第16話

文字数 3,405文字

 十分も経たずに手塚が戻ってきた。
「酷いものでしたよ。頬と足に腕、あと腰や背中にも蹴られたような痣がありました。痛かっただろうに、よく我慢したよ……」
 手塚は悲痛な顔でそう説明し、右近を書斎へ案内した。
 築何十年も経つ手塚家の廊下は、歩くごとに床がぎしぎしと音を立てて軋む。入って右に曲がり、二間続きの和室の前を通り過ぎて正面の扉を開けると、内装をリフォームしたのか、フローリングのキッチンとリビングダイニングになっていた。すぐ右手に二階への階段があり、その裏側に隠すように扉が一つある。
「書斎を作るのにここだけ増築したから、おかしな間取りになってるんだ」
 何度も人から突っ込まれたのだろう。自嘲気味に笑って先手を打った手塚に、右近はそうかと一言だけ返した。
 どうぞと開かれた扉の向こう側は、確かに壁の色が違っていた。壁一面に天井まで届く棚が造りつけられ、専門書やファイルがびっしり詰まっている。正面の窓際にデスクが設置され、パソコンの両サイドは本が山積みだ。
 そのデスクの横で、折り畳み椅子にちょこんと腰を下ろした香苗が振り向いた。
「すぐに診断書を作るから、よろしくね」
 そう言って手塚は回転椅子に座り、デスクに向かった。
 少々不安そうに見上げてくる香苗の全身を、改めて確認する。自宅にいた時よりも、頬や足の痣が濃くなっている。
「少し痛むが、我慢しろ」
 手塚が先に説明したのか、香苗は何も尋ねることなくこくりと頷いた。右近は左手を香苗の頬に添え、右手を腫れた頬にかざした。すぐに手の中に光が灯り、香苗は眩しそうに目を閉じた。初めは心地良さそうな顔をしていたが、途中から痛みを堪えているのかぎゅっと唇を結び、閉じた目に力を入れた。
 父親は、かなり体格が良かった。少女を、しかも娘を殴り付けるなど外道のやることだ。自分の力がどの程度か知っておきながらの凶行。もし本気で、拳で殴られていたらどうなっていたことか。他の式神、特に左近や志季や椿、あるいは寮の者たちや宗史らがいたら決して許さなかっただろう。
 跡形もなく痣が消えたことを確認し、右近は残りの痣にも治癒を施した。最後に腰と背中を終わらせると、香苗は何故か顔を真っ赤に染め、めくり上げた服を慌てて下ろした。
「熱でもあるのか?」
 と問うた右近に、香苗は肩を竦めたままぶんぶんと勢いよく首を横に振り、手塚は少々残念そうな顔をした。
 三人が縁側へ戻り宗一郎に診断書が手渡されると、改めて宗一郎が香苗に尋ねた。
「香苗。今夜はどうする? 自宅へ戻るのなら右近を側に付ける。戻りたくなければうちに来なさい」
 香苗は逡巡し、右近を見上げた。
「家に、戻ってもいいですか……」
 戻ればあの両親がいると分かっていて、なおも戻りたいか。呆れるところではあるが、香苗にとっては住み慣れた場所だ。思うところもあるだろう。それに、もう二度と戻ることはないかもしれない。
 遠慮がちに尋ねた香苗に、右近は小さく頷いた。
「では明日、迎えに行くから連絡しなさい。連絡先は右近が知っている。荷物をまとめて、何かしておきたいことがあれば、その前に済ませておくように。学校にある私物は、ご両親から書類が届いたあとの方がいい。これから先のことは寮に入ってから話そう。いいね」
「はい……」
 想像もしなかった、突然の引っ越しに転校。友人たちとの別れは辛いだろう。浮かない顔をした香苗を一瞥し、右近は宗一郎を見やった。
「宗一郎、お前はここでいい。あとは私だけで十分だ」
 突然そう言って距離を取り、変化を始めた右近に宗一郎が目をしばたいた。だがすぐに喉を鳴らし、楽しそうな笑みを浮かべる。
「あれはそう言っているが、一人で乗れるか?」
「え、あ……多分……」
 香苗は何故笑われているのか分からないといった顔で首を傾げた。
「まあ、意地でも落とさないだろうから、安心しなさい」
 笑いを噛み殺したような震えた声で言う宗一郎に、香苗はますます困惑した表情を浮かべた。
 右近が変化し、乗れと促すと、香苗は宗一郎と手塚を交互に見やった。
「本当に、ありがとうございました」
 ほぼ直角に頭を下げた香苗に、二人が微笑ましそうな笑みを浮かべる。
「香苗さん」
 香苗が頭を上げると、手塚は言った。
「もう心配いらない。幸せになるんだよ」
 とても穏やかに、しかし力強く贈られた言葉に、香苗は目を丸くして息を詰まらせた。
「はい……っ」
 くしゃりと顔を歪め、必死に涙を堪えて絞り出した声は、少し掠れていた。
 宗一郎に抱え上げられた香苗が背にまたがると、右近は来た時と同じようにゆっくりと上昇する。香苗が宗一郎と手塚にぺこりと頭を下げ、二人は笑みを返した。
 自宅に帰り着くまで、香苗は一度も口を開かなかった。ただ強く両手で角を握り締め、眼下に広がる京の都を見下ろしていた。
 マンションに到着して、すぐに分かった。両親がいない。開けっ放しだった窓は閉められ、窓とカーテンの隙間から洩れるはずの明かりはなく、父親の車もない。日が変わるにはまだ余裕がある。就寝するには早い時間。
 右近は念のために周囲を見渡し、人がいないことを確認してから下降した。マンションの出入り口の横に降り立ち、香苗が滑るようにして降りるとすぐに変化を解いた。
 一緒に階段を上り、香苗が鍵で開けた扉の向こうは、真っ暗だった。人の気配は感じられず、脱ぎ散らかされていた靴もなくなっている。
 寒々とした空気と暗闇に覆われた部屋を見つめる香苗の顔は、ただ悲しげで、切なそうだった。
 ゆっくりと、躊躇うように玄関に足を踏み入れた香苗が電気を付け、あとから右近が入る。きちんと鍵をかけて、今度は草履も脱いだ。
 入ったリビングは出て行った時のままで、ローテーブルは斜めに傾き、ティッシュの箱もリモコンも床に落ちたまま放置されていた。また宗一郎が渡した用紙も、封筒と一緒に置き去りにされている。
 香苗は緩慢な動きで用紙を手に取り、じっと見つめた。しばらくして、丁寧に封筒にしまうと傾いたテーブルを整え始めた。ティッシュの箱とリモコンを拾い上げたところで、あ、と思い出したような声を上げて振り向いた。
「あの、右近さん。お腹、空いていませんか」
 途切れ途切れではなく、きちんと繋がった言葉。
「お前は?」
 問い返した右近に、香苗は目を落として小さく首を横に振った。食べた方がいいとは思うが、食べたくないのなら仕方がない。
「私は、食べずとも問題ない」
「そうなんですか?」
「ああ」
 本来、神に食事は必要ない。食べることはできるので出されればいただくが、志季や左近のように自ら食事を欲することはほとんどない。味を覚えてしまったため、久々に、と思うことはあるが。
 そうなんですね、と微かに浮かんだ笑みは、明らかに作り笑いだ。右近が部屋に踏み込んで以降、香苗は一度も泣いていない。宗一郎と両親がやり取りをする間や、手塚からの言葉にも、泣きそうではあったが結局泣かなかった。
「あ、じゃあ」
 香苗は思い付いたように立ち上がった。
「お風呂に入って、ゆっくりしてください。準備してきます」
 ああでも着替えはどうしよう、と一人ごちながら脇をすり抜けようとした香苗の腕を、右近が掴んだ。香苗が驚いた顔で立ち止まり振り向く。
「無理をするな」
 わずかに香苗の顔が強張った。
「もう、心の内に溜め込むな。言いたいことがあれば言え。泣きたいのなら泣け。誰もお前のことを鬱陶しいなどとは言わん」
 生来気の弱い質なのか、それとも後天的なものなのかは分からない。けれど、弱い部分は誰にでもあって、それを咎める権利は誰にもない。
 右近は掴んでいた腕を離し、香苗と向き合った。真っ直ぐに見上げてくる大きな目を見据えて、ゆっくりと両手を頬に添える。
「寮の者たちは、皆気の良い者たちばかりだ。お前を非難することも、罵倒することもない。そのままのお前を受け入れる度量がある」
 言葉を紡ぐごとに徐々に溢れた涙が頬を伝って落ち、添えた手を濡らす。
「安心しろ」
 そう言って、右近は優しく両腕に小さな体を抱きしめた。ゆっくりと、遠慮がちに香苗の腕が持ち上がり、強く着物を掴んだ。
 これまで溜め込んできた嘆きや悲しみ、友人と別れなければならない寂しさ、突如として変わる生活への不安。そんな様々な感情を全て吐き出すように、嗚咽はやがて泣き声となって部屋に響いた。
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