第3話

文字数 2,574文字

「それにしても……」
 こっそりと一人で苦笑する明をよそに、宗一郎が井桁を見やってぼそりとぼやいた。
「やはり暑いな。蜃気楼が見えそうだ」
 これでもかと歪んだ顔に思わず噴き出し、明は肩を震わせた。
「この時期に野外で火を焚けば暑いに決まっていますよ。しかも、貴方は全身真っ黒ですからね」
「面白いくらいに熱を吸収するぞ。着てみるか?」
「嫌です」
 自分が指定しておいて今さら何を言う。あっさりと拒否され、宗一郎が小さく舌打ちをかました。全身真っ白といっても、立烏帽子をかぶっている頭は蒸れるし、そもそもこの格好自体が暑いのだ。今すぐ水風呂に入りたい。
「始めますよ」
 これ見よがしに溜め息をついた宗一郎を無視し、明は結界内へ足を踏み入れる。
 五芒星を描いた際、中央に五角形ができる。井桁とゴザは、その中に収まっている。線を踏まないように注意を払って中へ入る。一歩一歩足を踏み出すごとに熱気が強くなり、肌が焼けそうだ。慣れていると言っても、普段とは規模が違う。
 護摩は、祈祷の内容によって装束の色や座る方向、護摩炉の形も三角や円など細かい決まりがあるのだが、炉が使用できないため「井」の形を採用した。
 宗一郎は南、明は北の座布団に腰を下ろす。右側に置かれた護摩木とペットボトルの位置を調節し、目を伏せた。一度、ゆっくりと深呼吸をしてから瞼を持ち上げ、目の前で燃え盛る炎を見つめる。
 背中で感じるのは、尚の強くなっていく霊気。
「明、いいか?」
 炎の向こう側から声がかかり、明は人差し指と中指を揃えた左手を持ち上げ、唇に添えた。
「はい」
 尚の霊気が収まっていくのを感じながら答えて数秒後、ぱちん、と大きく火が爆ぜた。
「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ――」
 示し合わせたように、不動明王の大呪真言を唱える二つの声が重なる。
 不意に、井桁の炎がゆらりと揺れた。隙間から漏れていた炎が引っ込み、わずかに細長くなって心持ち上へと伸びる。まるで炎に意思があるかのような、あるいは誰かによって操られているような、そんな動きだった。
 まだ太陽が照りつける午後五時過ぎ。
 高く晴れ渡った夏の空と、のんびり流れる雲の下。同じ声量、同じ速度で繰り返し唱えられる真言が、広大な敷地に厳かに響く。遠くの方で、電車がけたたましい音を立てて通り過ぎて行った。
 尚は、二人の真言を乗せて天へと昇ってゆく煙を視線で追いかけた。背後には、巨大な結界で護られた大極殿が静かに佇んでいる。
 公園内には電車、大極殿のすぐ裏側は104号線が走り、住宅街が広がっている。東側にはみやと通り。高い城壁で囲まれているわけではない。そうそういるとは思えないが、霊感が強い者なら見えてしまうだろう。けれど、最悪の事態と比べればリスクにもならない。
「ほんと、迷惑だわぁ」
 尚は溜め息交じりにぼやいた。
 明から協力要請を受けて、もう一カ月以上。楠井家と玖賀家の調査や各所への根回し、刀倉家への訪問と下準備をしつつ、ついでに潜伏場所を探る。ひと段落つくたびに自宅へ戻っては、また明から連絡が来てあちこち飛び回る。刀倉家への訪問は、初めての山口ということもあって楽しかった。大河の両親や幼馴染みとは話が弾んだし、鈴からも明や寮の者たちの近況を聞くことができて、なかなか有意義なものだった。調査や根回しも、仕事がてらちょっとした旅行気分を味わえた。だが、いい加減もとの生活に戻りたい。
 尚はもう一度溜め息をつき、気だるそうに歩きだした。土嚢袋を平らに積み上げ、よっこらせと腰を下ろす。
 近畿一円、さらに龍脈を通して日本各地を守護する巨大結界。それを発動させようというのだ。時間もかかるし、膨大な霊力を消費する。正直、刀倉大河にやらせればいいのにと思わなくもない。彼がどれほどの霊力の持ち主かは聞いているし、おそらく明の霊力量では、宗一郎の負担が大きい。彼らなら、そのくらいのことは分かるだろうに。さらにだ。
「あの馬鹿、まだ何か気にしてるのかしら」
 脳裏に思い浮かべたのは、小生意気で意地っ張り。そのくせ妙に気を使う、年下の従弟。ただし、栄晴の葬儀の時以来顔を合わせていないので、高校生で成長が止まっている。
 長男よりも次男に陰陽師としての資質がある。その事実は、二人の間に微妙な距離を作った。というよりは、晴が勝手に後ろめたく思って距離を作ったと言った方が正しいだろう。
 どう贔屓目に見ても、当主としての適性があるのは明の方だ。温厚で勤勉、頭も切れるし人付き合いも上手い。対して晴は、堪え性がなく大雑把。面倒臭がりで洞察力に欠ける。名前がどうとか、霊力量がどうとか、そんなことは関係ない。栄晴は明を当主に指名する。傍からでも分かったことだ。事実、栄晴の死後、宗一郎は迷うことなく次期当主に明を指名した。
 名前に霊力量、陰陽師としての資質。それらに囚われて訓練をさぼり、ぐだぐだと何年も逃げ続けた結果、未だ実力を発揮できずこの有様だ。
「相変わらずのお馬鹿さんだわ」
 明が当主の座だの資質だのにこだわるような奴ではないことくらい、弟の晴が一番よく分かっているはずなのに。一体何をそんなに気にしているのか。
 もし晴が覚醒していたら、今目の前にいたのは、晴と大河だったかもしれない。当主以上の霊力の持ち主が二人揃えば、時間も負担も軽減できた。明と宗一郎が戦闘に加われば、今以上にこちらが有利だった。ただ、不安要素がないわけではない。大河は集中力があるようだが、訓練を始めて間もない。晴の方は長時間の祈祷に耐えられたかどうか。こういった不安もまた、彼が当主の器ではない証拠であり、明と宗一郎があえて自ら発動に臨んだ理由なのだろう。あるいは、当主としてのプライドか。
 と、傍からなら何とでも言える。第三者だから見えるもの、当事者だから気付かないものなど、いくらでもある。
「本家に生まれなくてよかったわぁ」
 後継ぎだの資質だの気にしなくていい。けれどしっかり霊力を受け継ぎ、戦えるだけの力がある。一番気楽で、有難い立場。まあ、こき使われはするが。
 尚は息をついて肘を膝に乗せ、頬杖をついた。
 敵が動くのは陽が落ちてから。日没まであと二時間。それまでに結界が発動できればいいけれど、果たしてどうだろう。
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