第3話

文字数 4,037文字

 また、ずいぶんと可愛らしい主候補に召喚されたものだと思った。
 太陽の陽射しを反射して眩しい光を放つ漆黒の髪。白く滑らかな肌、形の良い鼻、少し薄い唇は赤く、綺麗な弧を描いた眉は芯が強そうだ。そして、こちらを真っ直ぐ見上げる大きな瞳は凛として、一点の曇りもない。黒曜石を思わせるほど真っ黒で、美しい。
 端正な顔立ちのせいで神経質そうにも見えるが、まだ幼さが前面に出ている。十かそこらだろうか。手足や首は儚いほど細く、全体的に小柄だ。
 まさか、初めての主候補がこんなに美しい少女だとは。
 式神を召喚するには、相応の霊力と素質が必要になってくる。しかし、召喚したとしても式神が否と判断すれば契約は成立しない。陰陽師の霊力と素質を見極め、その上でさらに重要なのは相性だ。どれだけ有能な陰陽師であっても、個々の人格がある以上、相容れなければ亀裂が生まれる。ひいては、有事の際に命を落としかねない。それを加味した上で神々は陰陽師へ真言を下ろすのだろうが、実際に会ってみなければ分からないこともある。
 神々にとって、眷族神や精霊は己の子同然だ。人と同じ、失えば心が痛む。ゆえに、式神となる眷族神には拒否する権利が与えられている。
 さて、この少女はどうだろう。
 名もない神は、遠慮のない視線から逸らすことなく、澄ました紫暗色の瞳で見つめる。
「……女性」
 確認するようにぽつりと呟いた声は高い。年に似合わない言葉遣いのせいで、落ち着いているようにも冷たくも聞こえる。
「やはり水神か」
 不意に縁側から届いた声に、彼女が振り向いた。いつの間にか縁側で佇んでいたのは、着物をまとった三十代くらいの男だ。年齢からすると、少女の父親のようだ。
「また、美しい女神だな」
 何のてらいもなく讃美を口にしながら、男は草履をつっかけて庭へ下りた。着物の袖に交互に腕を入れながらこちらへ近寄ってくる。彼女の端正な顔立ちと真っ直ぐな眼差しは、父親譲りか。
 男は少女の隣で足を止め、如才なく微笑んだ。
「お初にお目にかかる。私は賀茂家当主、賀茂宗一郎だ」
「賀茂家の」
 神はわずかに驚いて目をしばたき、少女へ視線を落とした。賀茂家の陰陽師だったのか。ならば霊力は申し分ないだろう。
 男は少女を見やり、背中に手を添えた。
「これは、私の嫡男の宗史だ」
「――えっ」
 思わず素直な声が漏れた。目を丸くした神に、少女――いや、宗史と紹介された少年が見るからにむっとした。しまった。
『お前は、純粋で優しい。それは良いことだが、少々素直すぎる。その素直さが裏目に出ることも、利用しようとする者もいるだろう。努々(ゆめゆめ)忘れるな』
 そう言われ続け、召喚された時はあくまでも冷静に、神としての威厳を保ち接しようと心に決めていたのに。さっそくやってしまった。性別を間違えた上に、それを本人に知られるなんて。
「あ、あの……っ」
 神は、慌てて組んだ両手を胸に持ち上げ、心持ち身を乗り出した。眉尻は下がり、視線があちこち泳いでいる。
「も、申し訳ございません。あまりにも可愛らしいので、てっきり……」
 言うや否や、ぶはっと宗一郎が吹き出し、神ははっと我に返った。宗史が宗一郎を横目でじろりと睨み上げている。逃げるように向こう側へ顔を逸らし、口を押さえて肩を震わせる宗一郎を見て、神はますます肩身を狭くした。
「すみません……」
 また余計なことを口走ってしまった。
 宗史がすっかりしおれてしまった神へ顔を戻し、小さく息を吐き出した。
「……よく間違われる。気にしなくていい」
 ぶっきらぼうに言うと、宗史はふいと顔を逸らした。もしや、気を使ってくれたのだろうか。だが、それはそれでますます傷付けたのでは。
「本当に申し訳ございません!」
 勢いよく顔を覆い、ああっ、と悲痛に吐き出した神に、宗史がぎょっとして一歩引いた。本当になんてことを、申し訳ございません。と情けない声で繰り返す神を困惑顔で見上げる。
 古から続く陰陽師家である賀茂家。その嫡男の性別を間違えるなどという無礼を働いた挙げ句、傷付けるような気の使わせ方をさせてしまった。叱責されてもおかしくないのに。彼はきっととても優しいのだ。とても優しくて、美しい。そんな彼の式神として人の世を護れる機会を戴いたというのに、なんて不甲斐ない。これでは契約なんてしてもらえない。
 そう悲観していると、不意に「ははっ」と短い笑い声が聞こえ、神は手の中で瞬きをした。盗み見るように、恐る恐る顔を上げる。するとばっちり目が合い、とたん宗史が弾かれたように屈託のない笑い声を上げた。
 気が強く神経質そうに見えていた表情の代わりにあるのは、あどけない笑顔。何故こんなに笑われているのか分からないけれど、彼の笑顔がとても眩しくて、神は思わず目を細めた。
 無邪気に笑う宗史と、それを見惚れたように見つめる神の姿を、宗一郎が穏やかに微笑んで見守っている。
 ひとしきり笑い、宗史が気を落ち着かせるように息を吐き出した。そして改めて姿勢を正し、真っ直ぐな眼差しで神を見上げた。
「ぜひ、契約を」
 微笑みと共に告げられた言葉に、神は目を丸くした。
「よ、よろしいのですか」
「俺が、貴方のお眼鏡にかなうのなら」
 謙遜しつつ差し出された手を呆然と見つめ、やがて神は破顔した。
「ぜひ」
 両手で手を取ると、宗史はほっと息を吐いた。
「これからよろしく。――椿」
 事前に決めていたのだろうか、宗史が口にするや否や、胸元に暖かなぬくもりを感じた。あぶり出すように、じわじわと名が刻まれていく。
「こちらこそ、よろしくお願い致します。宗史様」
 椿――それが、初めて与えられた名であった。
 宗一郎たち家族をはじめ、土御門家や式神。皆、優しく迎え入れてくれた。式神として人に仕え、寄り添い、人の世を見るのはとても新鮮で、一日一日が驚きと楽しさの連続だった。けれどそれ以上に、契約した瞬間から封印されてしまった力が、宗史の成長と共に戻ってくるあの感覚は、何ごとにも代えがたい喜びだった。自身の解放感はもちろんだが、主の成長を目の前で見届けることができる幸せは、式神しか味わえない。それが心から慕っている主なら、なおさらだ。
 けれどその一方で、際限のない人の醜悪な姿を知った。
 人を恨み、憎み、妬み、羨み、蔑み、貶める。どれだけ調伏しても終わりがない。勝手に邪気を纏い、心を病む人々。悪鬼となり果てた負の感情や人の魂と対峙し、傷付き、心を痛める主を見るのは辛かった。そんなふうに悪鬼から人々を護り続けても、称賛も感謝も微々たるものだ。
 史実には残されていない、陰陽師の役目。
 それでも誇りを失わず、文句一つ口にしない主に仕えるのは、式神として誇らしかった。初めての主が彼で良かったと、心からそう思った。
「久遠の、幸せ……」
 あてがわれた部屋で、椿は一人呟いた。手の中には、一本のつげ櫛が収まっている。冬馬から贈られ、宗史と大河が新しい意味をこじつけてくれた。
 きっと、他人からしてみれば馬鹿馬鹿しいと思うだろう。昔から広まっている意味と、たかがその場のノリでつけられた意味と。どちらがより意味を持つかと言われれば、前者に決まっている。けれど、自分にとって大切なのは、大切な人がつけてくれたという部分。いつどこの誰が言い出したのか分からない不吉なこじつけよりも、こちらの方がよほど強い意味を持つ。
 椿は口角を緩ませた。おもむろに右腕を首の後ろへ回し、背中の中程まで伸びた髪を左から右へ持ってくる。さらりと右肩の前へ流し、ひと撫でしてから櫛を通す。
 いつだったか、志季に忠告された。
『お前、ほどほどにしとけよ。人の寿命はあっという間だぞ』
 不測の事態が起きない限り、人の寿命は神より先に尽きる。情を寄せれば寄せるほど、別れが辛くなる。主が人である以上、その時は必ず訪れるのだ。分かっている。けれど、あんなに優しい主に情を寄せるなという方が無理だ。それに、志季に言われたくない。
『その台詞、そっくりそのままお返ししますよ』
 にっこり笑って言い返すと、志季は小馬鹿にしたような顔をして鼻で笑った。
『俺があいつに情があるって言いたいのか? 冗談だろ。いいか。初めて俺を召喚した時、あいつなんつったと思う? なんだ男かって言いやがったんだぞ。なんだってなんだよ、男で悪い、ってこら晴! お前未成年だろうが、酒なんざ百年早ぇわ!』
 晴が特別なのか、それともどんな主に対してもあんな感じだったのかは分からない。けれど、憎まれ口を叩きながらも晴に情を寄せているのは一目瞭然なのに。言葉と行動が伴っていないと思うけれど、あれが彼なりの距離の置き方なのだろう。
 式神にも個々に人格がある。主とどう接するかはそれぞれで、結果傷付いても自己責任だ。そう分かった上で芽生えてしまった情は、もう見て見ぬふりはできなかった。
 影綱の式神だった(きば)は、どうだったのだろう。
 椿は丁寧に櫛を通し終えると、うなじの少し上のあたりで一つにまとめ、青い組紐を巻き付ける。覚悟を決めるようにきゅっときつく縛ってから、余った端を結んだ。
 いつかは先に尽きる命と知りながら抱えた情。彼を失った時、どれだけの悲しみに襲われるか手に取るように分かる。だが、それがこの世の理ならば、決して逃げることはできない。ならばせめて、主のためにできることを全力でまっとうし、主の願いを余すことなく叶えたい。
 いつか来るその時まで、笑顔でいてもらえるように。いつか来るその時に、笑顔で送ってあげられるように。
 椿は大切に櫛を袂に入れてから、胸に手を当てた。目を伏せ、ゆっくりと深呼吸をする。
 街の喧騒が一切届かない場所。届くのは、枝葉が擦れて立てる乾いた音と、大雨のように降り注ぐ蝉の声。そして、砂を踏む足音と、聞き慣れない人の声だ。
 無理に演じようとするから、失敗する。ならば――。
 椿は深く吸い込んだ息を長く吐き出して、瞼を持ち上げた。
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