第8話

文字数 4,753文字

「オン・ノウギャバザラ・ソワカ!」
 突如、二度目の真言が耳に飛び込んできたと思ったら、背後から無数の水の塊が凄まじい勢いで通り過ぎ、雅臣が放ったそれと激突した。水風船が割れたような甲高い音が響き渡り、衝撃で弾け飛んだ水が周囲に霧散する。雅臣が忌々しい顔で振り向いた時、悪鬼の本体に何かがずぼっと落ちた。間髪置かずに中から光の筋が漏れ、あっという間に悪鬼が光に包まれる。
 間に合ったかと安堵する暇もなく、下平は背後から差す強烈な光に目を細めた。悪鬼が低い唸り声を上げ、触手が煙のように宙に溶けて消えていく。
 解放感を覚えてすぐに、体が落下した。
「きゃっ!」
 榎本は可愛らしい悲鳴を上げ、下平は息を止めて尻からどすんと地面に落ちる。ほぼ同時に後ろでがさっと芝生を踏む音がして、すぐに二人の間を駆け抜けた。
 あまり高さがなかったことと芝生だったことが幸いして、鈍痛は長くなかった。しかし触手にやられた傷に響く。ぐっとくぐもった唸り声を漏らした下平が見た光景は、霊刀を片手に雅臣へ一直線に駆ける一人の男。そしてパイプ場の屋根の上で対峙する二つの人影があり、目の前に一人の男が悪鬼に運ばれてふわりと着地した。サーカスの空中ブランコに立つパフォーマーのようだ。左腕に掠り傷を負っている。どうやらすでに一戦交えたあとらしい。
 同時に響いたのは、澄んだ硬質な音と、骨と骨がぶつかるガツンとした鈍い音。
 駐車場で、雅臣と男の霊刀が何度も交わる。素人目に見ても、その実力は歴然だ。休む間もなく襲いかかる男に、雅臣は防戦一方だ。必死の形相で歯を食いしばり、男の速い剣さばきになんとか食らいついていることが分かる。真言を唱えた声質から、男が誰か予測はできた。尊がいる方とは逆の方へ雅臣を追いやる男の横顔は、やはり中年の男性。――佐伯茂(さえきしげる)だ。
 一方、パイプ場の屋根で肉弾戦を繰り広げていた二つの影が、山の中へと消えていった。一人は白髪、一人は髪が短くなっていたが(さい)のように見えた。
 下平は、茂と雅臣の攻防を黙って見守るもう一人を見やる。尊を狙っているのは雅臣だが、助けに入る様子も捕らえようとする様子もない。ということは、この男は自分たちの見張り役。こちらが把握している限りではおそらく渋谷健人(しぶやけんと)だろうが、他に仲間がいるかもしれない。きちんと顔を見て確認しなければ。
「下平さん、傷が……っ」
 眉尻を下げて情けない顔した榎本が、四つん這いで下平に近寄った。両腕の傷口からじわりと血が滲みでている。じんじんと疼くような痛みはあるが、この程度なら問題ない。それより今は。
「榎本。動くなよ」
「え、ちょっと下平さん……っ」
 下平が腰を上げながら榎本に指示を出して駆け出そうとした時、案の定男が振り向いた。下平は足を止め、男を見据える。
「渋谷健人だな」
 健人は無言を返した。清潔感があって誠実そうな印象だったのに、髪は伸びっ放しで、顔付きもこちらを見据える目も鋭い。まるで戦時中の兵士を彷彿とさせる。雅臣といい、憎しみや怒りはここまで人相を変えるものか。
 と、タイヤがアスファルトを擦る甲高い音が聞こえてきた。下平たちが来た道とは逆の道からだ。走行音とヘッドライトの明かりが猛スピードで近付いて、急停車した。ヘッドライトが駐車場で対峙していた雅臣と茂を照らす。展望台から見ると、左右の道が塞がれた状態だ。
 ライトは点灯したまま運転席のドアが開き、一人の女性が降りてきた。即座に霊刀を具現化し、左手でドアを閉める。長い髪を一つにまとめた、スタイルの良い美人。特徴から、青山華(あおやまはな)だ。
 華がざっと視線を巡らせて健人を捉えた。とたん、二人同時に地面を蹴った。華は道路に沿って、健人は道路へと飛び出して、パイプ場の前でぶつかる。ギンッ! と霊刀を勢いよく合わせて睨み合い、同時に後方へ下がって再び突っ込んだ。
 今のうちだ。
「榎本、立てるか。尊を保護する」
 呆然としていた榎本が我に返って下平を見上げた。
「え、あっ、はいっ」
 下平は榎本の腕を掴んで引っ張り上げ、尊の元へ向かう。雅臣が二人を一瞥しくそっと悪態をついた。
 激しく動き回っているらしい。雑木林の木々があちこちで揺れ、激しい剣戟(けんげき)の音が絶え間なく木霊する中、周囲を警戒して尊の元へと駆け寄る。あれからずっと体を丸めたまま小刻みに震える尊の服は、しっとりと濡れていた。術のせいなのか、それとも恐怖のせいなのか分からない。
 下平と榎本は尊の両側にしゃがみ込んだ。
「尊、起きろ。立て」
 すっかり怯えて自ら動こうとしない。下平と榎本は尊の腕を自分の首に回し、無理矢理立たせた。引き摺るようにして車の方へ向かう。
 それにしても、樹たちも相当強かったけれど、茂と華もかなりのものだ。まるで棒切れを振り回すように難なく霊刀を振り、素人では目で追えないほど速度も速い。確実に雅臣と健人を追いつめている。拘束しようとしないのは、抵抗されて激しい戦闘になれば一帯に被害が出るし、一般人を巻き込むかもしれない。この場で捕まえるのは無理か。
 不意に、後部座席のドアが開いて彩が顔を出した。
「早く!」
 下平と榎本は小走りに駆け寄って、尊を押し込んだ。車内を覗き込んだまま彩を見やる。
「いいか、鍵を閉めて絶対に出てくるなよ」
 強張った顔で何度も頷いた彩に、下平は頷き返した。そうだ、怖くないわけがない。男に置き去りにされ、こんなわけの分からないことに巻き込まれて。でも、尊を助けようとした。肝が据わった、強い子だ。
 下平はドアを閉め、今度は運転席のドアを開けた。呆然と茂たちの攻防戦を見つめる榎本の腕を掴んで引き寄せる。
「榎本、お前も乗れ。何があっても出てくるんじゃねぇぞ」
 車内へ背中を押すと、榎本が拒否するようにドアを掴んで肩越しに振り向いた。
「待ってください、下平さんは……っ」
「いいから乗れ、命令だ!」
 語気を強めると、榎本はびくりと肩を震わせて視線を泳がせ、しぶしぶと運転席に乗り込んだ。
「鍵閉めろよ」
 そう言い置いてドアを閉める。すぐに逃げろと言ってやりたいが、他に仲間が隠れているかもしれない。危害を加えずとも、襲撃されるとひと溜まりもない。下平は、闇に包まれたままの道路へ視線を投げた。
 と、ギンッ! と重みのある金属音が響いた。茂たちの頭上で、折れた刀身がくるくる回りながら宙を舞い、ふっと消えた。雅臣が警戒するように芝生の方へ下がって距離を取る。手には刀身が半分になった霊刀。一方華は、健人の霊刀を弾きのけるや否や、回し蹴りを横面に放った。健人は左腕でガードしたが勢いに押され、駐車場の方へ地面を滑る。
「くそ……ッ」
 雅臣が声を絞り出すようにぼやいて、霊刀を消した。ぎりっと歯を食いしばった瞬間、体から真っ黒な邪気が立ち昇り、質量を増してゆく。茂と華が睨むように雅臣を見据え、霊刀を構えた。
 目視できる速度で巨大化する邪気に比例して、周囲の空気が淀んでいく。呼吸すると中から侵食されて飲み込まれるのではないかと思うくらい、禍々しい邪気。嫌な汗が止まらない。下平はごくりと喉を鳴らした。
 尊への憎しみを具現化したようだ。
「やめろ」
 止めたのは健人だ。だが雅臣は茂を睨みつけたまま、邪気を放ち続ける。健人が舌打ちをかました。
「雅臣!」
 叱責するように声を荒げて振り向くと、邪気の巨大化がぴたりと止まった。何だ。下平は眉をひそめた。雅臣が唇を噛み、体の横で両拳を握り締めた。
 と、パイプ場の後ろから木々を揺らして二つの影が飛び出してきた。一つは道路へ、一つは展望デッキの屋根へ着地した。柴と(かい)だ。戦っていたとは思えないほど双方無傷で、息一つ切れていない。さらに下平の後方から明かりと走行音が近付き、アスファルトを擦って急停車した。雅臣が鋭い視線を投げると再び邪気が膨らみ始める。だが――。
「菊池くん!」
 後部座席から飛び出してきた彼女の姿に、動きが止まった。
「……松井さん……」
 雅臣が目を瞠って呆然と呟いた。ゆっくりと邪気が雅臣の体へと吸い込まれ、小さくなってゆく。
「待って」
 駆け寄ろうとした彼女の腕を、同じく後部座席から降りた佐々木(ささき)が掴んで止めた。むやみに近付かないで、いいわね、と小声で注意され、彼女は少し戸惑った様子で小さく頷いた。
 運転席から降りてきた熊田(くまだ)が、傷を負った下平を見て目を丸くした。だが視線を合わせて下平が頷くと、熊田は小さく頷き返した。
 宗一郎は、現場に松井桃子を連れて行くと言ったのだ。熊田と佐々木へは妙子(たえこ)からそれが伝えられ、二人が桃子の自宅へ足を運んだ。尊との待ち合わせの時に佐々木から届いたメッセージは「友人と出掛けているらしく、母親に連絡を取ってもらっている。迎えに行くため少し遅れる」という内容だった。
 膝下丈のスカートにカットソーをインし、足元はサンダル。黒ぶちの眼鏡をかけ、背中まで伸びた黒髪をハーフアップに結ってお団子にしている。一見地味だが可愛らしい少女だ。雅臣が彼女を巻き込むことは、絶対に有り得ない。また協力を求められれば桃子も拒否しないだろう。だが、危険だと分かっていて一般人を連れてくるのは、警察官として言語道断だ。
 しかしこの場合は、最善策でもある。
 熊田と佐々木に両側を挟まれて、桃子がゆっくりと歩を進めた。雅臣を注視した茂と華は、霊刀を構えたままこちらへ後ずさり、柴がとんと跳ねて逆サイドへ移動する。
 熊田が桃子の前に腕を伸ばして制止したのは、ヘッドライトの右側。それに合わせて茂と華も足を止める。桃子たち三人を中心に、少し距離を取って斜め前方に茂と華、柴が守り、さらに下平が背後についた。
 桃子には、雅臣の体に吸い込まれていく邪気が見えているのだろうか。見えているとしたら、あれを何だと思うだろう。
 まるで恋人同士が往年の再会を果たしたように、二人は静かに見つめ合う。
 邪気がすっかりなりを潜めた頃、先に静寂を破ったのは、桃子の方だった。
「刑事さんたちから、話を聞いたの」
 真っ直ぐ見据える瞳に、落ち着いた声。雅臣が、怯えたように顔を強張らせた。
「一年前のことも、聞いた」
 桃子は視線を落とし、悲しそうに眉を寄せる。
「ごめんね、気付いてあげられなくて。クラスも塾も一緒なのに、菊池くんの様子がおかしいの気付いてたのに……、もっと、ちゃんと聞けばよかった……っ」
 じわりと目に涙を浮かべ、桃子は震える声で吐き出した。
「……ちが……松井さんのせいじゃ……」
 呟くように口にして、雅臣が小さく首を横に振る。桃子が手で涙を拭い、改めて雅臣を見据えた。
「菊池くん、ありがとう」
 そう言うと、桃子は花がほころぶように、ふわりと笑った。
「守ってくれて、ありがとう」
 自責の念と、感謝。とても素直で、真っ直ぐな感情だ。
 雅臣が、息苦しそうに顔を歪めて俯いた。二人は恋人同士ではない。けれど大切なのは、恋愛感情があるかどうかではなく、雅臣にとって桃子は「守りたい人」なのかどうかだ。雅臣は彼女を守ろうとした。だからこそ、彼女の言葉は心に届くだろう。
「菊池くん」
 桃子は優しく名前を口にすると、ゆっくり手を差し出した。ゆらりと上がった雅臣の瞳が、大きく見開いた。
「一緒に、帰ろう?」
 雅臣が、息を詰めたのが分かった。苦しそうな、けれど今にも泣き出しそうな顔で歯を食いしばり、きつく両手を握り締める。
 桃子は、少年襲撃事件と鬼代事件が繋がっていることを知らない。だが、雅臣が尊を狙ったことは知っている。知った上で手を差し伸べる彼女の優しさと強さ。そして、雅臣への思い。
 罪を犯してもなお、こうして手を差し伸べ待ってくれる人がいることは、雅臣にとって救いになる。まだ、戻れるのだと。
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