。この言い回しからすると、二人と戦いながらこちらへの被害を食い止めていたらしい。
 怜司は少々複雑な気持ちでわずかに眉根を寄せた。樹、引いては宗史や晴の実力は、自分が思っている以上なのかもしれない。
「大丈夫だ」
 視線を逸らしてぶっきらぼうに返すと、樹はむっと唇を尖らせた。
「そんなに怒らなくていいのに」
「怒ってない」
「怒ってるじゃない」
「怒ってないって言ってるだろ」
 少し語気を強めて否定すると樹はますますむっとし、「怒ってるようにしか見えない」とぼやいてそっぽを向いた。地天とあまり相性が良くないことを知った上で指示を出したのは樹だ。彼からしてみれば、気遣いというより当然のことなのだ。だからと言って、甘んじて受けるほど樹との関係は単純ではない。もちろん有り難さもある。樹が攻撃を防いでくれたおかげで、犬神をあそこまで追い詰めることができた。だが、同時に嫉妬を覚えるこちらの気持ちは、さすがに分からないらしい。
 処分の解除は、まだ先になりそうだ。
 とはいえ、敵を目の前にして仲間割れもどうか。全ては自分のプライドが刺激されたゆえの、要は八つ当たりだ。それはそれで子供っぽい。怜司は短く嘆息して、機嫌を損ねると面倒な相棒にぼそりと告げた。
「本当に怒ってない。……助かった」
 廃ホテルの事件のあと、助けてくれと言わせてやると意気込んだのにこのざまだ。さらに言うなら、対戦相手の割り振り。健人と弥生の二人を同時に相手にして、樹ほど追いつめることができたかと問われれば、悔しいが否だ。加えて弥生の件。情けなさすぎる。こんなだから――。
 樹がこちらを振り向いた。
「別に感謝してくれなんて言わないけど、初めから素直にそう言いなよ」
 こちらの心情を察したらしい。上から目線の言い草に、さっきまでの敗北感と嫉妬心が嘘のように吹き飛んだ。いつか必ず絶対に何が何でも助けてくれと言わせてやる。そう怜司は固く誓い、不遜な笑みを浮かべる憎たらしい相棒を睨み付けた。
「さて」
 早々に頭を切り替えた樹が、不遜な笑みを浮かべたまま、健人と弥生へ視線を投げた。犬神が牙を剥き出しにして唸る。
「どうする? まだ続ける?」
 犬神はまた悪鬼を呼べば力を取り戻せるだろうが、人間はそうはいかない。樹一人に二人がかりでこの有様だ。これ以上戦っても勝てる見込みはないと分かるだろう。
 健人は表情を変えなかったが、弥生は忌々しげに顔を歪めた。樹が呆れ気味に息をついた。
「あのさ、僕は優しい人間じゃないんだよ。今のところ殺すつもりはないけど――」
 樹の目から、すっと熱が引いた。
「場合によっては、語り草になる死に方をしてもらう。そうなる前に降参しろ」
 冷ややかな光を宿した瞳に弥生がわずかに顔を強張らせ、犬神がさらに低い唸り声を上げた。
 樹の行動基準は、冬馬と下平だ。敵側の連中にどんな理由があったとしても、廃ホテル事件で二人を巻き込み、平良が彼らを狙っていると知っていて黙認している以上、昴を含め、樹にとっては敵以外の何者でもない。冬馬と下平が殺されれば、言葉通り非道なやり方も厭わないだろう。けれど、あの二人がそれを望まないと分かっているからこそ、こうして降参を促すのだ。樹たち三人の関係性を知っているのなら、これが脅しでないことくらい分かる。
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