第13話

文字数 6,210文字

 その日は、金曜日だった。最後の営業先を出てから携帯を確認すると、香穂の法子からの着信が残っていた。何だろうと思ってかけ直すと、彼女は少し言いづらそうに、しかし不思議そうに言った。
「昨日の昼間にね、あの子突然帰ってきたのよ。ちょっと落ち込んでるみたいだったから、怜司くんと喧嘩でもしたのかしらと思ったんだけど、してないって言うの。明日もお部屋見に行く約束してるって」
 先週の土曜日は例の「お誘い」が入り会えずじまいだったが、明日は今のところ入っていない。入っても断るが。
「ええ、確かにしています。喧嘩はしていませんよ」
「そうよねぇ……あたしの気のせいかしら」
 法子は困惑気味に息をついた。
「香穂さん、昨日の昼間に帰ったんですか?」
「ええ、そう。仕事はどうしたのって聞いたら、有給取ったって。暇だからこっちに置きっ放しにしてる本を取りに来たって言ってたわ」
 有給を取るには事前申請が必要だ。そんな話は聞いていないし、どうしてこのタイミングで本を取りに行こうと思ったのか。引っ越しが終わったあとでいいのに。怜司は怪訝そうに眉を寄せた。
「今はどうしてるんですか?」
「部屋にいるわ。本を読んでるんじゃないかしら。ご飯もちゃんと食べたし、ハクとフクとも遊んでたし、体調が悪いってわけじゃないみたいなんだけど、なんか気になっちゃって……」
 法子はもう一度嘆息し、不安を振り払うようにはつらつとした声で言った。
「やっぱりあたしの気のせいかもしれないわ。ごめんなさいね、お仕事中に変な電話して」
「いえ……」
 とは言うものの、気になる。怜司は腕時計を確認した。午後四時を回っている。
「お義母さん。あとでお伺いしてもよろしいですか」
「え? ええ、そうね、そうしてもらえると助かるわ」
「ありがとうございます。何かあったらまた連絡をください」
「分かったわ」
「では、失礼します」
 怜司は通話を切り、すぐにメッセージアプリを開いた。
『何かあったのか? 仕事が終わったら行くから、家にいろ』
 そうメッセージを送り、早足で会社へ戻る。
 有給を取るのなら相談しろなんて思わない。けれど、行動が不自然だ。と、ふと思い出した。あれはプロポーズをする前だったから、一カ月、いや、もっと前からだったか。香穂の様子がおかしい時期があった。話をしていても本を開いていてもぼんやりして、何か思い悩んでいる様子だった。どうしたのか尋ねてみても、香穂は首を横に振り、「ちょっと疲れてるのかな。先輩が一人辞めちゃって、仕事の量が増えたから」と笑うばかりだった。
 あれから変わった様子は見られなかったが、何か関係しているのだろうか。
 会社を出たのが六時を少し回った頃。タクシーを捕まえて香穂の実家へと向かい、到着したのは三十分後の七時前だ。
 門扉の前で、輝彦と鉢合わせした。法子から連絡をもらったこと、喧嘩はしていないことを話しながら玄関ドアをくぐると、法子が小走りで出迎えてくれた。
「香穂は?」
 さっそく、輝彦が靴を脱ぎながら尋ねた。
「部屋にいるわ。そろそろ呼びに行こうと思ってたところなの。ごめんなさいね、怜司くん。わざわざ来てもらって」
「いえ、構いません。上がってもいいですか」
「ええ、こっちよ」
 螺旋階段を先行する法子に、輝彦と怜司が続く。
「あのあと何度かメッセージを入れたんですが、返事がないんです」
「ああ、一度部屋を覗いたら寝てたから」
「こんな時間に寝て。一体どうしたんだ……」
 輝彦が呆れた声でぼやいた。
 桂木家の間取りは四LDK。一階にLDKと和室が一部屋、二階に洋室が三部屋ある。階段を上がると、廊下の正面にトイレ、左手に二部屋、右手に一部屋。香穂の部屋は右の部屋で、着くなり扉を叩いたのは輝彦だ。
「香穂、起きなさい。怜司くんが来てくれたぞ。香穂」
 強めの口調で告げるも、返事はない。輝彦が諦め顔で怜司を振り向いた。場所を入れ替わり、今度は怜司が扉を叩く。
「香穂、俺だ。どうしたんだ、何かあったのか?」
 なおも返事はない。と、いつの間にか上がってきたハクとフクがするりと足元をすり抜け、扉の前で一声鳴いた。ハクが後ろ足で立ち上がって扉をカリカリと引っ掻き、フクはしきりに鳴き続ける。とたん、一抹の不安を覚えた。
 両親も、怪訝な顔で二匹を見つめる。怜司はもう一度扉を叩いた。
「香穂、香穂!」
 不安と焦りで自然と声が険しくなる。どんどん不安が胸に広がっていく。
「開けるぞ!」
 勢いよくドアレバーに手をかけて下ろす。だが、ガッと金属音のぶつかる音がして止まり、怜司は思わず手元に目を落とした。
 ――なんで鍵なんか掛けてるんだ。
 曖昧だった不安が、はっきりと輪郭を描く。
「香穂……っ!」
 乱暴に何度もレバーを上下させる怜司の横から、輝彦が鞄を放り投げて割って入った。ハクとフクが驚いて避け、法子の足元に身を隠す。
「香穂、いい加減にしなさい! ここを開けなさい!」
 緊迫感が増していく。ドンドンと激しくドアを叩きながら叫ぶ輝彦を見て、怜司は持っていたバッグを廊下の端に置きながら法子を振り向いた。
「すみません、ドアを壊します。あとで弁償しますから。お義父さん、代わってください」
 法子に言い置いて肩を掴むや否や、輝彦は険しい顔で身を翻した。
「何か道具を持ってくる」
「お願いします。お義母さん、危ないので下がってください」
 輝彦が慌ただしく階段を駆け下り、怜司はおろおろする法子をトイレの方へ下がらせる。
 怜司は扉と正対した。こんな時、映画やドラマでは肩をぶつけてぶち破ったりするが、素人がやると脱臼する危険があるらしい。鍵屋を呼ぶのが一番だが、待てるほど心の余裕はない。
 怜司は、できるだけ扉と足裏が平行になるように右足を上げると、そのまま鍵の近く目がけて勢いよく蹴り付けた。ドンッ! と響いた重低音にハクとフクが驚いて飛び上がり、一目散に階下へと逃げた。
 一度で開くわけがない。怜司は体勢を整え直し、何度も何度も扉を蹴り続ける。振動で床と空気が震えた。
 ここまでして何の反応もないのは、どう考えてもおかしい。
「悪いが、今立て込んでるんだ。あとでかけ直すから」
 会社からだろうか、工具箱を手にした輝彦が携帯で誰かと話しながら戻ってきた。なかなか開かない扉に苛立ちが募る。工具を使った方が早いか。
「クソ……ッ!」
 悪態と共に最後のひと蹴りをめいっぱい叩き込む。と、ガキッと金属が外れた鈍い音が響き、扉が勢いよく開いた。
「香穂……!」
 反動で戻ってきた扉を抑えて飛び込み、怜司は素早く視線を巡らせた。
 カーテンは隙間なく閉じられているが、廊下の明かりが差し込むおかげで十分様子が見て取れる。横長の部屋には、入ってすぐ左の壁際には本棚、正面に机、左隣にベッド、脇にはクローゼットが作り付けてある。
 そのクローゼットを見て、愕然とした。
 観音開きの扉は左右に大きく開かれ、段ボールが端に二つ重ねられているだけで、他に物は入っていない。ただ、そこにあってはいけないものがあった。
 渡された太いパイプに、長い紐が掛けられて輪っかにくくられている。その輪っかに引っ掛かっているのは、香穂の首。足を投げ出して床に座り、顔を隠すように深く俯き、こんなに下がるものかと思うほど肩は落ち、腕はだらんと床についている。まるで、人形師を失った操り人形のようだ。
 一歩遅れて輝彦と法子が飛び込み、息を詰めて目を剥いた。
 目の前にある光景が、何なのか理解できなかった。考えるとか感じるとかそんな機能は完全に停止した。だから頭より先に体が動き、理性よりも本能が働いた。
「――香穂ッ!!」
「きゃああッ!」
 怜司と輝彦の怒声と、法子の甲高い悲鳴が家中に響き渡った。
 怜司と法子が香穂の元へ駆け寄る中、輝彦が携帯を操作しながら工具箱を床に置いた。殴るように壁際のスイッチを押して明かりを付ける。
「救急車お願いします! 住所は……!」
 噛み付くように言いながら、工具箱の蓋を開けて乱暴に中を漁った。
「香穂……ッ」
 駆け寄ってから気付いた。香穂の手の中に、あの日縁側で撮った写真が収まっている。
 なんで。怜司は口の中で呟きながら香穂の体を避け、紐の結び目に手を伸ばした。雑誌や段ボールを捨てる際に使用する白いビニール紐。結び目が小さい上にかなりきつく結ばれていて、何度も解き損ねる。
「香穂、香穂……っ、起きて香穂!」
 反対側にしゃがみ込んだ法子が、泣きながら真っ青な顔で香穂の体を揺らす。輝彦がカッターナイフを手に駆け寄った。
「法子、どきなさい! 怜司くん体を支えて!」
 法子が香穂を見つめたまま床を這うように足元へ移動し、場所を交代する。怜司はしゃがんで体の半分をクローゼットの中に滑り込ませ、香穂の背中に腕を回して支えた。そして輝彦が、カッターナイフをのこぎりのように動かして紐を切り離す。
 少し床から浮いていたらしい、わずかに体が落ちて揺れ、腕全体に体重がかかる。熟睡して起きない子供のように香穂の首がかくんと横に倒れた。引っ掛けているのだと思っていたが、髪の毛ごと首に紐が巻き付けられている。背中と奥の壁に少し距離があるためか。抜けないようにこうしたのだとしたら、香穂は相当な覚悟を持って死に臨んだことになる。緩んだ紐をもどかしげに外すと、髪がさらりと流れて顔を隠した。
「怜司くんはそっちを頼む!」
 輝彦がカッターナイフを放り投げ、法子を手で押しやって両足首を掴んだ。一方無言で頷いた怜司は、狭い隙間に無理矢理体を入れて香穂の背後に回り、脇の下に腕を差し込んでわずかに持ち上げる。ゆっくりなどと言っている余裕などなかった。半ば引き摺るようにしてクローゼットから運び出し、横たえる。香穂の手から、写真が滑り落ちた。
 香穂とは何度も体を重ねたけれど、こんなに重かっただろうか。そう思うほど、彼女の体にはこれっぽっちも力が入っていなかった。
「ねぇ、嘘よね、こんなの嘘よ、香穂……っ!」
 法子が香穂の顔を覆う髪を掻き分け、両手で挟んで覗き込む。怜司はすぐに左側に移動して膝をついた。心臓の位置に両手を重ねて置き、ぐっと強く押す。
 おそらく、この時点で誰もが気付いていただろう。けれど、諦められるわけがない。まだ体温は残っていた。死後硬直も始まっていない。
 まだ間に合う、まだ助かる。
 一定間隔で与えられる衝撃に合わせて、香穂の体が揺れる。
「香穂……、香穂……っ」
 無意識に、名前を呼んでいた。
 明日、また部屋を見に行くんだろう。ベッドや寝具も新調して、食器とパジャマもお揃いにしたいって言ってたじゃないか。大きな棚を買って、大好きな本を本屋さんみたいに陳列する。将来は、小さくていいから書架が欲しいねって、そう、話したじゃないか。
「――怜司くん」
 不意に手首を掴まれて、怜司は手を止めた。どのくらいマッサージを続けていたのか自分でも分からない。息が上がっている。
 怜司は荒く呼吸をしながら、無骨な手から腕を辿って視線を上げ、輝彦の顔を見やった。
 彼は悲痛な顔で目を伏せ、無言で首を横に振った。
「……なんで……、まだ……っ」
「怜司くん」
 再び重ねたままの手に目をやり、力を込めた怜司を、輝彦は語気を強めて制止した。とたん、法子が香穂の頭を抱え込んで泣き叫び、輝彦は怜司の手首から離した手で顔を覆い、声を殺して肩を震わせた。
 そして怜司は、ゆらりと重ねていた手を離し、崩れるように尻もちをついた。ハクとフクが足音もなくやってきて、香穂の側で悲しげに一声鳴いた。
 悲鳴のような法子の泣き声や遠くで鳴るサイレンの音、自分の呼吸音さえも曖昧になり、やがて何も聞こえなくなった。
 ――これは、何の冗談だ。

 やがて救急隊員が到着し、死亡が確認されて警察へと通報された。検視のため遺体が運び出される間に、香穂の両親はもちろん、怜司も到着した警察官から聴取を受けた。彼女との関係やここへ来ることになった経緯、発見時の状況、自殺の原因に心当たりはないかなどこと細かに聞かれたが、まともに思考できる状態ではなかった。見たものを見たままに、まるで他人事のように伝えた。
 聴取を受けている途中で、別の警察官からあの日の写真と、机の上に置かれていたらしい一枚の便せんを渡された。そこにはただ一言、
『ごめんなさい』
 とだけ書かれていた。
 なんで、何故、どうして。それだけが頭の中をぐるぐると回り、脳みそが痺れたような感覚があった。
 うっすらとタクシーに乗った記憶は残っているが、それまでどうしていたのか、それからどうしたのか、まったく記憶に残っていない。
 気が付いたのは、自宅のソファの上。開けっ放しのカーテンから差し込む陽射しと肌寒さで目が覚めた。酷い倦怠感。天井がぼやけて見えるのは、眼鏡がないのはもちろんだが、脳みその稼働が遅いせいなのか。しばらくぼんやりとして、やっと、なんでこんな所で寝てるんだと考える。
 とりあえず着たままのスーツを脱ごうと体を起こした。しわしわだ。クリーニングに出さなければと、ポケットの中を探る。左のポケットに手を突っ込むと、指先に何かが触れた。出てきたのは、あの日の写真。とたん、急速に記憶が蘇った。
 そうだ、昨日香穂の実家に行って――。
 怜司は弾かれたように携帯を探した。ローテーブルの上。飛び付くように引っ掴み電話をかけた先は、香穂。
 あれは夢だ。疲れていたから、おかしな夢を見てしまったのだ。あんなの、現実なわけがない。
 繰り返し繰り返し鳴り続ける呼び出し音。携帯を耳に当て、苛立ちを発散するように足を小刻みに揺らす。けれど結局繋がることはなく、今度は輝彦へと電話をかける。こちらはすぐに繋がったが、もしもし、と言った憔悴ぶりが分かる彼の声に、一瞬で熱も思考も冷めていくのを感じた。
「……香穂、は……」
 その問いが、どちらのことを聞いているのか、自分でもよく分からなかった。「香穂は今、そこにいますよね?」「香穂は、警察からいつ帰ってきますか?」。
「多分、今日中には」
 輝彦の答えは、後者に対するものだった。そうですか。怜司はほんの小さく呟いた。
「怜司くん。帰ってきたら連絡するから、ちゃんと休んでおきなさい。いいね」
「……はい」
 吐息のような返事だった。
 怜司はゆっくりと携帯を耳から離し、通話を切った。そのまま携帯が手から滑り落ち、床でゴトンと鈍い音を立てた。左手には、あの日の写真。日だまりの中、二人は穏やかに微笑んで寄り添っている。
 無意識に、手が震えた。クローゼットから運び出す香穂の体の重さ。力を込めるたびに揺れるだけの体。あの感触を、この手が覚えている。
 あそこに香穂は――香穂の魂は、もうなかった。
「――ッ!」
 息苦しいほど心臓が収縮し、怜司は唇を噛んだ。二人の笑顔が涙で滲み、次から次に頬を伝って写真にこぼれ落ちる。堪え切れない嗚咽が漏れて、右手で口を覆う。怜司は写真に顔をうずめるように上半身を折った。
 香穂と付き合ってから、ちょうど一年。たった一年で分かった気になってと笑う奴もいるだろう。けれど間違いなく、心が求めたのは彼女だけだった。心も体も欲しいと求めたのは、生涯を共にしたいと願ったのは、彼女が初めてだった。
 ――このまま、悲しみに押し潰されて死んでしまえたらいいのに。
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