第4話

文字数 3,643文字

「んっ」
 紺野と北原は、同時に顔を歪めた。
「何だ、この臭い」
「生臭いですね」
 香苗の以前の自宅周辺である。近くの駐車場に車を停め、一方通行の道路を左手に進み、自動販売機が設置されている角を曲がって脇道に入ったところで気付いた。微かに鼻腔を刺激する腐臭は、生ゴミの臭いだ。しかし駐車場近くにあったクリーンステーションに、ゴミはなかった。ではどこから漂ってくるのか。
 口と鼻を覆ったまま足を進める。一歩一歩近付くごとに臭いがきつくなる。車一台がぎりぎり通れるくらいの道の左手に建つ、横長三階建ての建物が、香苗が以前住んでいたマンションだ。薄茶色のタイル張りの外壁は小洒落ていて、築年数を感じさせない。
 そのマンションの広い専用駐車場の前で、三人の主婦らしき女性たちが輪になっている。この異臭の中で井戸端会議だろうか。
「部屋どこだ?」
「206号室ですね」
 ついと視線を上げると、二階のベランダの一つに山積みにされた京都市指定の黄色いゴミ袋が見えた。この腐臭の発生源だ。これでもかと眉間に皺をよせる。
「まさか、あの部屋じゃねぇだろうな」
「ど、どうでしょう……」
 ゴミ屋敷や汚部屋を綺麗にするというテレビ番組を見たことがあるが、正直、有り得ねぇ、と思う。あんな汚い部屋でよく暮らせるものだ。想像しただけでも気分が悪くなる。というかすでに若干気持ち悪い。
 盛大に溜め息をつきながら横を通り過ぎた二人を、主婦らが窺うような視線で見送った。
 向かって右端が入口になっている。銀色の鍵付き集合ポストを確認すると、野田と名前が入っていた。
「変わってねぇのか」
「どうします? 香苗ちゃんの連絡先は知ってると思いますけど」
「そうなんだよな。やっぱ隣近所か」
 低く唸りながら再度ポストを見やると、206号室の両隣の名前が入っていない。嫌な予感がする。北原も同じようで、ゆるゆるとこちらを向いた。顔を見合わせ、窺うような視線を交わす。
「……とりあえず、行ってみるか? 両隣、名前入れてねぇだけかもしれん」
「そう、ですね……場所だけでも、確認しておきましょうか……」
 本音はこのまま帰りたい、と思っていることは互いに分かったが、これも仕事のうち、我慢だ。
 吐き気を根性で堪え、重い足取りで腐臭が漂う階段を上る。
 そういえば、と犬神事件の橘家を思い出した。あの家もずいぶんと荒れていた。生臭さもあったがここまでではなかったし、あの状況では仕方がないと思う。ついでに近藤の科捜研の個室も思い出したが、さすがに腐臭がしたことはない。汚いことに違いはないが。
 しかしこれは別だ。ちゃんと人が住んでいるにもかかわらず、真夏に生ゴミを放置すれば、ものの数時間で腐食する。それを積み上がるほどベランダに放置しているということは、部屋の中も相当荒れているだろう。カビや埃、ダニ、小さな虫はもちろん、頭にGが付く人類の天敵も発生しているのは明らかだ。ぞわっと全身に鳥肌が立った。週二回のゴミ捨てが何でできねぇんだ! と詰め寄りたい。
 二階に着くと、手前の部屋から201号室になっていた。奥へ行くほど号数が上がり、襲った強烈な臭いに北原がえずいた。つられるからやめろ。これはとっとと確認して退散するのが正解だ。
 紺野はスラックスのポケットからハンカチを取り出して口と鼻を覆い、足早に外廊下を進んだ。後ろで「紺野さん格好良いです」と北原が本気なのか茶化しているのか分からない賛辞を飛ばし、またえずいた。汚部屋に放り込んでやろうか。
 遠目から、二部屋分のドアノブにぶら下がる袋が見えた。ガス会社などの案内の冊子だろう。つまり空き部屋だ。その真ん中のドアには何もない。
 一応、横目で部屋番号を確認しながら進む。袋はやはり205号室。そして206号室の前で急停止し、表札を確認する。野田。やっぱりここか。扉の隙間から洩れる一段と強烈な腐臭に気が遠くなりそうだ。とりあえず確認は終わった逃げる、と踵を返そうとした時、視界の下に動く物体が映り込んだ。
「……」
 最大の危機察知能力が発動し、無になった。無意識に体が動き、それをそれと確認することなく階段へ向かって走り出す。
「紺野さん?」
 先輩を危険地帯に一人送り出した裏切り者の横をすり抜けながら、紺野はくぐもった声で警告した。
「逃げろ」
「は? 逃げろって、何から……」
 紺野が走り抜けた廊下の先に視線を向けて見えたのは、こちらに向かってわしゃわしゃと床を這う黒光りの物体、二匹。ひっ、と引き攣った声を上げ、北原は青ざめた顔で転がるように階段を駆け下りた。
 マンションの入り口を飛び出すように駆け抜け、道路を挟んだ隣の塀に手をついて肩で息を整える。嫌な汗が背中を伝った。駆けた距離は長くないが、できることなら一生お目にかかりたくない生き物と臭いのせいで呼吸が浅かったようだ。
「ちょ……っ紺野さん置いて行かないでくださいよっ!」
 苦言を呈しながら追い付いた北原に、紺野はこめかみに血管を浮かべてぎらりと鋭い視線を投げた。
「ついてくる素振りも見せなかったくせに何言ってる!」
「気持ち悪くて……っ」
「そんなの俺も同じだ、馬鹿! 教えてやっただけでも有り難く思え!」
 いつもより強めに頭を叩いてやると、いたっ! と悲鳴を上げて頭をさすりながら素直に謝ってきた。
 まったくお前は、と溜め息交じりにぼやいていると、先程井戸端会議をしていた主婦らが「ねぇ、ちょっと」と声をかけてきた。
 小さく手招きをされ、紺野と北原は顔を見合わせた。ハンカチをポケットに押し込みながら、とりあえず従う。
「貴方たち、もしかしてマンションの管理会社の人?」
 立ち止まる前に主婦の一人に尋ねられ、いえと否定しながら足を止めた。
「あら、違うの? さっき206号室って聞こえたから、てっきりそうなのかと思ったんだけど」
「何だ、違うのね。残念」
 残念? 困ったように溜め息をついた主婦らに、紺野と北原は首を傾げた。
「あの、どういう意味でしょうか」
「え? ああ……」
 一斉に疑うような視線を向けられ、気付く。警察だと言って本人に喋られでもしたら元も子もない。どうするかと逡巡し、とりあえず尋ねた。
「皆さんは、野田さんとお知り合いなんですか?」
 主婦らは脈絡のない質問に怪訝な表情を浮かべたが、一様に首を横に振った。
「知り合いもなにも、喋ったこともないわよね」
「ええ。正直、関わりたくないわ」
「向こうもそんな気ないでしょうしねぇ」
 近隣住民と交流を避けるタイプか。しかもあの有様で迷惑をかけているようだし、住民からも避けられているだろう。詳細を話さなければ大丈夫、だと思いたい。少々不安は残るが、しかし他に話を聞けるような当てはないし、仕方ない。
 紺野は北原に視線を送り、ポケットを探った。
「京都府警の紺野と申します」
「同じく北原です。野田さんのことで、お話をお伺いしてもよろしいでしょうか」
 刑事ドラマよろしく警察手帳を広げて見せた二人に、主婦らは時間が止まったようにきょとんとした後、「ええっ!?」と声を上げて勢いよく覗き込んできた。ぎょっとして身構える。今にも手帳を奪い取られそうだ。
「本物!?」
「やだ初めて見た!」
「本物の刑事さん!?」
 警察と縁のない人生を送っているのだろう、良いことだ。きゃっきゃと声を上げながら警察手帳を覗き込む様を眺めながら、ふと寮でのことを思い出す。あの時の香苗も、興味津津に覗き込んでいた。
「あの、それでですね」
 持っている手ごと握られた手帳をなんとか救出し、ポケットにしまう。名残惜しげに手帳を視線で追う主婦らに、北原が苦笑いを浮かべた。
「野田さんについてなんですが」
「え、ああ、そうね、そうだったわね」
 やだわ、と苦笑いを浮かべて居住まいを正すと、一人が首を傾げた。
「野田さん、何かしたの?」
「いえ、そういうわけではありません。参考までに少し」
「あ、もしかして香苗ちゃんに何かあったとか!?」
 美琴の時とパターンが似ているな、と頭の隅を掠った。
「娘さんのことをご存知ですか」
「もちろん、うちの上の子と同級生なんです。中学の時も同じクラスで、仲が良かったんですよ」
「どんな子でしたか」
「どんなって、良い子でしたよ。ねぇ」
 同意を求めると、他の二人も頷いた。だがすぐに、でもねぇ、と表情を曇らせて頬に手を当てた。
「何か気になることでも?」
「気になるっていうか、ああ、香苗ちゃんのことじゃなくて、ご両親のことで」
「どんな親御さんでしょう」
 あの惨状を見る限り、まともな生活能力があるようには思えない。
 紺野が尋ねると、香苗と同級生の子供がいると言った主婦は、「もしかしてそうなんじゃないかってだけの話なんですけどね」と前置きをして語った。

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