第16話

文字数 6,291文字

 鍵をかけながら、自然と疲れた息が漏れた。
 この短時間でめまぐるしく状況が変わり、しかも分からないことだらけ。そもそも何をしてたんだっけと思ってしまう。茂は自分の首をさすり、眉を寄せた。
 少年らは何者なのか。あの黒い靄と、一瞬放たれた光は一体何なのか。気になるけれど、それ以上に気掛かりなのは、恵美と真由だ。触れられないということは、つまりあれは、幽霊?
 茂は目を見開いた。
「……じゃあ、このまま……」
 一緒にいられる。
 茂は身を翻して和室へと急いだ。
 幽霊でも何でもいい。このまま一緒にいられるのなら何でも構わない。傍にいてくれるだけで、それだけで生きていける。生きろというのなら、一緒にいて欲しい。
「恵美さん、真由!」
 和室に飛び込むと、何やら四人で話しをしていたらしい、一様に顔を向けた。恵美と真由の姿にほっと安堵の息が漏れる。
 茂はゆっくりと、畳を踏みしめるように足を進め、目の前で立ち止まった。微笑みを浮かべて見上げてくる恵美と真由を、愛おしい眼差しで見つめる。茂は、高揚する気持ちを深呼吸で落ち着かせてから口にした。
「また、三人で一緒に暮らそう」
 そう告げたとたん、二人の顔が曇った。悲しげに瞳を揺らして恵美は目を伏せ、真由は顔を逸らす。どうしてそんな顔をするのだろう。茂が不思議そうに目をしばたくと、外から車の走行音が聞こえてきた。とたん、恵美と真由がびくりと体を揺らした。近付いてくる音に真由が顔を引き攣らせて耳を塞ぎ、恵美が頭を抱え込むように抱き締める。
「真由……?」
 一体どうしたのか。茂が困惑した顔で手を伸ばした時、家の前を車があっという間に通り過ぎた。危ねぇな、としかめ面でぼやいたのは弘貴だ。門扉からスロープを設け、玄関は道路から奥まった場所にあるが、速度が速い車の音はどうしても響く。
「二人とも、どうしたんだい……?」
 伸ばした手を、素通りしないように二人の背中に添えた。感触はないけれど、小刻みに震えているのが目に見えて分かる。
「おじさん」
 車が遠ざかった頃、弘貴に呼びかけられて茂は視線を向けた。弘貴と春は、物悲しそうな顔をしている。
「おじさんの気持ちは分かるし、多分、できなくはない。けど……」
 言い辛そうに口ごもった弘貴を一瞥し、春が意を決した面持ちで言った。
「亡くなった人がこの世に留まる理由は、未練なんです。二人はおじさんのことが心配で、ずっと側にいたんだと思います」
 恵美と真由がおそるおそる体を離して、茂を見上げた。
「でも……、それは同時に、亡くなった時の記憶があるということなんです。この世に留まり続ける限り、消えることはありません」
 茂は目を見開いた。だから今、近付いてくる車の音に怯えたのか。
 死に際の記憶がどれくらいあるのかは分からない。けれど、少なくとも恵美と真由は、事故の時の音や恐怖を覚えているのだ。物凄いスピードで迫りくる車、甲高いブレーキの音、衝突した時の衝撃、もしかしたら透の顔も見たかもしれない。
 これから先も一緒にいるということは、その記憶を抱えたまま留まるということだ。
「……そんな……」
 あまりにも恐ろしい記憶。二人にそんな辛いことはさせられない、させたくない。
「一緒に、いられないのか……」
 茂は申し訳なさそうな顔で見上げてくる二人を見下ろした。
 せっかく見えた希望の光はあまりにも儚く、あっという間に消えてしまった。声が聞こえなくてもいい、触れられなくてもいい。ただ傍にいてくれれば、他には何も望まないのに。
 こんなささやかな願いさえ、叶わない。
 茂は顔を曇らせ、ふ、と自嘲気味の笑みを浮かべた。
「じゃあ、やっぱり……生きる意味はないね」
 ぽつりと呟いたその言葉に恵美と真由が傷付いた顔をして、助けを求めるように弘貴と春を振り向いた。
「おじさんは、二人の気持ちを無視すんの?」
 耳に飛び込んできた弘貴の言葉に息が詰まった。
「おじさんが二人に生きていて欲しかったって思ってるのと同じように、二人もおじさんに生きて欲しいって思ってるんだろ。だから見えないって分かってても、誰かに助けを求めたんだろ。それを無視すんの?」
 茂は俯いたまま両拳をきつく握り締めた。恵美と真由の視線が、心配そうに二人の間を行き来する。
「おじさん、先生なんだよな。さっき俺らのこと、遊びに来た教え子だって言ったけど、それって今までもそういうことがあったから思い付いたんだよな。それだけ生徒に慕われてるんだろ。おじさんが死んだら、悲しむ生徒がいっぱいいるんじゃないの。それって生きる意味にはならないのかよ」
 責めるような口調。生徒目線の意見はあまりにも生々しくて、残酷だ。
 これまで慕ってくれたたくさんの生徒たちの顔が脳裏をよぎる。今の教え子たちはもちろん、卒業しても、大学合格や結婚・出産の報告、独立して店を持った報告、転勤、引っ越しと、人生の節目の連絡や、毎年年賀状を送ってくれる生徒もいる。きっと彼らには連絡がいくだろう。悲しんでくれるだろう。でも、それでも。
 茂はぐっと唇を噛み、やがて堪え切れずに声を絞り出した。
「分かってる……ッ!」
 声を荒げた茂に恵美と真由は身を縮ませたが、弘貴と春は眉一つ動かさなかった。
「そんなことは分かってる! でも僕には……っ」
 茂は両手で顔を覆った。
「あの子たちに悲しんでもらう資格なんかない……っ」
 むっと弘貴が口を尖らせた。
「なんだよそれ。そんなの、おじさんが決めることじゃねぇだろ」
「教え子のせいにした教師を教師と言えるのか!?」
 勢いよく顔を上げた茂に、弘貴と春が目を丸くした。
「あの日、あの子が万引きなんかしなければ三人で出掛けていた。そうすれば事故に遭わなかったかもしれない。僕はそう思ってしまったんだよ。行っておいでと言ったのは僕なのに、自分がしたことを棚に上げてあの子を責めた! 教師として失格だ!」
 胸のシャツを握り締めて苦しげにまくしたてると、弘貴と春は何を言っているのか分からないと言いたげな顔で小首を傾げた。
「何言ってんの。おじさん、ちゃんと先生だろ」
 あっさりと否定され、茂は言葉を失った。
「うん。教師失格なんかじゃないですよ。だって、ねぇ」
 意味ありげに顔を見合わせて、弘貴がこくりと頷いた。
「生徒に申し訳ないって思うのって、ちゃんとした先生しか思わねぇもんな。なんで先生になったんだって思うような奴もいるし。そもそも、生徒っつっても所詮は自分の子供じゃねぇしさ、そういう風に思ってもしょうがないんじゃねぇの? 先生だって人間だろ」
「それなのに、そんな風に思って悩んでくれる人が、教師失格なんてことないです」
「俺、今のおじさんの言葉聞いてちょっと嬉しかった。こんなに生徒(おれら)のこと思ってくれる先生いるんだなってさ」
 捨てたもんじゃねぇな、と付け加えて、弘貴と春は照れ臭そうに笑った。
 茂は目をしばたいた。あんなに悩んだことをこうもあっさり否定されると、癪に障ったり苛立つどころか、いっそ脱力感を覚える。
 現役中学生ゆえの説得力もあるのだろうが、山下夫婦をすんなり許したことといい、恵美と真由の心情を慮った台詞といい、やけに敏いというか大人びているというか。不思議な子たちだ。
「君たち、一体……」
 呆然と尋ねると、弘貴と春は「あ、そっか」と呟いた。
「自己紹介してなかったか。俺、N中二年兼陰陽師、奥村弘貴」
 自慢げな笑みを浮かべて名乗った弘貴に、ふふ、と春が笑いながら続いた。
「同じく、松浦春平です」
 茂と恵美と真由がきょとんとした顔で固まった。そう言われれば、先程の呪文の最後に「急急如律令」と言っていた。陰陽師も呪文も、実際に実在し使用されていたことは知っているけれど、だからと言って現代に存在しているなんて。
「考える必要なくね? さっきの見てるんだし」
「そ、れは……そうだけど……」
 はいそうですかと受け入れるには現実離れしすぎていて、あまり実感がない。
「じゃあおじさん。一つ提案」
 弘貴は人差し指を立てて、白い歯を覗かせてにかっと笑った。いたずらっ子のような笑み。
「生きる意味がない、教師続けられないって言うんだったら、陰陽師、やってみない?」
「さっき霊府が反応したので、素質があると思います」
「……え?」
 ちょっと散歩行かない? と言うような気軽い口調で告げられた提案は、あまりにも突飛すぎた。茂は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になり、恵美と真由は目を真ん丸にした。
「そんでさ、俺ら専属の先生になってよ」
 満面の笑みで告げられた言葉に、なんの言葉も出なかった。一方、恵美の驚きの顔が徐々に喜びに変わり、真由は笑顔で胸の前で両手を合わせた。まるで「それいいね」と言いたげに。
 恵美と真由に期待した顔を向けられて、茂ははっと我に返った。
「ちょ、ちょっと待って。いきなりそんなこと言われても……」
 困惑の顔で狼狽した茂に、恵美が何か言った。え? と茂が尋ね返すと、困り顔になった。唇を読むなんてことはできない。真由も眉尻を下げている。すると春が――春平が、そうだと言って携帯を操作した。すぐに携帯の向きを変えて茂に差し出す。そこには、五十音表が表示されていた。
「あ、そうか……」
 指を差すくらいなら二人でもできる。茂が携帯を受け取って視線を上げると、春平は小さく頷いた。
 画面を見せると、恵美と真由は「おー」と口を開き感心した顔をした。元々二人とも表情が豊かな方だが、声が聞こえないからか、いつもよりおおげさだ。
 少し丸みを帯びた恵美の指が、五十音表の一文字を差した。
 『し』
 そこから五十音最後の文字へ。
 『ん』
 少しうろうろして、もう一度同じ方へ戻る。
 『し』
 隣の行の二つ下へ。
 『て』
「しん、して……あ……」
 表には濁点や半濁点がない。
「信じて……?」
 視線を上げて問うと、恵美は微笑んで大きく頷き、真由は励ますように胸の前でガッツポーズをした。
 信じて――あの子たちを。
 次に真由が目を落とし、薄いピンクのマニキュアで彩られた指を画面に滑らせる。
 『い』
 そして、すぐ隣の文字へと滑る。
 『き』
 一行飛ばして、下へ。
 『て』
 ――生きて。
 何度も何度も、同じ文字を辿る。
 目がしらが熱くなり、じわりと浮かんだ涙が瞳を濡らす。こぼれ落ちた雫が、真由の指を通って画面に落ちた。
 恵美と真由を、教師としての自信を失くし、生きる意味を失った。これから先、喪失感や透への憎しみを抱えたまま、一人で生きていける自信がない。学校で麻里亜の顔を見るたびに覚える自己嫌悪も、きっと耐えられない。
 それなのに、生きろという。
 最愛の人たちが、生きて欲しいと望む――別の道を。
 生きて、別の道を選べと。別の道を選んで、生きろと。
 茂はぎゅっと唇を噛んだ。
 と、また聞こえてきた車の走行音に恵美と真由が身を寄せ合って、ぎゅっと目をつぶった。茂はふわりと二人を抱き締めた。素通りしないように優しく、綿を抱くように。
 春平は言った。二人はずっと、傍にいたのだと。恵美と真由は、あの日からこんな風に怯えながらも傍にいてくれたのか。怖かっただろうに。
 こんなにも、生きることを望まれているなんて。
 車の走行音が遠ざかり、茂はゆっくりと二人を離した。見上げてきた恵美と真由に微笑みを向けると、弘貴と春平を見やる。
「僕は、もう五十を過ぎてるんだけど……」
 そう言いながら春平に携帯を返し、茂は照れ臭そうにはにかんだ。
「それでも、できるかな?」
 ぱあっと恵美と真由が顔を輝かせ、弘貴と春平が相好を崩して同時に頷いた。
「もちろん」
 満面の笑みを浮かべて互いの手を取り合う恵美と真由を見下ろし、茂は微笑んだ。
 すると、ふわりと足元から小さな光が昇ってきた。目を落とすと、恵美と真由の足元から色とりどりの光が次々と浮かび上がっている。増える光に比例して、二人の足の輪郭が曖昧になってゆく。
 まさか。
 茂は勢いよく顔を上げて二人を見やる。恵美と真由は互いに顔を見合わせ、目を伏せた。それは、消えゆくことを受け入れようとしている風にも、互いに別れの挨拶をしているようにも見える。
 やがて二人は瞼を持ち上げ、穏やかに微笑んで茂を見上げた。
 茂は眉を寄せてきゅっと唇を結び、溢れそうになる涙を堪える。もう、これ以上二人をこの世に留めておくことはできない。不安にさせて、事故の記憶で苦しめたくない。
 茂は静かに深呼吸をして、恵美を見つめた。
「恵美さん」
 目を落とし、恵美の手を取る。まるで壊れ物を扱うように、慎重に手を持ち上げる茂に合わせて恵美も動かす。重ねられた手を追いかけてゆっくりと顔が上がり、やがて視線がぶつかった。
 茂は細く息を吸い込んで、精一杯の笑みを浮かべる。
「生まれ変わったら、また僕と結婚してください」
 一切躊躇いのない告白に、恵美は目を真ん丸にし、真由は驚いた顔をして両手で口を覆い、弘貴と春平は顔を赤くして素早く別々の方向へ顔を逸らした。
 真ん丸な恵美の瞳にじわじわと涙が滲み、頬を伝った。そして、
 ――はい。
 相好を崩して、大きく頷いた。増え続ける淡い光に包まれた彼女はとても綺麗で、初めて会った時の胸の高鳴りを思い出させた。
 茂は笑みを返し、片方の手だけを放して真由を見やった。真由が口を覆っていた手を離した。
「真由」
 茂は空いた手で真由の手を取る。
「次もまた、僕たちの所へ生まれてきてくれるかい?」
 真由は目にたくさんの涙を浮かべて、茂と恵美を交互に見やった。くしゃりと顔を歪ませ涙をこぼす。そして見事な泣き笑いを見せ、
 ――うん!
 大きく頷いた。
 授かったと知った時からずっと、ずっと愛おしかった。初めての子育ては大変なこともあったけれど、それすらも幸せだった。何度も何度も、真由の幸せを祈った。
 茂たちは顔を寄せ合い、その時を待つ。
 少しずつ、少しずつ光の粒子が二人を連れてゆく。手の中から、恵美の手が光の粒子となって消えた。本当にもう二度と会えないのだという実感が、強烈に胸を締め付ける。
 恵美が顔を上げ、倣うように真由も顔を上げた。もう、胸元まで消えてしまっている。情けないほど溢れ出した涙が頬を伝う。恵美が手を伸ばして茂の頬に触れ、涙を拭う仕草をした。
「……っ」
 行かないでくれという言葉を、必死に飲み込んだ。代わりに二人の頬に手を添えると、恵美と真由は花がほころぶようにふわりと笑った。
 ――笑って。
 そう、言われたような気がした。また無茶なこと言うなぁ、と茂は微かに苦笑し、ゆっくり瞬きをした。瞼を開いて、穏やかに微笑む。
 触れていた頬は光の粒子へと変わり、茂の手を包み込み、すり抜けてゆく。
「恵美さん、真由……ッ」
 真っ直ぐ茂を見つめていた二人の瞳が、光の粒子となって消えていく。それはまるで、重力に逆らって浮かぶ涙のようだ。色とりどりの、きらきらと光る無数の涙。
 茂はその涙を掴むように拳を握った。立ち昇る粒子を追いかけて天井を仰ぐ。
 ――約束だよ。お父さん。
 二人の姿が完全に消え、光の粒子も徐々に空に溶けゆく中、真由の囁く声が微かに耳に届いた。
 約束。
 生きることか。それともまた次も会うことか。いや、両方だ。
 最後の一粒が空に溶けた頃、茂は俯いて息をついた。目を落として、握った両手を開く。なんだか、夢心地だ。けれど、感じるはずのない体温や感触が、何故か残っている。聞こえるはずのない二人の声も、確かに聞こえた。
 それを逃がすまいと、茂は再びきつく両手を握り締めた。
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