第6話

文字数 5,777文字

 犬神にそれぞれ腕一本で一気に引っ張り上げられ、弥生と少女は賀茂家をあとにした。
 弥生は、もうもうと砂煙が上がる庭から首を捻って横を振り向いた。尖鋭(せんえい)の術を行使した少年が、逃げた車を追って悪鬼に運ばれていく。まるで夜空の下でブランコに揺られているような姿は、悪鬼でなければメルヘンの世界で描かれる光景だ。
「危ないって言ってるのに……」
 誤って滑り落ちでもしたらどうするのか。弥生は住宅の屋根の上に着地しながら、呆れ気味にぼやいた。
 先程待機していたマンションより、少し離れた場所だ。もう自分たちの役目は終わった。あとは「あちら」次第。こちらがまだいると主張できればいい。
 腕に絡まっていた犬神の触手がするりと離れる。
「もー、絶対許さないんだからあの式神! 今度会ったらこの子たちの餌にしてやる!」
 同じく隣に着地した少女が、憤慨しながら倒れ込むように棟に腰を下ろした。倣うように、両側にお座りした犬神の一匹を抱きしめる。
「ごめんねー。大丈夫だった? 痛かったよね、絶対百倍にしてやり返すからね」
 弥生からしてみれば、どちらがどちらなのか見当もつかないが、彼女は見分けがつくらしい。そもそも悪霊である犬神に痛覚があることが驚きだ。
 いっそ色違いの首輪でも付けてくれれば分かりやすいのにと思いつつ、弥生は尻ポケットから携帯を取り出した。画面は通話状態になっている。いくらこちらのやり取りが筒抜けだったとはいえ、距離があるのにあの速度で術を行使するなど、彼の実力は未だ底が見えない。
 弥生は、通話を切って負傷(と言っていいのか分からないが)した犬神の隣に腰を下ろした。
「それで、どうだった? あの式神」
 少女が足を伸ばし、もう一匹の犬神の背中を撫でた。
「どうもこうも、これっぽっちも実力出してないでしょ。ただの戯れに終わったわ。いい運動にはなったけど」
「まあねぇ、びっくりだもんねぇ」
 弥生は犬神の足に手を伸ばし、無事を確認するように撫でた。それを横目で見た少女が、密かに笑う。
 賀茂家当主の式神は尋ねた。拘束される覚悟があるのか、と。だが、聞いておきながらその様子すら見せず、ただ屋敷への侵入を防ぐことだけに重きを置いたような戦い方だった。てっきり拘束するつもりだと思っていたのに、おかげで自分の実力がどこまで通用するのか、確かめる気も失せた。
 本気で何も喋る気がないと察したにせよ、捕らえればこちらの戦力を削げることくらい分かるだろう。それとも、すでに彼の気配に気付いていたのか。あるいは、何か思惑があるのか。
 何にせよ、不自然だ。
 とは思うものの、その思惑も狙いもさっぱり分からない。何を考えている。
「びっくりって言えばさ、桐生冬馬が来るとは思わなかったなぁ」
 ああ、と弥生は龍之介を殴り飛ばした彼を思い出して顔を上げた。
「可能性としてはあったけど、確率的には低いと思ってたのよね」
「うんうん。絶対仲間のとこにいると思った。意外だよね」
 平良伝いに聞いた話では、彼はかなり仲間意識が強い。臆病な二人と彼女たちを残して、あの場を離れるとは思えなかったのだ。しかも、式神はこちらの思惑を分かっていて連れてきた。
 弥生は神妙な面持ちで口をつぐみ、犬神の顎を撫でる。犬神が、気持ち良さそうに目を閉じて顎を上げた。
「あとあれ、まだ分かってないんだよね」
「あれって?」
「ハヤテくんのこと」
 どこの子だ。弥生が振り向いてゆっくり首を横に倒すと、少女は頬を膨らませた。
「橘家のハヤテくんだよ」
「ああ、あれ」
 少女誘拐殺人事件の被害者が飼っていた犬のことか。弥生は伏せた犬神の背を撫で、少女は膨れ面で膝を抱えた。
「なんであの刑事たちあそこにいたのかなぁ?」
「さあ?」
「しかもさぁ、紺野(こんの)って刑事。せっかく担当から外したのに、すぐ戻ってきちゃうし。どうなってるの?」
「あたしに聞かないでよ」
 そうだけどー、と少女は不満そうに膝に顎を乗せてぼやく。
「刑事のことはともかく、どうせ不完全だったんでしょ、あの犬神」
「どうせとか言わないで。そんなの関係ないの。可愛かったのに、もったいない」
 少女が唇を尖らせるや否や、伏せていた犬神が素早く体を起こし、もう一匹は少女を振り向いた。二匹とも、尻尾がぴんと立っている。両側から見つめられ、少女は瞬きをしながら交互に見やった。
「あははは、やだなぁ。もちろんクロとシロが一番可愛いよ」
 少女は両腕に犬神を抱き込んで、ぎゅっと引き寄せた。
 名前を呼ばれてもどちらがどちらか分からない。満面の笑みで頬ずりをして戯れる少女に、弥生は小さく息をついた。
 彼女の言う通り、あの二つの件に関しては何も分かっていない。
 いずれ哨戒中の式神に発見されることは想定していたが、まさかあんなに早く刑事らに先を越されるとは思わなかった。そのせいで計画を練り直す羽目になったのだ。さらに紺野誠一という刑事。たった一日で復帰するとは。
 疑わしいのは、北原匠(きたはらたくみ)が単独で会いに行った科捜研の近藤千早(こんどうちはや)という所員だ。あの日、北原は何のために彼に会いに行ったのか。何も話さなかったと近藤は言っているらしいが、本当かどうか分からない。紺野が復帰したのは翌日なのだ。しかし、たかが科捜研の所員が捜査から外された刑事を戻せるものだろうか。紺野か近藤。どちらかが府警本部長と伝手がある可能性はあるが、今のところそんな報告はない。
 何にせよ、何者かが裏で動いたのは間違いない。
 ただ、彼が問題ないというのだから、放っておいてもいいのだろう。個人的に興味はあるけれど。
 ふいと賀茂家の方へ視線を投げると、住宅の屋根を伝って遠ざかる小さな人影が見えた。引き上げるのは、まだ時間がかかりそうだ。

          *・・・*・・・*

「どうすんだよこれから! あいつ捕まっちまったぞ!」
「話が違うじゃねぇか、どうなってんだ!」
後部座席で青い顔をしたカップル男が、助手席で智也を刺したナイフ男が喚き散らす。
「うるせぇ黙れッ!」
 運転手の一喝が車内の空気を震わせ、二人は体を竦ませて硬直した。
 信号が赤に変わり、運転手は盛大な舌打ちをかました。苛立ちをぶつけるようにブレーキを踏み込んで急停車する。ガクンと車体が揺れて、後部座席で女がきゃっと小さな悲鳴を上げた。
「ちょっと……っ」
「黙ってろって言っただろうが!」
 再度響いた怒声に女が大仰に体を震わせ、膨れ面でぷいと顔を背けた。
 目の前の横断歩道を楽しげに笑いながら渡るカップルを睨みながら、運転手は歯噛みする。
 あの時、確かに屋根の上に人影があった。あんなところに人間がいるはずない、龍之介が言っていた式神だろう。二人は何かと戦っているように見えた。計画通り悪鬼は式神の足止めをしたのだ。けれど、桐生冬馬たちが襲われたようには見えなかった。要するに。
「裏切りやがった……ッ!」
 男は忌々しげに吐き出した。
 龍之介は、確かに癪に障るしイライラするくらい頭も悪い。そのくせ唯我独尊、自分が世界の中心と思っているような奴だ。金目的以外につるむ利点はない。だからこそ、怪しい宗教を信仰するようなタイプではないと思い、計画に乗った。
 それでもリスクが多いことは分かっていたし、あんな時間に住宅街で騒げば人が集まるのも予測済みだった。だが、計画通りに事が運べば、野次馬が集まる前に女二人を拉致するのは容易だ。
 しかし、結果は散々だった。
 こちらが思っていた以上に警戒され、邪気とかいうもののごまかしは効かなかった。
 さらに、桐生冬馬たちが無事であることに驚いたが、あとには引けない。式神の足止めはされているのだから、桐生冬馬さえ押さえてしまえば残りの男二人は問題ないと判断し、強行した。どこからの情報か知らないが、二人にはトラウマがあり、威嚇や怒声だけでも怯むほど臆病だと聞いていたからだ。それなのに、智也と呼ばれた男はナイフを持った腕を掴み、そのあとも怯んだように見えなかった。あれは、トラウマを持つ奴の行動ではない。そのせいで拉致するどころではなくなり、騒ぎが大きくなった。
 龍之介は、間違った情報を掴まされた上に、裏切られたのだ。
 運転手は、信号が青に変わったとたん乱暴に車を発車させた。
「とにかく県外に逃げるぞ。ただし、一度マンションに戻って金目のもん持ち出してからだ。売って当面の資金にする。もう警察が動いてるだろうから急げよ。いいな」
 最後を強調すると、カップル男たちは神妙な面持ちで頷いた。
 このリスクが多い計画を実行するにあたって、念のために県外へ逃げる算段は付いていた。女二人を拉致し、気絶させるなりナイフで脅すなりして黙らせてマンションに連れ込み、龍之介が戻ってから金を受け取って姿を消す。自分たちの荷物はすでに車に積んであるが、裏切られ、計画が失敗したせいで龍之介を待つどころか、奴は捕まった。さっさと逃げなければ確実に捕まる。急がなければ。
 溜まり場にしていたマンションは、龍之介の自宅とは別の物件だ。五千万を超える高級マンションで、地下駐車場にもエレベーターがあり、防音もしっかりしている。クラブやライブハウスのように爆音を出さなければ、十分騒げる。ただし、高級だからこそのデメリットもある。防犯カメラだ。あちこちに設置された防犯カメラには、間違いなく姿が映っている。
 運転手らは地下駐車場へ車を乗り入れ、エレベーターで七階へ上がった。内廊下を足早に走り抜け、部屋の扉に携帯をかざして鍵を開ける。スマートロックというらしい。
 雪崩れ込むように部屋へ入り、電気を点けて、蒸し暑い中で手分けをして金目の物をかき集める。龍之介にとって別宅のような場所だったため、私物も多い。ご自慢の腕時計やアクセサリー、高級な酒や食器類、ブランドのバッグや衣類まで、とにかく売れそうな物を適当に詰めていく。それともう一つ。
 運転手は、リビングの大きなテーブルに無造作に置かれているノートパソコンもバッグに詰め込んだ。
「終わったぞ」
「こっちも」
 カップル男とナイフ男が、バッグや紙袋をいくつも抱えて集まってきた。
「こっちももうないわよ」
 キッチンで酒や食器類を物色していた女も顔を上げ、運転手はぐるりと部屋を見渡した。自分たちには縁遠い高級な家具が置かれた広いリビングは、泥棒にでも入られたような有り様だ。散々ここで騒いで甘い汁を吸ってきたけれど、何の感慨も湧かない。龍之介への罪悪感もない。気にするのは、己の身の安全だけだ。
 運転手は他に持ち出せそうな物がないか確認し、よしと一人ごちた。
「行くぞ」
 そう言ってバッグを手にしようとした時、ベランダの方からコンコンと窓を叩く音がした。四人揃って視線を投げると、カーテンも何もない窓の向こうに、笑顔を浮かべた一人の少年が立っていた。白い半袖パーカーを着て、棒付きの飴をくわえている。
 ここは七階だ。一様にぎょっとして後ずさり、運転手がふと気付いた。龍之介の話は本当だ。だが、現場にいた式神とは容姿も恰好も違う。龍之介側の式神だろうか、それとも、と考えたところで、運転手は考えるのをやめた。何にせよ、もうこれ以上関わらない方がいい、関わりたくない。
 運転手は少年をひと睨みして踵を返した。すると窓越しに「ちょっと待ってください、これこれ」と焦った様子の声が微かに届いた。
「おい、あれ」
 カップル男が少年を指差し、運転手は鬱陶しそうに顔を歪めて振り向く。少年は、片手にくわえていた飴を、もう片方には細長い紙切れを持っていた。
「龍之介さんから預かりました、小切手」
 微かに届く声に浮かれたのは、運転手以外の三人だった。
「マジか!」
「何だよ、あいつ結構気が利くじゃねぇか」
「良かったぁ、これでまともな逃亡生活ができるわ」
 ほっと安堵の顔をして、三人が荷物をその場に置いてベランダへ駆け寄る。
 逃亡生活にまとももクソもあるか、と内心で突っ込みつつ、運転手は違和感を覚えた。少年の背後が一面真っ暗だ。ベランダの壁がない。それに、七階からは夜景が見下ろせるはずなのに――。
 少年の口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「おい待て!」
 危機感を覚えて声を荒げるが、遅かった。ナイフ男と女が振り向き、「え?」と間の抜けた声を漏らしてカップル男が窓を引き開けたとたん、少年の背後の風景が変わった。まるで暗幕を摘まんで手前へ引っ張ったように、少年の両側から黒くて大きな何かが素早く伸びた。それと比例して見慣れた夜景が姿を現し、伸びた何かが吸い込まれるように隙間から滑り込む。
 同時に、三人が飲み込まれた。
「っ!」
 運転手は息を詰めて反射的に身を翻した。龍之介は言っていた。悪鬼を使って桐生冬馬たちを食わせる、と。それがどんなものなのか想像できなかったけれど、おそらく今見た光景が、そうなのだろう。
 あれが悪鬼なのか、桐生冬馬たちを狙った時は見えなかったのに、どうして裏切ったのか、何故自分たちが狙われるのか。そんな疑問は、もう頭に浮かばなかった。逃げなければと、ただそれだけが思考を支配した。
 泳ぐように手で宙をかきながらソファの間を抜ける。切羽詰まった感覚が捉えたのは、背後に迫った禍々しい気配。男の顔が恐怖に歪んだ。
「たすけ……っ」
 誰にともなく助けを求めた声が、途切れた。
 つい今まで人の声がしていた部屋が、一瞬にして静寂に包まれた。キッチンカウンターの前で、悪鬼が咀嚼するように蠢いている。
 ベランダに佇んだまま、少年は何も書かれていない細長い紙切れをポケットに突っ込んだ。
「また酷く荒らしましたねぇ」
 部屋を見渡してどこか不憫そうに一つ息をつき、少年は悪鬼に視線を投げた。
「戻りますよ」
 まるで飼い犬でも呼ぶようにちょいちょいと手招きをすると、悪鬼はすいと空を滑って窓の隙間を抜けた。きゅっと縮んでふわりと少年の頭上に浮き、二本の触手を伸ばして輪を作る。
「また、危ないって叱られますかね?」
 少年は苦笑いを浮かべて飴を口にくわえ、触手を両手で掴んだ。
「戻るまでに、一人でももつといいんですけどねぇ」
 飴で片方の頬を膨らませ、少年はブランコに乗るように腰を下ろしながら一人ごちる。悪鬼がふわりと浮き、月が支配する夜空へと飛び出した。
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