第4話

文字数 2,191文字

「あっ、越智さん、佐伯さん」
 不意に名前を呼ばれて振り向くと、見知った顔の女の子――いや、もう立派な女性となったバナナマフィンの彼女が、ひらりと手を振った。
「おや、(もえ)ちゃん」
「お久しぶりです!」
「久しぶり」
 顔を輝かせて小走りに駆け寄り、目の前で立ち止まって相好を崩す。そして秘書を見て、小首を傾げた。
「彼は気にしなくていいよ。それより、元気そうだね。去年の夏祭りは来てなかったみたいだけど、忙しかったの?」
 どうやらエクシードの副社長であることは話していないらしい。お気になさらずといった顔で頷いた秘書に不思議そうにしつつ、萌は言った。
「去年は、バイトとお菓子作りの特訓でいっぱいいっぱいになっちゃって。でも、そのおかげで社員登用の面接に受かりました!」
「おお!」
 満面の笑みでピースを突き出した萌のめでたい報告に、茂と越智の感嘆の声が重なり、秘書が拍手をした。
「おめでとう、良かったねぇ」
「頑張ったんだね。おめでとう」
「ありがとうございます。それでね、これをぜひ受け取ってもらいたくて。会えて良かった」
 二人の祝いの言葉にはにかんで、萌は鞄から名刺入れを取り出し、一枚ずつ茂と越智に差し出した。
 手渡された名刺には、ティーカップを片手に木陰で休む女の子がデザインされ、店の住所や電話番号の他に、「株式会社 Q.R.S」「Cafe Meriggiare」「パティシエ 井関 萌」と印字されている。
「メリッジャーレって、高校の時からずっとバイトしていたところだね。茂さん、ご存知ですか? あそこのケーキ美味しいんですよ。私の妻もファンで」
「そうなんですか?」
「ええ」
「へぇ……」
 茂は少しだけ不思議そうな顔で名刺に視線を落とした。そんなに美味しいのなら、樹から聞いていてもおかしくないのだが。まあ、さすがの彼も全てのカフェやスイーツ店を把握しているわけではないだろう。
 萌が、名刺入れを鞄にしまいながら言った。
「あたし、皆にお礼を言わなきゃって、ずっと思ってて」
 ファスナーを閉めた鞄の前で手を組んで、恥ずかしそうに視線を落とす。
「小さい頃からお菓子作りが好きで、いつかケーキ屋さんになるのが夢だったんです。でも正直言って、施設に入ってからは、ああもう駄目だなって思っていました。それでも完全に諦めきれなくて、未練がましく作ったお菓子を褒めてくれるんですよ。園の皆や、学校の友達が。でも、現実的に考えてやっぱり進学って難しいじゃないですか。お金の問題とか。だから、社員登用制度のことは知ってたから、パティシエにはなれなくても、いつか大好きなメリッジャーレで社員になれればそれでいいやって、自分に言い聞かせてたんですけど……」
 萌は一旦言葉を切り、茂に恐る恐る視線をやった。
「覚えてます? マフィン」
「うん、もちろん。すごく美味しかったよ。今でも覚えてる。甘さ控えめで、優しい味だったね」
 笑顔で言ってやると、萌はほっと表情を緩ませた。
「あたし、あの時思ったんです。楽しい時はもちろんですけど、疲れてる時とか、イラついてる時とか、あと、悲しい時。そんな時に、ほっとできて、少しでも笑顔になれるようなお菓子が作りたいって」
 家財を処分する時、事前に春平と弘貴から聞いていたらしい。萌と男の子は、先に恵美と真由の墓前で手を合わせてくれた。大切に使います、と言って。
 施設の子供たちと、茂。それぞれ悲しい事情を抱え、心に傷を負っていた。それを知り、自分自身も辛い思いをしてきたからこそ、誰かのためにと思ったのか。
「それに、佐伯さんからお菓子作りの道具やオーブンレンジをいただいたおかげで、ずっとお菓子を作り続けられたんです。あのオーブンレンジ、すっごい酷使してるはずなんですけど、現役で頑張ってくれてますよ」
「あはは。そんなに使ってもらったら、オーブンレンジも本望だね。ありがとう、嬉しいよ」
 茂は、鼻のつんとした痛みを押し込むように、精一杯の笑顔を浮かべた。
 恵美と真由が使っていた、お菓子作りの道具。特別高価な物でも、珍しい専門の道具でもない。百均でも手に入るような物だ。オーブンレンジだって、高価な物ではない。けれど、呆れるくらい二人でネットや家電量販店であれこれ吟味し、決まるまでに一カ月かかった。
 恵美も真由も、もう決して戻らない。けれど、彼女たちが使っていた物が、彼女たちとの日々が次へと繋がり、一人の少女の人生を支えたのだ。これ以上の弔いが、あるだろうか。
 へへっと照れ臭そうに笑い、萌はすっと背筋を伸ばした。
「大変なこともあったけど、越智さんや佐伯さんみたいに支援してくれる人たちのおかげで、あたしは夢を叶えられました。本当に、ありがとうございます」
 深々と頭を下げた萌を、茂や越智、そして秘書も、優しい眼差しで見つめる。
「萌ちゃん」
 越智が声をかけると、萌はゆっくりと頭を上げた。
「今まで、よく頑張ったね。これからもその調子で頑張って欲しい。でも、園長先生に言われたことを忘れないようにね。用がなくてもいい。いつでもここに帰ってきなさい。君は一人じゃないことを、忘れないで欲しい。これまで通り、皆が待ってくれているから。いいね」
 越智の目をじっと見つめていた萌の瞳が、ゆらりと揺れた。ぐっと奥歯を噛み締めて深く息を吸い込むと、
「はい」
 満面の笑みを浮かべて、大きく頷いた。
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