第9話

文字数 4,217文字

 廃ホテルに行くまでの道の途中に、大きなダムがある。
 宇治川、淀川の洪水量抑制や、京都府山城地域への供給のために作られた多目的ダムだ。側には霊園や自然公園、散歩道を有した森林公園がある。ダムから目的地の廃ホテルまでの宇治川は、地図で見るとUの字になっており、それに沿って道路が上に走っている。人外ならば、Uの間を跨げば最短で到着する。
 しかし、訪れたことがあるのは廃ホテルの調査で主たちに同行した時の一度だけで、場所が曖昧だった。とりあえずダムを目指し、宇治川沿いに進むことにした。
 闇に紛れるには陽が高い。志季と椿は、行き交う車に見つからないよう、道路脇に迫る山の木々を跳び移りながら移動した。
 ちょうどUの字の底辺に当たる場所に到着した時、異常な数の悪鬼の気配を感じた。廃ホテルからにしては数が多すぎる。しかもあの場所にいるのは悪鬼ではなく浮遊霊だったはずだ。
 警戒心を持って慎重に進む。と、後方から、おおおぉぉ、と地を這うような低い唸り声が周囲に響き渡った。振り向くと、真っ黒で巨大な雨雲のような悪鬼の塊が、物凄い勢いで迫っていた。あんな悪鬼は初めて見る。しかも、どう見てもこちらを狙ってきている。
「げっ! どっから来たあいつら!」
「このままでは人々が危険です、対岸へ移動しましょう! あちらには何もないはずです!」
「了解!」
 道路には、数台列を成した車が両車線を行き交っている。多少目撃されるのは仕方ない、巻き込むよりはマシだ。どこから来たのか知らないが、この大きさならばここに来るまでの間に目撃されてしまっている。余計な騒ぎになっていなければいいが。
 念のためにできるだけ高く飛び上がり、一気に森の中へと飛び込んだ。魚の群れのように悪鬼の塊も方向を変え、森を食らう勢いで二人を追った。
 こうして悪鬼をぶつけてきたということは、こちらが正解だったという証拠だ。けれどこのままでは犯人たちの車が確認できないばかりか、救出にも向かえない。
 この時間帯、市内は帰宅ラッシュだ。確実に志季と椿の方が早く到着しただろうことは明らか。にもかかわらず足止めしたということは、廃ホテルには仲間がいる可能性が高い。さっさと悪鬼を一掃して先に仲間を確保してしまいたいところだが。
「つーか……ッ」
 鬱蒼とした森の中、木々を避けて無数の水塊と火玉が空中を縦横無尽飛び交い、悪鬼を貫く。霧散する悪鬼にほっとする時間など、一瞬すらない。湧き出る泉か温泉のように次から次へと志季と椿に襲いかかる。
 調伏した悪鬼の数も、あれからどのくらいの時間が過ぎたかのかも分からない。減るどころか増えているように見えるのは、気のせいではないはずだ。
「どっから湧いて出てんだこいつらッ!!」
 志季の苛立ちに合わせるように出現した火玉の数は、これまでで一番多い。さらに志季の手の中に、炎を纏った刀が現れた。
「この……ッ」
 右から左へ凪ぐと同時に刀から炎が噴き出し、火玉が凄まじい勢いで空を切った。噴き出した炎と火玉に貫かれた悪鬼は勢いよく炎に包まれ、低い唸り声と共に消滅した。
「すっげぇやりずれぇんだけど!」
 火は森を燃やす。細心の注意を払わなければならず、火神である志季にとっては非常に相性が悪い場所だ。一方椿とは相性が良い。水は木々を育て、森を豊かにする。しかも水場が近い。とは言え志季と同様、戦闘中は木々を傷付けることに変わりはなく、加減を間違えると雪崩を起こす。
「キリがねぇぞ椿!」
 薄暗くはあるが真っ暗ではない。けれどこれ以上長引かせて陽が落ちれば、闇に紛れられて視認し辛くなる。それにもう、犯人たちが到着しているかもしれない。
 再度刀を振って目の前の悪鬼を燃やし尽くした志季の背後に、口を開けた悪鬼が迫った。と、一匹の小さな水龍がぎりぎりの距離ですり抜けながら食い千切った。派手に水飛沫が飛ぶ。
「危ないところでしたね、志季」
 椿が水塊を放ちながら後退してきた。いつもの穏やかな口調だが、表情は硬い。お互い背を向け、一向に減る気配のない悪鬼と対峙する。
「おいこら、思いっきり濡れてんじゃねぇか」
 後頭部から水飛沫を被った志季が、髪から水を滴らせながら苦言を呈した。
「水も滴る良い男と申します」
 物凄い棒読みの台詞に、志季は目を据わらせた。
「そりゃどうも」
 水龍が椿の元へ戻り、手の中へ収まった。すぐさま刀身に水が渦巻く刀へと姿を変える。
「仕方ありません、志季、援護をお願いします」
「どうすんだ」
 二人同時に腰を落とし、刀を構える。
「多少の異常気象と異常現象には、もう皆さん慣れておいででしょう」
 常々思う。普段穏やかな奴ほど質が悪いと。しかし、思い切りが良い奴は嫌いじゃない。志季はにっと口角を上げた。
「了解。そんじゃま、この数だ、手短に頼むぜ」
「承知致しました」
 言うや否や、横一閃、同時に刀を薙いだ。
 炎と水が刀から噴き出し悪鬼を包み込むと、椿は強く地面を蹴り、宇治川が見下ろせる木のてっぺんに着地した。
 到着した時よりかなり陽が落ちており、空は茜色に染まっている。もう犯人たちは廃ホテルに着いているかもしれない。急がなければ。
瀬織津姫様(せおりつひめさま)、少しだけ、お力をお貸しくださいませ」
 天を仰ぎ、宇治川を守護する女神に語りかける。すると風がふわりと頬を撫で、不意に強風へと変わった。上流へ顔を向けると、山の上から真っ黒な雨雲が雷を伴って流れてきた。先程見た悪鬼の塊とは比較にならないほど巨大で、すぐにこの辺り一帯を覆うだろう。腹に響く雷鳴は、縄張りを荒らされた女神の怒りだろうか。
「ありがとうございます。では――」
 強まる風と低い雷鳴が近付く中、椿は流れが激しくなる宇治川に向かって両手をかざした。と、下流へと流れる水の一部が、頭をもたげるように浮いた。滝のように水を滴らせながらあっという間に形を成してゆく。長い髭、二本の角、背を覆うたてがみ、鋭い牙に四本の爪、鱗の一つ一つまで精巧に再現された水龍は、全長にしてどのくらいあるのか。まるで宇治川そのものが龍に変化したようだ。
 その間に強風は森の木々を大きく揺らし、上空を覆い尽くした雨雲は太陽の日差しを遮った。激しい雨粒で大地を叩き、雷鳴を轟かせて短い稲光を放つ。
 嵐だ。
 豪雨の中ですっかりずぶ濡れになった椿が両手を掲げると、水龍は体をくねらせながら天へと駆け昇る。
「志季ッ!!」
 掻き消されないように腹の底から叫ぶ。間髪置かずに志季が森の中から勢いよく飛び出してきた。その後ろを、蛇のように長く伸びた悪鬼が追いかける。遥か上空でこちらを見下ろす巨大な水龍に、志季がぎょっと目を剥いた。
 椿が両腕を思い切り振り下ろすと、水龍は咆哮するように大きく口を開け、志季目がけて下降した。
「またかよ……ッ!」
 島で紫苑と対峙した時もそうだった。丁寧に脅されて水龍を叩き落とされたことを思い出し、ついぼやく。巨大な口に飲み込まれる寸前、無理矢理体を捻って横へ避けた。水龍に吸い込まれるように悪鬼が食われてゆく。生身ではなく水の塊のため、食われた悪鬼たちが水龍の腹の中で暴れ回る様が見える。
 森に飛び込むすんでの所で椿が両腕を横に振って水龍の軌道を変えた。食らい損ねた悪鬼を、木々のてっぺんすれすれを這うように追い再び口を開く。
 バキュームみてぇだな、と少々緊張感のない感想を一人ごちて、志季は森の中に着地した。大雨のせいでぬかるんでいる。
「志季、行きますッ!」
「了、解ッ!!」
 足を踏ん張り、語尾に合わせて再び地面を強く蹴って飛び上がった。手の中には、熱した鉄のように赤く、長い刀身をした刀が握られている。
 遥か上空から森の上を旋回する水龍を見下ろし、志季は刀を振り上げた。同時に椿が両腕を勢いよく振り上げると、水龍は頭をもたげ急上昇する。志季は重力に従って下降し、真下から突っ込んでくる水龍の鼻先目がけて、刀を振り下ろした。
 鼻先から真っ直ぐ眉間を通り、二本の角の間、背を覆うたてがみに沿うようにして、悪鬼共々真っ二つに切り裂いた。とたん、この世の全ての音を掻き消すような雷鳴が轟き、水龍が甲高い破裂音と共に霧散した。間髪置かずに白い稲光が天から降ってきた。今まさに消滅する寸前の悪鬼に叩きつけられ、悪鬼は黒い水蒸気のように雨に紛れて消えた。
 霧雨となった水龍が森や宇治川へと降り注ぐ中、気が済んだとばかりに風も雨も弱まり、雨雲が散り散りに千切れて空が晴れてゆく。雲間から茜色の陽が差し込んだ。
「こ、怖ぇ……」
 木のてっぺんに着地しながら、志季は頬を引き攣らせてぼやいた。眷属とはいえ神は神だ。その神の刀に切り裂かれたのだから確実に消滅する悪鬼を、最後の仕上げとばかりに雷で掻き消した。そこまでしなくてもと思うが、やはり縄張りを荒らされて相当頭に来ていたのだろうか。
「女を怒らせるもんじゃねぇな」
 うんうんと一人頷き、志季は刀を消した。
「もう打ち止めのようですね」
 周囲を見渡しながら、椿が飛び跳ねるようにこちらへ移動してきた。ずぶ濡れだった全身がすっかり乾いている。
「みたいだな」
 志季も周囲に視線を巡らせた。
 先程の嵐が嘘のように美しく茜色に染まった景色に、禍々しい気配は感じられない。あれが限界だったのか、あるいは、足止めをする必要がなくなったのか。
 悪鬼は、移動は有り得るが、あれほどまでに統率された動きをすることは有り得ない。どこからあの数の悪鬼を集めたのかは知らないが、千代の仕業に間違いないだろう。廃ホテルにいるのか、近くに潜んでいるのか。
 志季は小さく舌打ちをかました。
「急ぐぞって言いたいとこだけど、とりあえず乾かしてくんない?」
「あ、はい、そうでした」
 自分でできないことはないが、水分を蒸発させるのと一瞬にして抜いて乾かすのとでは、どう考えても椿の方が早い。
 隣で警戒していた椿が志季の額に手をかざすと、まるで滝のように全身から水が滴り落ちた。重かった着物が軽くなる。
「よし、改めて急ぐぞ」
「はい」
 あと半刻ほどで、悪鬼の活動が活発になる夜が訪れる。志季と椿は、真っ赤な夕焼けに紛れるように、対岸へと高く飛び上がった。
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