第12話

文字数 2,796文字

 明の前に、人の形に似た白いものが三つ、音もなく浮かんだ。こちらの動向を窺うようにゆっくりと宙を滑り、正面に移動した。何かの手品だろうか。どんな仕組みになっているのだろう。
「あの……」
 視線を明へ投げると目が合って、その冷ややかな眼差しにびくりと体が震えた。さっきまであんなに穏やかに笑っていたのに、今は能面のような無表情で、真っ直ぐこちらを見据えている。
 明の豹変ぶりと、宙に浮かぶ白い人形。理解できない状況に、本能が警鐘を鳴らす。近付くな、逃げろと。だが、正面は進路を塞ぐように正体不明の白い人形が浮かんでいて、後ろは洗面所。逃げられない。
 ――怖い。
 そう思ったとたん、白い人形が不気味に見え、明に対して恐怖を覚えた。美琴は顔を強張らせ、バスローブの合わせを震える手で手繰り寄せた。足も震えて上手く動かない、声が出ない。呼吸が浅くなって、心臓が鼓動を速めた。頭が、混乱する。
 徐々に距離を縮める白い人形と、ゆっくり腰を上げる明を交互に見やる。
 これは何だ――あの人は、何者だ。
「いや……」
 喉の奥から掠れた声を絞り出すと、やっと足が動いた。近付いてくる白い人形を注視したまま、じりっと洗面所の中へ下がる。
「来ないで……っ」
 情けないほど、声が震えていた。履き慣れないスリッパが脱げてバランスを崩し、尻もちをついた。洗面所へ入ってきた白い人形を見上げ、美琴は小さく首を振った。じわりと目に涙を滲ませ、尻を滑らせて後ろへ下がる。
 白い人形がすっと目の前に降りてきて、ゆっくりした足音と共に明が戸口の前に姿を現した。変わらずの無表情で、こちらをじっと見下ろしている。
 人の形をしているからだろうか。白い人形には何も描かれていないのに視線を感じ、それがますます恐怖を増幅させた。そして、明の感情の読めない眼差し。
 とん、と背中にスツールが当たった。目に溜まった涙が、瞬きに弾かれて頬を伝う。
 どうしてこんなことになっている。何が悪かった。買春なんてする人がまともなわけないと知っていたのに、言い訳をして金を稼ごうとした報いなのか。本当は嫌なのに。こんなことやりたくなかったのに、祖母の言いつけを守らず自分を裏切った罰なのか。じゃあどうすればよかった。母の機嫌を窺いながら、母からの暴力に耐えながら生きればよかったのか。修学旅行も進学も、自分の人生すら諦めて、産むんじゃなかったと生を否定され、金を稼げなければ価値がないと軽んじられ、それでも逃れられずに、一生傀儡のように生きろと。
 とめどなく流れ落ちる大粒の涙が頬を濡らし、顎から床にこぼれ落ちて、いくつもの小さな水たまりを作る。
「もう、やだ……っ」
 いつも側にいてくれて、笑いかけてくれて、抱きしめてくれた祖母はもういない。けれど友達や瑠香たち、先生がいる。皆優しくて大好きだ。
 でも、一番側にいて欲しい時に、彼らはいない――あたしの側には、誰もいない。
「いや……」
 小さく首を振って拒絶してみても、顔をうずめて目を逸らしても、これまで溜め込んできた全ての感情は、意思と反して容赦なく溢れ出す。
 恐怖や孤独、悲しみや虚しさ、惨めさ、嘆き。それらが、祖母との思い出も、友人や瑠香たちと過ごした時間や記憶もじわじわと侵食し、真っ黒に染め変えてゆく。
 ――まるで、初めからそんなものなかったかのように。
 あの日、大勢の人が行き交う中、一人ぽつんと佇んでいた。心配して声をかけてくれた老夫婦も、補導して真剣に諭してくれた刑事も、きっともう自分のことなど忘れている。老夫婦にとっては、日常のほんの些細な出来事。刑事にとってはいつものこと、仕事で補導しただけのこと。この先、あの子どうしてるかなと思い出すことはないだろう。
「やだ……ッ!」
 世の中にはこんなにも人がいて、自分は間違いなくここにいるのに、誰一人として自分のことを見ていない。声をかけても、手を伸ばしても、樋口美琴という人間などこの世に存在していないかのように、誰も耳を傾けない、誰の目にも映らない。誰にも認識されない。誰の記憶にも残らない。誰もが忘れ去ってゆく。確かに存在しているのに、誰の中にも、存在しない。そうして誰にも愛されず、年老いて一人、死んでゆく。
「いやあぁぁッ!」
 雑踏の中に一人取り残されたような、森の中で人知れず朽ち果ててゆく廃墟のような――そんな、強烈な孤独と恐怖。
「――ごめん」
 不意に耳に飛び込んできたのは、男の声。聞き心地の良い、男の人の声だ。
「怖がらせてすまない。大丈夫。もう、大丈夫だから」
 何度も何度も、呪文のように繰り返される「大丈夫」。それは、雨上がりの雲間から差し込む陽射しのように、一筋一筋、闇を切り裂いて優しく胸の奥を照らした。
 気が付けば、温かい腕にすっぽりと包まれていた。背中を撫でるのは、大きくて温かい手。まるで、胸の中に広がった闇を優しく取り払うように、ゆっくりと、何度も撫でる。
 大丈夫だよ、ごめんねと耳元で囁かれる声と、祖母の声が重なった。こうして誰かに抱きしめられるのは、祖母が亡くなって以来だ。
 美琴は、しゃっくりのような嗚咽を漏らしながら目を閉じた。
 バスローブ越しに伝わる人の熱と、落ち着いた優しい声と、背中を撫でる大きな手。一つ撫でられるごとに、孤独と恐怖で凍りついた心がゆっくりと解けてゆく。
「おばあちゃん……」
 どのくらいそうしていたのか。あれだけ溢れていた涙がやっと流れなくなった頃、美琴はわずかに頭を持ち上げた。泣きすぎて頭がぼんやりする。
 明が腕を緩め、しかし背中を撫でる手は止めない。
「怖がらせてすまなかった。大丈夫かい?」
 一度鼻をすすって、美琴は恐る恐る上目づかいに明を見上げた。さっき見た冷ややかな目は幻覚だったのかと思うほどの、穏やかな眼差し。思わずほっと安堵の息が漏れた。
 こくりと頷くと、明も安心したように頬を緩め、美琴の頬に残る涙を指で拭った。
「少し確かめたいことがあったんだが、やりすぎた。本当に悪かった」
 そう言ってトイレの方を振り向いた明に首を傾げながら、視線を辿る。そこには、さっきの白い人形が全て、何故か水に濡れて床に落ちていた。何があったんだろう。確かめたいこととは何だろう。
「改めて、自己紹介しよう」
 きょとんと目をしばたく美琴を置いて、明は内ポケットに手を差し入れた。名刺入れを取り出し、名刺を一枚引き抜いてこちらへ向ける。
「土御門家当主、土御門明。陰陽師だ」
 まさか名刺を渡されると思わなかった。けれどそれ以上に、明の口からさらりと飛び出した言葉に、思考が止まった。名刺には、京都の住所と真ん中に明の名前。その右上には、「陰陽師」と印字されている。
 美琴は目をまん丸にし、ゆっくりと視線を上げた。
「――え?」
 この時何故明が笑いを噛み殺したのか。その理由を知るのは、もう少しあとだ。
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