第2話

文字数 5,365文字

 宇治川沿いをひたすら進み、やっと目的地に到着した頃には、山中は真っ暗だった。
 突如としてぽっかり口を開けた場所に車を乗り入れる。敷地の入り口に立てられた大きな鉄の看板は迫り出した枝葉に上部を覆われ、文字も読めないほど錆つき、足は少し力を入れて蹴ると簡単に折れそうなほど朽ち果てている。奥へと伸びる道も、かつてはきちんと除草され整備されていたのだろうが、今は雑草が茂り放題だ。
 轍を辿るようにかなり奥へと進む。先行する樹と怜司の車のヘッドライトの先に、道を塞ぐように停車された車が何台も見えた。
「静かだな……」
 訝しげに晴が呟いた。来る途中に志季と椿の姿は見かけなかった。となると、ここに来ているはずだ。車の数からして仲間も大勢いるだろう。それなのに物音一つしない。すでに救出済みで、犯人たちから何か聞き出している最中か。
 それにしてもやけに数が多い。全員鬼代事件に関わっているのだろうか。
 先行する樹と怜司の車が停車した。とたん、樹が助手席から飛び出し、前を見据えたまま立ち尽くした。ヘッドライトとエンジンが切られ、晴が後ろに付けてエンジンを切った。真っ暗なはずの森の中、すぐ前方に二つの光が揺れている。
「何だ?」
「誰かいるな」
 警戒しつつ大河らが首を傾げて車から降りると、樹がぼやいた。
「やっぱり」
 その声をどう表現すればいいのか。納得したような、呆れたような、それでいて少し苛立ちも含まれた、複雑な声。
 大河たちが閉めたドアの音が森に響く。
「樹さん、って、あれっ?」
 駆け寄ると、懐中電灯を持った三人の男たちが立ってこちらを見ていた。
紺野(こんの)さんと北原(きたはら)さん、どうしてここに。そちらの方は」
 宗史が尋ねると、恰幅の良い五十がらみの男が答えた。
「下京署の下平(しもひら)だ。説明は後にしよう。樹、ここで間違いないな?」
 名指しで問われた樹が眉を寄せ、無言で頷いた。
「よし、行くぞ」
 背を向けて駆け出した下平に、紺野と北原が従った。樹が乱暴にドアを閉めて続いた。
「どういうこと?」
 困惑した表情で大河も続き、樹と怜司の背中を追いかけながら宗史と晴に尋ねた。連なった車の列の隙間を抜ける。
「下京署……あれか」
「哨戒の件か?」
「それしかない、管轄区だ。名前を呼び捨てるってことは、彼も知り合いだな」
「おいおいちょっと待て。やけに樹に繋がるな。どうなってんだ」
「……三年前か」
 小さく呟いた宗史の答えに、晴が口をつぐんだ。
 神妙な表情で樹の背中を見つめる二人を一瞥し、大河も視線を投げる。鬼代事件、哨戒の事件、誘拐事件、下京署の刑事、そして三年前。宗史と晴は何か心当たりがあるようだが、どう繋がるのか。
 三年前に、一体何があったのだろう。
 色々と聞きたいことは多いが、今は陽の救出が優先だ。大河は黙って足を進めた。
 車の列をすり抜けた先で、紺野たちが何かを避けるような仕草で足を止めた。エントランスまで少し距離がある。
「どうしたの?」
「見ろ」
 追いついた樹が尋ねると、下平が懐中電灯で地面を照らした。反射して何かが光っている。
「ガラス……?」
 足元からエントランス周辺にかけて、大量のガラスの破片が散乱していた。雑草の上に落ち、土も被っていないところを見ると、つい最近落ちたようだ。
 何かを持ち込んで割ったのか、それとも朽ちた窓ガラスが自然落下したのか。大河は思わず上を見上げた。目を凝らしても、暗い上に広がった枝に茂った葉が邪魔でよく見えない。と、宗史が思い出したように声を上げた。
「そうか、七階の大広間だ」
 全員の視線が集まる。
「宇治川を見渡すように、正面の壁一面がガラス張りになっている大広間があるんです。椿と志季が先に到着しているはずなので、もしかしたらそこから飛び込んだのかもしれません」
「何でそんなこと知ってんだ」
 紺野が尋ねた。
「一度調査に来て、くまなく回りましたので」
 なるほど、と納得すると、次は下平が車の列に視線を投げながら口を開いた。
「かなり大所帯だろうし、有り得るな。急ぐぞ」
「待った」
 下平の先導に続こうとした皆を止めたのは、樹だった。視線が注がれる中、樹は大河の肩にぽんと手を乗せた。
「大河くん、地天の霊符、持ってるよね?」
 にっこりと笑みを湛えて尋ねられた。来たなこのパターン、と大河はもうすっかり慣れた様子で頷く。今日は何をさせられるのだろう。
「障壁の術を行使。上に乗れば一気に上がれる」
「え……っ」
 さすがに予想しなかった。動揺した大河に、樹は笑みを収めた。
「躊躇してる暇なんかない。やって」
 強い口調に息を呑み、大河は大きく頷いてポケットから霊符を取り出した。理論上は可能だが、かなり危険だ。それに、真言は覚えたけれど行使するのは初めてで、正直自信などない。ないが、樹の言う通りだ。
「大河、しっかりイメージして霊力を加減しろ。森の中で地天の術は相性が良い、大丈夫だ」
「はい」
 反対すると思った宗史から許可代わりの注意事項が出た。大河は一呼吸置いてエントランスの方へ霊符を放ち構える。今から何が始まるんだと、紺野らが怪訝な面持ちで見守る。
 男八人が乗れる、七階までの高い壁。
「オン・ビリチエイ・ソワカ。帰命(きみょう)(たてまつ)る、鋼剛凝塊(こうごうぎょうかい)怨敵守護(おんてきしゅご)牆壁創成(しょうへきそうせい)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
 夜の森の中に、大河の凛とした真言が響いた。
 ゴ、と一度短く地面が揺れた。と思ったら、ゴゴゴゴ、と唸り声を上げ、目の前の地面がもこっと盛り上がり霊符を取り込んだ。刑事組が声もなくぎょっと目を剥いた。
 本来この術は、樹が言ったように「障壁」を成す術だ。地盤ごと形を変え、周囲の土を巻き込んで強固な壁を作る。その際の揺れで敵の足を止め、攻撃を防ぎ、あるいは視界を塞ぐためのものであり、決して、
「乗って!」
 人が乗るものではない。
 樹の指示に、宗史と晴、怜司が咄嗟に反応し長方形に形成した障壁の上に飛び乗った。
「大河乗れ、早く!」
「待って待って!」
「下平さんたちはここにいて!」
「馬鹿言うな、誘拐は警察の管轄だ!」
「北原急げ!」
「まま待ってください!」
 駆け寄って飛び乗ろうとする下平に紺野らが続く。樹が舌打ちをかましつつ手を貸した。つま先がすっかり浮いている。
「どうなっても知らないからね!」
「上等だ、現役警察官舐めんな!」
 一歩出遅れた大河を宗史が引っ張り上げ、樹と怜司、晴が刑事組を引き上げる。
「下平さんちょっとダイエットしなよ、重い!」
「やかましいわ!」
「北原さん、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫。ありがとう、怜司くん」
「あんたいつまでしがみついてんだ、離れろ!」
「しょうがねぇだろうが、落ちそうなんだよ!」
 転がるように全員が乗る間も、障壁は形を成してどんどん高さを増してゆく。厚さは二メートルほど、長さは五、六メートルほどだろうか。大柄な下平と晴がいて、男八人は少々狭い。足元はコンクリートさながらに硬いが、何せ形成スピードが速く、命綱なしの上に吹き曝しでジェットコースターに乗っている気分だ。
「皆、伏せて!」
 押し合い圧し合いしていると、頭上を覆っている枝葉にあっという間に迫り、樹の声で一斉に顔を伏せた。落ち葉の山にダイブするような音と枝が折れる乾いた音がすぐ耳元で響く。
 枝葉に体中を叩かれながら、ものの数秒で森の上へと抜けた。地上を照らす月の明かりで、視界が一気に明るく開ける。目の前を、くすんだ窓と罅割れた壁が下へと流れていく。
「加減しろと言っただろうが!」
「したよ、したけど――っ!」
「速い速い速い落ちる!」
「何これ楽し――!」
「はしゃぐな馬鹿! 落ちたら死ぬぞ!」
「おい、何なんだこれは!」
「俺たちにも分かりません――っ!」
「着くぞッ! せぇのぉ……ッ」
 皆が同時に叫ぶ中、紺野の合図で一斉に顔を上げた。罅割れた壁を通り過ぎ、ガラスがはまっていない巨大な四角い穴の下部が視界に入った。
「飛べ――――――ッ!」
「ぎゃ――――――ッ!!」
 大河と晴と北原が上げた悲鳴と共に、一斉に穴に飛び込んだ。
 エントランス手前ぎりぎりに形成したため、その分距離がある。だが助走スペースがない。障壁の端を蹴る脚力だけで飛んだ大河はかなり格好の悪い体勢で、一瞬だけ上から室内を眺めた。背後では、障壁が窓を塞ぐように通り過ぎ、八階に到達してやっと止まった。
 窓から少し離れた場所にはピアノ。側に男が二人。部屋の中央辺りに結界が一つ。椿が誰かを治癒しており、回りに男たちがいる。その前に、左右に分かれて凶器を持った男たちに取り囲まれているのは、陽と志季。男たちのほとんどが、邪気を纏っていた。
 ピアノを飛び越えながら、無事だった、良かった! そう思ったのも束の間、気が付いた時には眼下に男が一人、立ち尽くしていた。
「どいてどいて――――っ!」
 注意を促すが遅かった。男は驚きの顔で金魚のように口をパクつかせ、しかし体が言うことを聞かないのだろう、動こうとしない。間に合わない。
「ごめん!」
 大河は一つ謝り、男の顔面を靴底で捉えた。男はずしりとかかった体重と勢いに耐え切れず、エビ反りになって後ろに倒れ込んだ。男の顔を踏みつけ、まだ収まらない勢いのまま体勢を崩して床をごろごろと転がった。転がる先にいた男たちがお化けでも見たような声を上げて避けていく。
「大河さん!」
 陽の声が聞こえたと同時に服を引っ張られ、大河は足で床を擦ってやっと止まった。土が混じった埃の臭い。昨日は雨でずぶぬれになり、今日は埃まみれ。訓練では汗まみれだし、何か色んなものにまみれるようになったな、とおかしな方向に思考を巡らせる。
「大丈夫ですかっ」
「な、何とか……」
 助けに来たのに助けられてどうする。大河は少々情けない気持ちで頭を振って、埃を落とした。心配そうにこちらを覗き込む陽の顔を見て驚いた。口の端に、傷。
「陽くん、それ……」
「あ、ちょっとヘマしてしまいました。大丈夫です、大して痛くありません」
 照れ臭そうにはにかむ陽に、大河は唇を噛んだ。中学生相手に、何でこんなことができるんだろう。
 一方、蜘蛛の子を散らすように避けた男たちの中に無事着地したのは、宗史、晴、樹、怜司の四人だけで、刑事組は何がどうなったのか、下平を上にして紺野と北原が下敷きになって転がっている。
 正面の窓が障壁によって塞がれ、月明かりは左右の窓からしか差し込まない。薄暗さを増した空間が、唖然とした静寂に包まれた。
 陽に支えられた大河が一息ついて立ち上がると、紺野らも「いたた」と起き上がった。
「……何だよ、こいつら……」
 結界の側にいる男の一人が、沈黙を破った。
「着物の奴といい、この変な壁みたいなもんといい、こいつら――」
 男は注目を浴びながら、口にした。
「人間か……?」
 その一言が、妙な不安と重苦しさを持って室内に響いた。男たちが一斉に我に返り、ぽつぽつと疑問の声を上げる。七階という、普通ならば絶対に飛び込んで来られない場所。そこに命綱なしで飛び込んできた着物の男女、異常な強さ、見えない壁、そして目の前にある窓を塞いだ大きな壁に乗って来た、八人の男たち。さらに、
「ぐ……っ」
 結界の中で、治癒を受けていた男がくぐもった呻き声を上げてうっすら目を開いた。
「痛みます、噛んでください」
 苦悶する男に椿がハンカチを口の中へ入れる。それを目にした男が、驚愕の表情を浮かべた。
「き、傷が……消えてる……!?」
 有り得ない現象に、男の顔が驚愕から恐怖へと変わった。
「お、おいやめろよ、冗談だろ有り得ね……っ」
 側にいたもう一人の男が、引き攣った笑みで結界を覗き込む。そして、息を詰まらせて身を引いた。化け物でも見たような怯えた表情で、無言のまま一歩後退した。それを見た他の男たちは、おいマジか、冗談だろ、見間違いだろ、と否定の言葉を口にするが、空気がじわじわと恐怖の色に染まり始める。
「おい」
 と、ピアノの前にいた男が声を張った。逃げ腰だった男たちが一斉に注目する。
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ。何か仕掛けがあるに決まってんだろ」
「で、でも良親(よしちか)さん……っ」
「その証拠に!」
 良親と呼ばれた男は、反論を鋭く遮って下平を顎でしゃくった。
「そこにいるおっさんは、下京署の刑事だ」
 男たちは驚愕の顔で声を呑み、紺野と北原は窺うように下平を見やった。
「いや、知らねぇ顔だな。何で俺のこと知ってんだ……?」
 下平が怪訝そうに眉をひそめて、良親を見据える。
「くだらねぇこと言ってないで頭使え。車のナンバー控えられてたら、お前ら捕まるぞ。顔も見られてる」
 自分たちが置かれた状況を理解したのか、男たちに焦りの色が浮かんだ。間違いなく乱闘になる。大河は緊張を押し殺すように拳を握った。
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