第2話

文字数 9,436文字

 当時の状況を聞き込むのなら、直近の被害者遺族だ。遺族も近所の住民の記憶もまだ新しい。
 四人目の被害者は、伏見区の小学校に通う十一歳の少女。
 彼女の名は、橘詠美(たちばなえいみ)。ツインテールに結った長い黒髪が特徴の、友達が多い活発な女の子だった。両親との三人暮らし。両親は共働きで、詠美はいわゆる鍵っ子だった。事件が発生して以降、両親は近所に住む父方の祖父母の家以外の外出を禁止していたという。それでもやはり遊びたい盛りだ。
 7月11日。詠美は少しならと軽い気持ちで友達と一緒に近くの公園で遊び、気付けば七時近い時間になっていた。急いで帰宅する詠美の姿を、公園の近くの防犯カメラが捉えていた。しかしそれ以後の足取りはつかめず、一週間後、遺体となって発見された。つい五日前だ。
 発見現場は西京区の山中で、登山に来ていた中年夫婦が第一発見者だ。伏見区と西京区は、京都市をほぼ横断した位置にある。そして増田の住所は南区。区をまたいでの犯行は、それだけで増田がどれだけ姑息で卑怯かを物語っている。
 紺野は橘家へ向かう車内で、顔を歪めながら近藤から預かったファイルに目を通していた。
 すべての被害者に対する行為は酷いものだが、中でも詠美に対する増田の行為は吐き気がするほどだった。
 増田は詠美を何度も辱めている。手首、足首を縛られ、口を塞がれ、おそらく殺害現場で数日間監禁されていたのだろう、逃げられないように足の腱を切断されていた。暴力を振るわれ、至る所に痣が残り腫れ上がった遺体写真は、何度も遺体を見てきた紺野でさえ目を背けたくなるほどむごたらしいものだった。
 殺されて当然だ。
 刑事として決して口にできない残忍な気持ちが湧き起こる。
 理解できない。少女をここまで(なぶ)れる奴の心理が。
 増田雄一は、職場での評判は悪くなかった。有名企業の下請け工場で十三年働き、少々暗いが仕事ぶりは真面目で、風邪以外で欠勤したことがないらしい。三十代の頃に結婚し、五年後に離婚。子供はおらず、離婚後はずっと一人身だそうだ。近所の住民とも、顔を合わせると愛想良く挨拶をする。ごく普通の中年男性だった。それが、何故。
 考えてもしょうがねぇ。
 紺野はファイルを閉じた。瞬間、
「っ!」
 ぞくりと全身を駆け抜けるような悪寒が走った。ぶるっと体を竦めて震える。
「紺野さん? どうしたんですか?」
 異変を感じたのか、北原が横目で窺い尋ねた。
「あ、いや……何でもねぇ」
「大丈夫ですか。顔色が悪いですけど」
「大丈夫だ。気にすんな」
 紺野は顔を背け、窓の外を眺めた。
 何だ、今の。
 酷く嫌な予感がする。警察官という職業柄、時折逮捕者から恨まれることもあった。その時必ず感じた、向けられる視線に込められた悪意。怒り、怨み、憎しみ、そして殺意。それらと似ていたような気がする。
 幼い子供を連れた主婦、散歩中の老人、配達中のワゴン、自転車に乗った子供たち。そんなどこにでもある住宅街のありふれた光景を横目に、ナビを確認しつつ徐行運転で進む。
「えっ」
 目的地近くになって、二人同時に声を上げた。遠目からでも分かるほど、橘家は異様だった。
 北原はさらにスピードを落とし、橘家の前で車を停車させた。
「何ですか、これ……」
 運転席の窓から橘家を見上げながら唖然と呟いた北原の気持ちは間違っていない。紺野は無言で目を丸くしたまま車から降りた。
 ごく普通の一軒家。だったのだろう、以前は。
 今紺野の目の前に建つ家は、外壁に細長い紙切れが無数に貼り付けてある。まるで紙切れに包まれているようだ。その紙切れには、黒いミミズがのたくったような文字らしきものが書かれ、中には図形のようなものもある。
 車から降りた北原が言った。
「これ、もしかしてお札なんじゃ」
「札? 神社とかで売ってる札のことか?」
「ええ、多分。でも、何で壁中に張ってるんだろう。しかもこんなに」
「……」
 一人言のように呟く北原の疑問に答えられるはずもなく、二人して呆然と立ち尽くしていると突然背後から声をかけられた。
「貴方たち、マスコミの人?」
 振り向くと、買い物袋を抱えた中年の女性が窺うような視線を向けて立っていた。
「あ、いえ。警察の者です」
「警察? ああ、そうなの」
 北原が警察手帳を掲げると彼女は警戒心を解き、憐れんだ表情で橘家を見つめた。
「驚いたでしょう」
「ええまあ。これは、いつから?」
 あまり顔色が優れない紺野のことを気遣っているのか、北原が受け答えをする。
「それが、昨日からなのよ。午前中の買い物の帰り、奥さんが貼り付けてるの見てね、何してるのかしらって思って声をかけようとしたんだけど、その、顔つきがちょっと怖くて。近所の人、皆見てるんじゃないかしら」
「昨日の朝? 一日でこれだけの数を?」
 北原が目を丸くした。一日でこの数を貼り付けるとはよほどの執念を感じるが、一体何のために。
「そうなの。まあ、気持ちは分かるんだけどね」
 彼女は大きく息を吐きながら北原に視線を向けた。
「娘さんがいなくなってから、奥さん少しおかしかったから。すごく仲の良い家族だったし。あら、そう言えばハヤテくんどうしたのかしら」
「ハヤテくん?」
「ああ、ごめんなさい。ワンちゃんのことよ」
「犬? 橘さん、犬を飼ってたんですか?」
「ええ、そうよ。ベージュの大きなゴールデン。ハヤテくんって言ってね、すごく人懐こい犬だったのよ。詠美ちゃんに懐いてたから、詠美ちゃんがいなくなってから寂しそうに鳴く声がよく聞こえてたのよ」
 目尻を拭う彼女に、北原がハンカチを差し出した。あら、と彼女は驚いた顔をしてすぐ照れ臭そうに笑った。
「刑事さんって怖いイメージだったけど、優しいのね。ありがとう。でも大丈夫よ」
 そう言って手提げ鞄からタオルハンカチを取り出し、目尻を拭う。
「あの、おかしなこと伺いますけど、あれお札ですよね。もしかして橘さん、何か宗教に関わってたとか、もしくはその手の現象が起きてたとか、聞いたことないですか」
 声色を落として尋ねた北原に、紺野は小さく溜め息をついた。確かに同じことを思ったのは否定しない。大量の札に感じた悪寒。どう考えても普通ではない。しかし、警察が尋ねることではない。
 おい、と口を挟もうとした時、先に彼女が「実はね」と声を落として言った。まさか本当に出てくるとは思わなかった。紺野は口をつぐんだ。
「詠美ちゃんが見つかった日、の翌日になるわね。夜中の一時くらいに、息子がコンビニに行く途中で奥さんが大きなキャリーバッグを持って出掛けてるのを見たらしいの。時間も時間だし、娘さんがあんなことになったのに旅行なんて有り得ないでしょ? だから変ねって主人と話したことあるのよ。それとね、知り合いの子供が二、三日前からおかしなこと言うんですって。ここのおうち黒いワンちゃんがお空飛んでるよって。それでこのお札でしょ? 正直気味悪くって」
 そう言って彼女は顔を歪めた。ついさっきは涙を浮かべておいて、今度は気味が悪いか。素直と言えば素直だが、とんだ手のひら返しだ。
 紺野と北原は顔を見合わせた。
「あらいけない。おしゃべりが過ぎたわね。帰らなきゃ」
 じゃあね、と笑顔を浮かべて彼女はそそくさと立ち去った。
 彼女の背中を見送り、紺野は橘家に視線を投げた。詠美が発見されてから家中に札が貼られ、飼っていたはずの犬は行方不明、母親の夜中の外出に、家の回りを飛ぶ黒い犬。
「何か、思ってもない証言が出ましたね……」
 そう言いながら北原も気味が悪そうに橘家を見つめている。確かに、ここまで徹底していると「何かあるかもしれない」と思わざるを得ない。だが、こうして見ているだけでは何も得られない。本人に直接話を聞かなければ。
「行くぞ」
 紺野は門扉に手をかけた。びっしりと札が貼られた扉を横目に見ながらインターホンを押す。家の中から微かにチャイムが漏れ聞こえた。
 しばらくして、スピーカーが繋がれた。
「はい」
 何とか聞きとれるほど小さな、女の声。紺野は警察手帳をカメラに向けた。
「京都府警の紺野と申します。少しお話をお伺いしたいのですが、今お時間よろしいでしょうか」
 丁寧に落ち着いた声色で名乗る。長い沈黙の後、お待ちください、と小さく返答があった。二人同時に詰まった息を吐いた。あの話を聞いた後だ。変に構えてしまう。
 扉の向こうで鍵を開ける音が響き、幽霊屋敷を思わせるようにゆっくりと開いた。隙間から、虚ろな目をした女が上目遣いでこちらを見上げてきた。とたん、
「っ!」
 強烈な吐き気に襲われて口を覆った。俯いて思わず後ずさる。
「え、紺野さん大丈夫ですか?」
 背後に立っていた北原が背中を支えた。
 体から血の気が引くのが分かる。おぞましい、と言う言葉が脳裏に浮かぶ。
「あの、大丈夫でしょうか」
 ぎ、と軋んだ音を立てて扉が開く音が耳に入り、紺野は不意に視線を上げた。上げて、目を見張った。
 女の向こう側に伸びる暗い廊下。その先にある扉の前に鎮座しているのは、黒い犬。体中を煙に包まれた――いや違う。煙が犬の形を成しているのだ。
「なん、だ……あれ……」
 吐き気を忘れて呆然と呟くと、北原が「え?」と呟いて視線を家の中へと投げ、女が驚愕の表情を浮かべた。
「あれってな、に!?」
 北原が最後まで言葉を発する前に、女とは思えない力で二人同時に引っ張られ、家の中に引き摺り込まれた。
 とっさのことと吐き気で反応が遅れ、たたきに雪崩れ込むように転がった。ガシャンと乱暴に扉が閉められ、もどかしげに鍵とチェーンがかけられる。古いタイプの鎖仕様のチェーンだ。
「ってぇな……」
「いった……」
 膝やら腕やらをさすりながら体を起こすと、女が扉を背にこちらを見下ろしていた。無表情に目だけがぎょろりと剥かれ、しかし視点は合っていない。ぶつぶつと何か呟く女に、北原が小さく悲鳴を上げた。
「見られた、見られた、刑事に見られた、どうにかしなきゃ、どうにか……そうだ、殺しちゃえばいい、そうよ殺せばいい、あいつと同じように殺して、庭に埋めちゃえばバレない、そうよそうよそうよ……」
 初めて、ぞっとするという言葉を実感した。これまで何人もの犯罪者と対峙してきた。中には精神的に病んでいた者もいた。意味不明で支離滅裂なことを喚き散らす者もいた。だが、そんな奴ら比ではない。この異常なまでの禍々しさは何だ。
 紺野は襲う吐き気を堪えて、周囲の様子を窺った。
 広い玄関ホールには、シューズボックス。白い陶器の花瓶にすっかり朽ちた花。転がったままの靴ベラに傘。窓が設けられているにも関わらず何故か薄暗く、埃臭くて空気も淀んでいる。リビングであろう方から異臭が漂う。廊下や階段には衣類や本が散乱し、ゴミも散らかっている。
 玄関に花を飾るほど、事件前はいつも綺麗に整理整頓されていたのだろう。
「北原」
 ぶつぶつと呟き続ける女に注視しながら、小声で呼び掛ける。
「合図をしたら俺がこいつを押さえる。お前は玄関を開けて出ろ」
「こここ紺野さんっ。何なんですかこれっ」
「いいから言うことを聞け。いいな」
 固い声から事態の重要さを察したのか、北原はそれ以上突っ込むことなく無言で頷いた。
 二人は身じろぎせず、ぶつぶつ呟く女をじっと注視する。と、女が勢いよく顔を上げ、天井を仰ぎ見て高らかに叫んだ。
「そうだ、殺しちゃおう!」
「北原!」
「はい!」
 二人同時に女に向かって突進した。紺野は驚いて隙ができた女の腕を掴んで引き寄せ、後ろに捻り上げながら廊下の床に押し倒した。北原は、紺野が女を扉の前から引っぺがした隙に鍵を開けた。続けてドアチェーンの先端についている金具の突起を押して、そのまま溝に沿って上げて引っこ抜いた、次の瞬間。
「ハヤテ! この二人を殺して!」
 紺野に膝で背中を押さえつけられて床にへばりついたまま、女が廊下の先へ向かって叫んだ。
 北原が思わず「え?」と呟いて振り向いた。だが、彼には何も見えないだろう。廊下の先で鎮座していた煙の犬が、咆哮を上げて飛びかかってくる姿が。
 怪訝そうに眉を寄せて首を傾げた北原に、紺野は鋭く叫んだ。
「さっさと行けッ!」
「あ、はいっ」
 弾かれるようにドアを押し開けようとした北原に、犬が大口を開け文字通り宙を飛んで襲いかかる。紺野は舌打ちをかまし、女の腕を解いて体勢を低く保ったまま北原に手を伸ばした。上着の裾を力任せに引っ張る。
「うわっ!?」
 後ろに転がるように倒れ込んだ北原の鼻先を犬が掠り、ドアにぶつかる寸前で上へ急浮上した。すぐに降下し、門番のようにドアの前に浮かびこちらを凝視する。
「紺野さん何……っ」
「いいから中に入れ! 行けッ!」
「は、はい――――ッ!!」
 一瞬戸惑いを見せたが、北原は倒れ込んだ体勢から家の中へと駆け込んだ。こんな訳の分からない状況で指示に従う素直さは、後で褒めてやろうと思う。
「ハヤテ! あいつを殺しなさい!」
 女が床で這いつくばったまま叫んだ。紺野は転がっていた傘を両手で横に握り締め、立ち上がったと同時に犬の口に思い切り突っ込んだ。犬は傘に噛みついたまま口を動かしている。噛み切るつもりか。目の前で触手のようにうようよと蠢く黒い煙が頬を掠る。
「気色悪ぃなこの……っ」
 足を踏ん張り、腕を突っ張って犬をドアに叩きつける。キャン! と犬が甲高く鳴いた。
 見た目がまったくの煙だからまさか物理的な攻撃が効くとは思わなかった。とっさの行動だったが、この点では運がいい。だが、
「逃がさない!」
 対処法が分からないのは運が悪い。女が北原を追って家の中へと駆け込んだ。
「くそっ」
 犬は一度鳴いたにも関わらず、しつこく傘に噛み付いたまま押し返してくる。筋肉が震え、腕の血管が今にも切れそうだ。このままでは押し負ける。
「この馬鹿犬が……っトチ狂ってんじゃ……っ」
 ほんの一瞬だけ力を抜くと、犬が待ってましたとばかりに飛びかかってきた。口から傘が抜けない程度に数歩後退し、瞬時に力を込めてスイングのように傘を横に振り抜いた。
「ねぇ……ッ!」
 傘ごとシューズボックスに飾ってあった花瓶に激突した犬は、再度甲高い声を上げて鳴いた。犬の様子を気にかける義理も余裕もない。紺野はすぐに廊下を走った。
「北原!」
 リビングに駆け込むと、女が両手に包丁を持ってめちゃくちゃに振り回しながら北原を追い掛け回していた。
 カーテンがぴったりと締め切られた噴き出し窓から光はほぼ入らず、薄暗い。唯一つけられたテレビの明りがうっすらと室内を照らしている。しかも、この散らかり様。平たく言うなら汚部屋だ。エアコンが稼働していて真冬並みに冷えている。足元と言わずソファやダイニングテーブル、椅子、キッチン、カウンター、テレビボードに至るまで物とゴミが溢れ返っている。こんな状態で逃げるには限界がある。
 北原はつまずきながらもその辺の物を次々と女に投げつけるが、女が怯む様子はない。
 北原も警察官だ。格闘の心得はあるが、さすがにあんなに暴れられると危険極まりない。何か武器があれば簡単なのだろうが、何がどこにあるのか把握できない。こんな時、銃の携帯が許可されていればと思うが、まだ治安が良いとされる日本では難しい。
 どうする。
 ダイニングテーブルを挟んで息を切らした二人が睨み合う。不意に奥にいた北原が叫んだ。
「紺野さん後ろッ!」
「!!」
 北原の警告に勢いよく振り向くと、枯れた花を数本頭に乗せた犬が目の前に迫っていた。咄嗟に仰け反りながら右手で犬の横面を叩くように押しやり、そのまま力づくで軌道を変えて床に叩きつけた。即座に両手で押さえ込む。犬の悲鳴を聞きながらすぐに上げた視界に映ったのは、紺野に警告をして注意が逸れた隙を突かれた北原だった。
 女がテーブルをぐるりと回り込み振り上げた包丁が、顔を庇った北原の腕を掠った。切れたスーツにじわりと血が滲む。傷口を押さえて痛みに顔を歪ませ、じりじりと後退する。
 手の下で唸り体を乱暴に捩る犬をこのまま押さえつけておくのは難しい。北原も息を切らして、迫る女と互いに隙を狙って睨み合っている。このままでは埒が明かないどころか、体力切れで殺される。
 北原がソファのある場所まで下がった。右手に触れたのは、膝かけだ。北原が膝かけを女に向かって投げつけたのと、紺野の手の下で暴れていた犬が抜け出したのが同時だった。
 女はふわりと視界を覆った膝かけを叩き落とし、北原は紺野の方へ向かって駆け出し、犬は一旦女の近くの宙に逃げ、反転して止まった。
 そして、
「北原ッ!!」
「ハヤテ殺しなさいッ!」
 紺野と女の叫び声が重なった。
 北原の背後から、凄まじいスピードで犬が大口を開け唸りながら突っ込んできた。紺野は駆け出し、腕を伸ばして北原の手を掴むと目一杯引き寄せた。押し倒すようにして抱え込み、犬に背を向けて体を丸める。
 もし増田の首を噛み千切ったのがこの犬ならば、命はない。
 紺野は固く目をつぶった。と、
 ギャンッ!!
 犬が弾かれたような鳴き声を上げ、どさりと床に落ちた音がした。
 頭だの首だの背中だのに来る痛みを覚悟していた紺野は、すぐそばの床で切なく鳴く犬の声に、そろそろと体を起こした。北原もゆっくりと体を起こす。
「ハヤ……ハヤテ! ハヤテ! 嫌ッ!!」
 今までとは打って変わって悲痛な声を上げ、女が犬に駆け寄った。包丁を放り出し、しゃがみ込んで犬を抱き上げる。
「ハヤテ、ハヤテ、駄目よ、嫌。お願いよ……」
 一人にしないで。
 犬を抱きしめ、女が小さくそう呟いた。
「何が……」
 エアコンが低く唸って強風を吐き出した時、リビングの出入口から人が入ってくる気配がした。二人同時に勢いよく振り向いた。
「……誰だ」
 問うたのは紺野だ。
 最大の警戒を持って見上げたその人物は、男とも女とも見分けがつかなかった。ただ、テレビの明りでぼんやりと浮かび上がった紫暗色の瞳が、人ではないことを示していた。
 その人物は問いに答えず床にしゃがみ込んだ二人を一瞥し、女へと視線を向けた。
「犬神……」
 声は男に近い。ぽつりと独りごち、床に散らばる物を一切気にすることなく踏みしめ、女に歩み寄った。
「女」
 感情も抑揚もない声で呼び掛けると、女は顔を上げた。涙を流しながらも殺意が籠ったぎらりと光る目は、獣のようだ。彼はその視線を意にも介さず、すっと手を差し出した。
「犬神を寄越せ」
 言うや否や、女はその手を激しく払いのけた。
「誰よあんた。ハヤテは、渡さない……っ」
 涙声で言い放ち、女は再度犬に顔をうずめた。一方彼は、払いのけられた手を眺め、そのまま女に伸ばした。
 何をするのかと思っていると、片方で女の首根っこを掴み、片方で犬の首を鷲掴みにして引っぺがした。女をソファの上へと放り投げる。女が小さな悲鳴を上げてソファに沈んだ。
 首を鷲掴みにされた犬は、それでも彼を威嚇するように唸っている。鋭い牙を剥き出しにして唸る犬を彼は目の前に掲げ、躊躇なく掴んでいる手に力を込めて首を握り潰した。頭と胴体が切り離され、ふわふわと浮いた。
「!!」
 紺野が息を飲み、女が零れんばかりに目を見開いた。様子が見えない北原は目をしばたいているだけだ。
 形容しがたい声を上げて首を握り潰された犬は――いや、犬の形を成した煙は四散し、呆気なく宙に溶けて消えた。
 彼は無表情のままその様子を眺め、踵を返して出入り口へと向かった。
「おい待……っ」
「待ちなさいよッ!」
 引き止めようと腰を浮かした紺野を女が遮った。
「待ちなさいよ……待ちなさいよぉッ!」
 女はソファから飛び降り、手近にあった酒瓶を掴んで投げつけた。だが、彼は振り向きざまにすんなりとそれを掴み、即座に投げ返した。きゃあっ、と悲鳴を上げて女がしゃがみ込む。派手な音を立てて瓶が割れた。
「女」
 再び、彼は女に語りかける。
蠱毒(こどく)禁忌(きんき)(じゅ)だ。反動は免れん。覚悟しておけ」
 ここまで冷たい言い草があるのかと思うほど、彼の口調は冷淡だった。
「……だって……」
 女はぺたんと床に尻をつき、俯いたまま叫んだ。
「許せなかったの……許せなかったのよぉッ!」
 わあっ、と子供のように声を上げて鳴き叫ぶ女を、彼は一瞥した。その表情は能面のように無表情で、一切の感情が読み取れなかった。
 女の悲痛な泣き声が響く中、彼は興味がなさそうにさっさと部屋を後にした。弾かれるように紺野は彼の後を追った。
「おいっ!」
 紺野が呼び止めると、彼はぴたりと足を止めた。適度な距離を保って紺野も足を止める。
「お前、何者だ。人間じゃねぇな」
 低く問うと、彼はゆっくりと振り向いた。
宗一郎(そういちろう)の式神。名を、右近(うこん)
「宗一郎……賀茂家(かもけ)の当主か。式神が何でこんな所にいる」
「哨戒中だ」
「哨戒?」
「陰陽師たちだけではこと足りん」
 なるほどな、と紺野は息を吐いた。
 会合で宗一郎が言っていた哨戒とはこういうことか。警察でもあるまいし何をするのかと思っていたが。つまり、おかしな術が使われていないか日々見回っているのだろう。たまたまこの現場に居合わせたのは、運が良かったとしか言いようがない。もし右近が現れなければどうなっていたか分からない。煙の犬なんてどう対処したらいいのかなど、分かるわけがない。
 紺野は乱暴に頭を掻いた。
 まさか、こんな所で陰陽術を目にするとは思わなかった。右近が式神であることは疑いようがない。紫暗色の瞳といい、犬を瞬殺したことといい、それにあの怪力。あれは人間では有り得ない。
「右近だったか。ありがとな、助かったよ」
「……」
 黙ったままじっと凝視され、紺野は頬を引き攣らせた。
「何だよ」
「……いや」
 ふい、と視線を逸らされた。式神ってのは無愛想だなこの野郎、と内心ふてくされていると、右近が遠くを見るような目をして言った。
「ところで、人が集まってきているがいいのか」
 え? と紺野が問い返した時、北原がリビングから飛び出してきた。振り向くと、泡を食って外を指差している。お前傷は大丈夫か、とは聞かないでおこう。
「紺野さん、騒ぎを聞いて近所の人が集まってきてます! どうしましょう!?」
「それは……やべぇな……」
 通報すれば女は北原への傷害で逮捕は免れないだろう。
「北原、女はどんな様子だ?」
「え、さっきまでずっと泣きじゃくってましたけど、今は静かにしてますよ」
 紺野は訝しげに眉を寄せた。リビングへ戻ろうとして、そうだと右近を振り向いた。だが、そこには影も形もなかった。
 一瞬驚いたが、人間ではないのならどんな現象が起こっても不思議ではない。
 紺野は急かす北原を軽く叱咤して、リビングへ戻った。
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