第8話

文字数 2,890文字

「春くん」
 もどかしげにスニーカーをつっかけると、鮮明な声が耳に飛び込んできた。はっと我に返って顔を上げた先には、携帯を手にした夏也が、黒い眼差しでこちらをじっと見つめていた。
「どうか、しましたか?」
 さっきまで耳に入らなかった祭りの賑やかな声が戻ってくる。春平は視線を逸らし、ゆっくりと深呼吸をした。呼吸が浅くなっていたのか、少し息苦しい。額にじわりと汗が滲み出る。
 春平は最後に大きく息を吐き出して、口元に笑みを浮かべて顔を上げた。
「ううん。何もないよ。弘貴が心配で、ちょっと考え事してた。夏也さんは? 見つかった?」
 足を上げ、スニーカーの踵に指を突っ込んで履く。
「いえ……、ああ、いました」
 背後へ視線が投げられ、春平は後ろを振り向いた。
「そいつ、すげぇのは認めるんだけど可愛げがない……あれっ」
 しかめ面の弘貴と苦笑いの園長が姿を見せ、弘貴がこちらに気付いた。
「二人揃ってどうしたんだ?」
 人の気も知らないで。春平と夏也の嘆息が重なる。
「どうしたじゃありません。いないので探したんですよ。そろそろ時間です」
「もうそんな時間?」
 春平と夏也の二度目の溜め息と、園長の笑い声が重なった。
 少しだけ園長へ近況報告をしてから別れ、茂と合流し、萌と再会した。彼女には、何度もお菓子を振る舞ってもらったことがある。三年前の礼と共に名刺をもらって近況を聞き、またねという言葉に見送られて施設をあとにした。
「なんかかっこいいな、パティシエって」
 車の後部座席で、弘貴が名刺を眺めながら興奮気味に言った。
「萌ちゃんのお菓子は、見た目はもちろん、とても美味しかったですよね」
 助手席の夏也が、表情を柔らかくした。
 夏也と萌は、年が一つ違いで互いに細かい作業が得意という共通点もあり、施設にいた頃から仲が良かった。今でも時折連絡を取っていて、調理師学校へ入学したことも夏也からの情報だ。だが、どうやら驚かそうと思っていたらしく、萌は社員になったことを黙っていた。友人からの思いがけない報告が相当嬉しいのだろう。その証拠に、いつもより口数が多い。
「そうそう。特にチョコレートケーキが美味かった!」
「スポンジも綺麗に膨らんでいましたし、飾り付けも上手でした」
「今度、皆で行ってみようぜ」
「いいですね。誕生日ケーキなどの予約は、受け付けていただけるんでしょうか」
「萌姉が作ったりすんのかな」
「どうでしょう。長年アルバイトをしていたとはいえ、パティシエとしては新人ですし」
「そっかぁ、残念。あ、寮に来て作ってくんねぇかな」
「さすがにそれは。萌ちゃんも忙しいでしょうし、申し訳ないですよ。でも、プロの作業を目の前で見たい気もします。昔より、さらに上手になったんでしょうね」
「ほらぁ。夏也姉、ああいう繊細な作業好きだもんな」
「一度でいいので、ウェディングケーキのような派手な飾り付けをしてみたいです」
「ウェ、ディング……」
 弘貴が言葉を詰まらせた。どうせ、ウェディングケーキから結婚式を連想し、夏也の結婚へ繋がったのだろう。想像力が豊かなことはいいけれど、ただの例えにそこまで連想して動揺しなくても。春平は心の中で突っ込み、横目で弘貴を盗み見た。一点を見つめて何かぶつぶつ呟いている。
「ウェディング、ウェディングケーキ……ウェ……ウェディングって何だっけ?」
 ゲシュタルト崩壊が早すぎる上に見開いた眼が血走っていて怖い。
 夏也に好きな人がいるらしいのは間違いなさそうだが、相手が大河かもしれないと知ったら、弘貴はどう思うのだろう。もちろん、こんなこと言うつもりはないし、あくまでも可能性の話しだ。むしろ、十年越しの恋をこれ以上こじらせなければいいけれど。
 動揺する弘貴とこっそり溜め息をつく春平をよそに、夏也と茂は「飴細工や砂糖菓子で蝶やお花を作ってみたいです」「夏也さんなら作れそうだねぇ」などと盛り上がっている。茂が必死に笑いを堪えているように見えるのは気のせいではないはずだ。
 話題を変えなければ、これ以上耐えられない。茂が。花火はどうする? と声をかけようとしたその時、携帯の着信音が鳴った。夏也が膝に抱えていた小ぶりのショルダーバッグから携帯を取り出す。
「宗一郎さんです」
 何かあったのだろうか。まさか早く帰るよう催促ではあるまい。沈黙と共に、少しの疑問と緊張感が車内に落ちる。
「もしもし。……お待ちください、スピーカーにします」
 夏也にしては少し早口だ。春平と弘貴が顔を見合わせた。夏也が携帯を耳から話し、スピーカーに切り替えながら告げる。
「下平さんから連絡があって、近藤さんと連絡が付かないそうです」
「えっ!」
 春平と弘貴が同時に前のめりになり、スピーカーから宗一郎の声が流れた。
「今、夏也が言った通りだ。ひとまず、今から言う住所へ向かってくれ――」
 夏也がナビに打ち込む。茂が確認して、飛ばせば二十分くらいかな、と呟いて速度を上げた。
「宗一郎さん、詳細は」
 春平が問うと、宗一郎は淡々と状況を説明した。
「――現在、左近が先行し、紺野さんも向かっている。鬼代事件との関係性はまだ分かっていない。十分警戒するように」
「了解」
 四人が声を揃え、通話が切られた。
「ずいぶん山ん中だな」
 弘貴がナビを見据えて、神妙な顔で言った。
 宗一郎が告げた住所は、左京区の477号線沿いにある小さな町だ。現場と思われる場所は、中心部からさらに山中へ入ったところにあり、地図を見る限り他に建物は見当たらない。
「拉致するなら、そういう場所を選んでも不思議ではないですね。陽くんの時もそうでしたし」
 携帯をバッグにしまう夏也の表情は冷静だが、声が硬い。
「この状況だと、事件と関係があるのかないのか分からないね。北原さんの件で、敵側に近藤さんの身元は伝わってるだろうから」
「てことは、事件関係だったら平良の可能性もあるのか……」
 弘貴の呟きに、重苦しい沈黙が落ちた。
 現在、平良の実力ははっきり分かっていない。けれど、樹を狙うくらいだ。同等、あるいはそれ以上の実力の持ち主であることは間違いない。それに、平良一人とは限らない。左近がいるとはいえ、もし他の仲間や、最悪鬼や式神がいたらこのメンバーでは――いや、宗一郎は「現在」と言った。哨戒中の右近や閃をあとから向かわせるつもりなのかもしれない。
「しかし、冬馬さんが聞いた件、という可能性もあります」
「あ、そっか。それもあるのか。てことは、近藤さんの個人的なトラブル?」
「身元が分からなかったのが痛いよね」
「だな」
 あの件については、昨日の夜に明から報告が入っていた。下平たちが徹底的に調べたそうだが、結局身元は判明せず、男の防犯カメラ映像の画像が全員に送られたくらいだ。
「どちらにせよ、相手は一人じゃないことは確かだよ。皆、油断しないでね」
「了解」
 春平、弘貴、夏也の硬い声が、車内に響いた。
 春平は、膝の上の拳を握って車窓を眺めた。鬼代事件が発生して、一カ月以上。もしこれが敵側の起こしたものならば、初めて敵と対峙することになる。
 心臓が、痛いくらいに鼓動を速めた。
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