第3話
文字数 5,014文字
大河は慎重に体勢を戻し、改めて柴と紫苑を振り向いた。
「あのさ、昨日、双子が無事かって聞いてきたよね」
廃ホテルでの会話だ。今思えば、あの質問はおかしい。どうやら麦茶を気に入ったらしい柴が、空になったグラスを眺めて頷いた。無表情だが残念がっているようにも見える。あとで注ぎ足してやろう。
「二人は俺たちを見てたんじゃないの? だからあの場所に来たんだよね?」
ああ、と思い当たったように紫苑が言った。
「私たちがここへ到着した時、お前たちはもういなかった。扉に結界が張られていたので、何かあったのだと思い探したのだ。大量の悪鬼の気配を追った先に、お前たちがいた」
「あ、なるほど。だからか」
日がな一日監視していたわけではないらしい。あの時はすでに皆室内へ入っていただろうし、双子の姿を確認することはできなかっただろう。
「じゃあ、それまで何してたの?」
「奴らの根城を探っていた」
まさかの答えに、大河は目を瞠った。
「え、ほんとに? 見つかった?」
「いいや。全てではないが、山々を順に探っている。まだそれらしい場所は見当たらぬ」
「そっか……」
疾しいことをしている者は人気のない場所に潜伏する、というイメージは共通らしい。
しかし、一言に山中と言っても広大だ。京都市は山に囲まれているし、京都府全体となるとさらに範囲は広がる。県外ともなると、それこそ見当すら付かない。それに潜伏先が山中とは限らない。
「私たちはこの時代のことはよく分からぬ。後ほど、話の場が設けられているのだろう。詳しいことはその場で話す。お前も京の人間ではないからな」
「うん、分かった」
確かに京都の土地勘は皆無だ。有名な山の名前くらいは分かるが、場所までは正直言って分からない。素直に頷いてふと柴を見やると、視線が合った。そうだ、麦茶だ。
「柴、麦茶のおかわりいる?」
「良いのか」
食い付きが早い。ふっと噴き出し、大河はよっこらせと腰を上げた。
「ちょっと待ってて。紫苑は?」
「いただこう」
了解、と言いながらキッチンに向かい冷蔵庫を開ける。もういっそポットごと持って行った方がいいかもしれない。大河はポットを抱えて踵を返し、ふと足を止めた。
「柴主 、麦茶はお気に召しましたか」
「ああ、ぬくいものも美味であろうな」
「ええ。さらに香ばしさが引き立つでしょう」
「そうだな」
他愛ない会話を静かに交わす光景がとても微笑ましく見えて、大河は思わず頬を緩めた。二人が鬼だということを忘れてしまいそうになるほど、彼らの間に流れる空気は穏やかで、長閑だ。千年前にはここへ影綱や隗、皓がいた。彼らはどんな話をして、どんな時間を過ごしたのだろう。人と鬼という種を越えて築かれた絆は、彼らにとってどんな意味を持っていたのだろう。
日記の訳、今日届くかなと期待しつつ大河は足を進めた。
二人に影綱の日記のことを話したら、読みたいと言うだろうか。あの時代、識字率はかなり低かったはずだ。影綱も読み書きができなかったらしいし、では鬼である柴と紫苑はどうなのだろう。もし文字が読めるのなら、日記があることを知れば読みたいと思うかもしれない。大戦後の影綱がどう生きたのか知りたいだろう。聞いてみようか。
「あ、でも……」
そう思った直後、すぐに思い留まった。影綱は大戦後、柴を封印してしまった罪悪感に苛まれ、その上命令違反の処罰として破門されて島へ送り返されているのだ。
柴は、気にするかもしれない。
やっぱり教えない方がいいだろうか。けれど訳は届いてしまう。ならば届いてから、それは何だと聞かれたら答えればいいし、読みたいと言われたら送ってもらえばいい。
なんだか往生際が悪い気がして、大河は息をついた。どうせ知れてしまうのに、影正を運んでくれた時の悲しげに揺れた瞳がちらついて、割り切れない。
「どうした?」
思い詰めた面持ちで戻った大河を見上げ、柴が声をかけた。はっと我に返り、大河は作り笑いを浮かべて膝をついた。
「あ、ううん。何でもない」
「……そうか」
柴はじっと大河を凝視し、自らグラスを差し出した。
ポットから注がれる麦茶へ視線を落とした柴は、まるで「待て」をする犬のようだ。戦闘時は実に頼もしいのに、こんな姿はなんだか可愛らしい。
「はい、どうぞ」
並々と注いで促すと、柴はさっそく口を付けた。相当お気に召したようで何よりだ。グラスを傾ける柴の白い首筋に、一筋の汗が流れ落ちた。
綺麗に着付けられた着物は、一見涼しそうに見えるが帯を締めている腰回りは暑そうだ。紫苑のグラスへとポットを移しながら、大河は風呂上がりの二人を思い出して密かに遠い目をした。
風呂から上がってタオルで体を拭き、コンビニの袋に入ったままの下着を物色した。ふんどしと似たような履き心地がいいだろうと、ボクサータイプを試着した柴と紫苑は、少々違和感を覚えた顔をしたが、一応納得した。そこまではよかった。衝撃を受けたのはその後だ。当然のようにパンツ一枚で待つ柴に、これまた当然のように紫苑が慣れた手つきで浴衣を着付けだしたのだ。正直、唖然とした。温泉旅行などで浴衣を着ることはあったが、人に着付けてもらうほどのものなのか。腹心はこんなことまでするのか、と感心しているのか呆れているのか分からない声色で呟いたのは怜司だ。
着物も紫苑が着付けたのかな、などと考えながらポットを上げて紫苑に勧める。ついでにと自分の分にも注ぎながら尋ねた。
「柴、紫苑。下着の履き心地どう?」
もう半分ほど飲み干したグラスから口を離し、柴が答えた。
「少々緩いが、じき慣れる。……ぱんつ、と言ったか。手間がなくて良いな」
「そう、良かった。着物の方は? 大きさ合ってるみたいに見えるけど」
ポットを床に置き、その場に胡坐を組んでグラスを持ち上げる。
「ちょうど良い」
「浴衣も合ってたよね。明 さん、なんで分かったんだろう」
口を付けて首を傾げると、今度は紫苑が答えた。
「寸法が合わなければ仕立て直すと言っていた。手持ちの中で大きい物を選んだだけではないのか? 人からすると、私たちは大きいらしいからな」
「ああ、なるほど」
かなり小さかったらしい昔の日本人からは巨人に見えただろう鬼のイメージは、今なお受け継がれているようだ。
柴は晴 と体格が似ているから、晴の着物だろう。では、紫苑のは誰のだろう。目測でも百九十センチ以上あるし体格もいい。明は古い物だと言っていたから、歴代の誰かの物か。晴があの体格なら、先祖が大きくても不思議ではない。ということは、陽もこれからもっと大きくなる。
成長してもあの可愛らしさは変わらないだろうが、あっという間に越されてしまいそうな身長と体格に、少々複雑な思いを抱えて大河はグラスを床に置いた。
と、また雀が庭に飛び込んできて、柴がそちらに顔を向けた。揺れた髪が視界に入り、大河は悩ましい声をもらした。毛先が床についてしまっている。日差しを浴びる漆黒の長い髪は艶やかに光り、しなやかで、癖もなく真っ直ぐで綺麗だ。しかし。
「ねぇ、二人とも」
不意に掛けた声に、二人が同時に大河に視線を向けた。
「髪、それだけ長いと邪魔じゃない? 切れば?」
風呂に入っている間もずっと気になっていた。あまりにも長すぎるため使うシャンプーの量が半端なく時間もかかるし、体を洗う時も、髪ゴムやシャワーキャップなどというものがないため非常に邪魔そうだった。今までどうしていたのだろう。そもそも、まとめている紫苑はともかく、柴は戦う時邪魔だと思わないのか。
何でもないことのように言った大河を、紫苑がグラスを握ったまま呆然とした顔で凝視し、柴は自分の髪をひと房掬い上げまじまじと見つめている。なんだこの反応。
奇怪なものでも見るかのような紫苑の視線を受けて、大河は顔を強張らせた。何かおかしなことでも言っただろうか。
「も、もしかして、なんか意味があった? 願掛けしてるとか、実は御利益があるとか……」
まさか髪を切ると弱くなるとかではあるまい。恐る恐る尋ねると、紫苑が目を据わらせた。
「貴様、易々と柴主の美しい御髪 を切れと口にするとは何事だ? 勿体ないとは思わぬのか、勿体ないとは!」
なんか地雷踏んだっぽい! ずいっと上半身を前倒しにして迫ってきた紫苑に、大河は同じだけ身を引いた。近い、怖い、体が痛い。
「だ、だって髪洗う時とかめっちゃ時間かかるし」
「柴主の御髪を洗わせていただくことに何の不満があろうか! この美しい御髪を美しく保つための時間などいくらあっても足りぬわ!」
言っている意味がさっぱり分からない。もしや紫苑は髪フェチか。なに言ってんのこの鬼 怖い、と色んな意味で戦慄する大河の横で、当の本人は沈黙したまま手の中の自分の髪をまだ見ている。なんか言えよ。
とりあえず完全に地雷を踏んだらしい紫苑の興奮を収めねば。寸分の狂いなく凝視する紫苑の視線から逃れようと視線を泳がせ、大河は名案を思い付いた。
「さ、柴って、ずっとこの長さなの?」
脈絡のない質問に、紫苑が怪訝そうに眉を寄せた。
「そうだが」
「じゃあさ、見てみたくない? 柴が髪を短くしたとこ。柴はもちろんだけど、紫苑も格好良いからきっと似合うよ。俺は見てみたいなー……なんて……」
人差し指を立ててわざとらしい笑みを浮かべた大河に、紫苑が虚をつかれた顔をした。
「……御髪の短い、柴主……」
何か確認するように呟き、紫苑は柴をちらりと見やった。見たことがない主の姿に心が揺れているようだ。ひとまず鎮火は成功したようで、思案顔で体勢を戻す紫苑にこっそりと安堵の息をつく。
「言われてみれば、久しく見ておらぬな……」
「え? 何を?」
突然神妙にぽつりと呟いた柴に、大河は首を傾げた。柴は持っていた自分の髪を落とし、紫苑へ視線を投げる。
「髪の短い、お前を」
真っ直ぐ見据えてくる瞳に込められた言葉を察した紫苑は、困ったように眉尻を下げ、膝の上で握った拳に目を落とした。
「わ、私が髪を切るのは、一向に構わないのです。御髪の短い柴主のお姿も……できることなら見てみたいと……。しかし、これほど美しい柴主の御髪を切るなど……っ、私には到底受け入れ難い所業……!」
やっぱりただの髪フェチじゃねぇか。胸の内の葛藤を吐き出すにつれ、息苦しそうに顔を歪ませる紫苑に、大河は白けた視線を投げた。宗史といい樹といい、あれか、強い奴ってのはどこかおかしくないと駄目なのか。
胸の辺りを掴み、苦悶する紫苑を見て柴が小首を傾げた。
「紫苑。お前が見たいと言うのなら、私はそれを叶えてやりたいと思う……駄目か?」
これで反論できる奴がいたらぜひ教えて欲しいと思うくらいの口説き文句に、目を見開いた紫苑が弾かれたように顔を上げた。
「柴主……なんと身に余るお言葉……っ」
紫苑は声を震わせて目に涙を滲ませた。そして大河は、昔の主従関係って極端だもんな、と冷静に自分に言い聞かせつつも、未だ開かれる気配のないダイニングの扉へ虚ろな視線を投げた。誰かこの場を何とかして欲しい。
やがて紫苑は居住まいを正し、恭しく頭を垂れた。
「柴主のお心遣い、謹んで頂戴致します」
「そうか。楽しみだ」
柴が満足気に頷いた。なんだかもう訳が分からない。今は二十一世紀でここは縁側のはずだ。煌びやかな宮中ではない。能面のような顔で沈黙する大河に、体を起こした紫苑が顔を向けた。
「大河」
「はいっ!?」
唐突に呼ばれ、大河は我に返って肩を跳ね上げた。覚悟を決めた強い眼差しに、ごくりと喉を鳴らす。
「柴主の御髪をぞんざいに扱うことのない、確かな腕の職人がいるのだろうな?」
「え……」
言われて初めて気付く。確かに角がある以上、店でカットしてもらうわけにはいかない。美容師の知り合いがいるわけでもない。これまでの紫苑の態度を見る限り、もし失敗しようものなら一瞬で絞め殺されて末代まで祟られそうだ。
「え……と……」
嫌な汗が背中を伝った。せわしなく視線を泳がせる大河に、紫苑が鋭く目を細める。
「貴様、もしや心当たりもないのに切れなどと口にしたのではあるまいな」
「ま……っまさかそんなことあるわけないじゃん! ほら、は、華さんとか夏也さんとか! 器用だからきっと格好良く切ってくれるよ!」
多分、と心の中で付け加えておく。胡乱な目を向けてくる紫苑から不自然に顔を逸らした。
「あのさ、昨日、双子が無事かって聞いてきたよね」
廃ホテルでの会話だ。今思えば、あの質問はおかしい。どうやら麦茶を気に入ったらしい柴が、空になったグラスを眺めて頷いた。無表情だが残念がっているようにも見える。あとで注ぎ足してやろう。
「二人は俺たちを見てたんじゃないの? だからあの場所に来たんだよね?」
ああ、と思い当たったように紫苑が言った。
「私たちがここへ到着した時、お前たちはもういなかった。扉に結界が張られていたので、何かあったのだと思い探したのだ。大量の悪鬼の気配を追った先に、お前たちがいた」
「あ、なるほど。だからか」
日がな一日監視していたわけではないらしい。あの時はすでに皆室内へ入っていただろうし、双子の姿を確認することはできなかっただろう。
「じゃあ、それまで何してたの?」
「奴らの根城を探っていた」
まさかの答えに、大河は目を瞠った。
「え、ほんとに? 見つかった?」
「いいや。全てではないが、山々を順に探っている。まだそれらしい場所は見当たらぬ」
「そっか……」
疾しいことをしている者は人気のない場所に潜伏する、というイメージは共通らしい。
しかし、一言に山中と言っても広大だ。京都市は山に囲まれているし、京都府全体となるとさらに範囲は広がる。県外ともなると、それこそ見当すら付かない。それに潜伏先が山中とは限らない。
「私たちはこの時代のことはよく分からぬ。後ほど、話の場が設けられているのだろう。詳しいことはその場で話す。お前も京の人間ではないからな」
「うん、分かった」
確かに京都の土地勘は皆無だ。有名な山の名前くらいは分かるが、場所までは正直言って分からない。素直に頷いてふと柴を見やると、視線が合った。そうだ、麦茶だ。
「柴、麦茶のおかわりいる?」
「良いのか」
食い付きが早い。ふっと噴き出し、大河はよっこらせと腰を上げた。
「ちょっと待ってて。紫苑は?」
「いただこう」
了解、と言いながらキッチンに向かい冷蔵庫を開ける。もういっそポットごと持って行った方がいいかもしれない。大河はポットを抱えて踵を返し、ふと足を止めた。
「
「ああ、ぬくいものも美味であろうな」
「ええ。さらに香ばしさが引き立つでしょう」
「そうだな」
他愛ない会話を静かに交わす光景がとても微笑ましく見えて、大河は思わず頬を緩めた。二人が鬼だということを忘れてしまいそうになるほど、彼らの間に流れる空気は穏やかで、長閑だ。千年前にはここへ影綱や隗、皓がいた。彼らはどんな話をして、どんな時間を過ごしたのだろう。人と鬼という種を越えて築かれた絆は、彼らにとってどんな意味を持っていたのだろう。
日記の訳、今日届くかなと期待しつつ大河は足を進めた。
二人に影綱の日記のことを話したら、読みたいと言うだろうか。あの時代、識字率はかなり低かったはずだ。影綱も読み書きができなかったらしいし、では鬼である柴と紫苑はどうなのだろう。もし文字が読めるのなら、日記があることを知れば読みたいと思うかもしれない。大戦後の影綱がどう生きたのか知りたいだろう。聞いてみようか。
「あ、でも……」
そう思った直後、すぐに思い留まった。影綱は大戦後、柴を封印してしまった罪悪感に苛まれ、その上命令違反の処罰として破門されて島へ送り返されているのだ。
柴は、気にするかもしれない。
やっぱり教えない方がいいだろうか。けれど訳は届いてしまう。ならば届いてから、それは何だと聞かれたら答えればいいし、読みたいと言われたら送ってもらえばいい。
なんだか往生際が悪い気がして、大河は息をついた。どうせ知れてしまうのに、影正を運んでくれた時の悲しげに揺れた瞳がちらついて、割り切れない。
「どうした?」
思い詰めた面持ちで戻った大河を見上げ、柴が声をかけた。はっと我に返り、大河は作り笑いを浮かべて膝をついた。
「あ、ううん。何でもない」
「……そうか」
柴はじっと大河を凝視し、自らグラスを差し出した。
ポットから注がれる麦茶へ視線を落とした柴は、まるで「待て」をする犬のようだ。戦闘時は実に頼もしいのに、こんな姿はなんだか可愛らしい。
「はい、どうぞ」
並々と注いで促すと、柴はさっそく口を付けた。相当お気に召したようで何よりだ。グラスを傾ける柴の白い首筋に、一筋の汗が流れ落ちた。
綺麗に着付けられた着物は、一見涼しそうに見えるが帯を締めている腰回りは暑そうだ。紫苑のグラスへとポットを移しながら、大河は風呂上がりの二人を思い出して密かに遠い目をした。
風呂から上がってタオルで体を拭き、コンビニの袋に入ったままの下着を物色した。ふんどしと似たような履き心地がいいだろうと、ボクサータイプを試着した柴と紫苑は、少々違和感を覚えた顔をしたが、一応納得した。そこまではよかった。衝撃を受けたのはその後だ。当然のようにパンツ一枚で待つ柴に、これまた当然のように紫苑が慣れた手つきで浴衣を着付けだしたのだ。正直、唖然とした。温泉旅行などで浴衣を着ることはあったが、人に着付けてもらうほどのものなのか。腹心はこんなことまでするのか、と感心しているのか呆れているのか分からない声色で呟いたのは怜司だ。
着物も紫苑が着付けたのかな、などと考えながらポットを上げて紫苑に勧める。ついでにと自分の分にも注ぎながら尋ねた。
「柴、紫苑。下着の履き心地どう?」
もう半分ほど飲み干したグラスから口を離し、柴が答えた。
「少々緩いが、じき慣れる。……ぱんつ、と言ったか。手間がなくて良いな」
「そう、良かった。着物の方は? 大きさ合ってるみたいに見えるけど」
ポットを床に置き、その場に胡坐を組んでグラスを持ち上げる。
「ちょうど良い」
「浴衣も合ってたよね。
口を付けて首を傾げると、今度は紫苑が答えた。
「寸法が合わなければ仕立て直すと言っていた。手持ちの中で大きい物を選んだだけではないのか? 人からすると、私たちは大きいらしいからな」
「ああ、なるほど」
かなり小さかったらしい昔の日本人からは巨人に見えただろう鬼のイメージは、今なお受け継がれているようだ。
柴は
成長してもあの可愛らしさは変わらないだろうが、あっという間に越されてしまいそうな身長と体格に、少々複雑な思いを抱えて大河はグラスを床に置いた。
と、また雀が庭に飛び込んできて、柴がそちらに顔を向けた。揺れた髪が視界に入り、大河は悩ましい声をもらした。毛先が床についてしまっている。日差しを浴びる漆黒の長い髪は艶やかに光り、しなやかで、癖もなく真っ直ぐで綺麗だ。しかし。
「ねぇ、二人とも」
不意に掛けた声に、二人が同時に大河に視線を向けた。
「髪、それだけ長いと邪魔じゃない? 切れば?」
風呂に入っている間もずっと気になっていた。あまりにも長すぎるため使うシャンプーの量が半端なく時間もかかるし、体を洗う時も、髪ゴムやシャワーキャップなどというものがないため非常に邪魔そうだった。今までどうしていたのだろう。そもそも、まとめている紫苑はともかく、柴は戦う時邪魔だと思わないのか。
何でもないことのように言った大河を、紫苑がグラスを握ったまま呆然とした顔で凝視し、柴は自分の髪をひと房掬い上げまじまじと見つめている。なんだこの反応。
奇怪なものでも見るかのような紫苑の視線を受けて、大河は顔を強張らせた。何かおかしなことでも言っただろうか。
「も、もしかして、なんか意味があった? 願掛けしてるとか、実は御利益があるとか……」
まさか髪を切ると弱くなるとかではあるまい。恐る恐る尋ねると、紫苑が目を据わらせた。
「貴様、易々と柴主の美しい
なんか地雷踏んだっぽい! ずいっと上半身を前倒しにして迫ってきた紫苑に、大河は同じだけ身を引いた。近い、怖い、体が痛い。
「だ、だって髪洗う時とかめっちゃ時間かかるし」
「柴主の御髪を洗わせていただくことに何の不満があろうか! この美しい御髪を美しく保つための時間などいくらあっても足りぬわ!」
言っている意味がさっぱり分からない。もしや紫苑は髪フェチか。なに言ってんのこの
とりあえず完全に地雷を踏んだらしい紫苑の興奮を収めねば。寸分の狂いなく凝視する紫苑の視線から逃れようと視線を泳がせ、大河は名案を思い付いた。
「さ、柴って、ずっとこの長さなの?」
脈絡のない質問に、紫苑が怪訝そうに眉を寄せた。
「そうだが」
「じゃあさ、見てみたくない? 柴が髪を短くしたとこ。柴はもちろんだけど、紫苑も格好良いからきっと似合うよ。俺は見てみたいなー……なんて……」
人差し指を立ててわざとらしい笑みを浮かべた大河に、紫苑が虚をつかれた顔をした。
「……御髪の短い、柴主……」
何か確認するように呟き、紫苑は柴をちらりと見やった。見たことがない主の姿に心が揺れているようだ。ひとまず鎮火は成功したようで、思案顔で体勢を戻す紫苑にこっそりと安堵の息をつく。
「言われてみれば、久しく見ておらぬな……」
「え? 何を?」
突然神妙にぽつりと呟いた柴に、大河は首を傾げた。柴は持っていた自分の髪を落とし、紫苑へ視線を投げる。
「髪の短い、お前を」
真っ直ぐ見据えてくる瞳に込められた言葉を察した紫苑は、困ったように眉尻を下げ、膝の上で握った拳に目を落とした。
「わ、私が髪を切るのは、一向に構わないのです。御髪の短い柴主のお姿も……できることなら見てみたいと……。しかし、これほど美しい柴主の御髪を切るなど……っ、私には到底受け入れ難い所業……!」
やっぱりただの髪フェチじゃねぇか。胸の内の葛藤を吐き出すにつれ、息苦しそうに顔を歪ませる紫苑に、大河は白けた視線を投げた。宗史といい樹といい、あれか、強い奴ってのはどこかおかしくないと駄目なのか。
胸の辺りを掴み、苦悶する紫苑を見て柴が小首を傾げた。
「紫苑。お前が見たいと言うのなら、私はそれを叶えてやりたいと思う……駄目か?」
これで反論できる奴がいたらぜひ教えて欲しいと思うくらいの口説き文句に、目を見開いた紫苑が弾かれたように顔を上げた。
「柴主……なんと身に余るお言葉……っ」
紫苑は声を震わせて目に涙を滲ませた。そして大河は、昔の主従関係って極端だもんな、と冷静に自分に言い聞かせつつも、未だ開かれる気配のないダイニングの扉へ虚ろな視線を投げた。誰かこの場を何とかして欲しい。
やがて紫苑は居住まいを正し、恭しく頭を垂れた。
「柴主のお心遣い、謹んで頂戴致します」
「そうか。楽しみだ」
柴が満足気に頷いた。なんだかもう訳が分からない。今は二十一世紀でここは縁側のはずだ。煌びやかな宮中ではない。能面のような顔で沈黙する大河に、体を起こした紫苑が顔を向けた。
「大河」
「はいっ!?」
唐突に呼ばれ、大河は我に返って肩を跳ね上げた。覚悟を決めた強い眼差しに、ごくりと喉を鳴らす。
「柴主の御髪をぞんざいに扱うことのない、確かな腕の職人がいるのだろうな?」
「え……」
言われて初めて気付く。確かに角がある以上、店でカットしてもらうわけにはいかない。美容師の知り合いがいるわけでもない。これまでの紫苑の態度を見る限り、もし失敗しようものなら一瞬で絞め殺されて末代まで祟られそうだ。
「え……と……」
嫌な汗が背中を伝った。せわしなく視線を泳がせる大河に、紫苑が鋭く目を細める。
「貴様、もしや心当たりもないのに切れなどと口にしたのではあるまいな」
「ま……っまさかそんなことあるわけないじゃん! ほら、は、華さんとか夏也さんとか! 器用だからきっと格好良く切ってくれるよ!」
多分、と心の中で付け加えておく。胡乱な目を向けてくる紫苑から不自然に顔を逸らした。