第17話

文字数 5,525文字

 後ろで、冬馬が智也と圭介に支えられながら立ち上がった。血の跡が生々しい。下平は、三人の前で足を止めた。脅されていたとはいえ、誘拐に手を貸したことに間違いはないのだ。大河は複雑な気持ちで見やる。
 下平は、一拍置いてから深く息を吸い込んだ。腕時計に視線を落とし、
「二十二時三分」
 ゆっくりと、しかしはっきりとした声で罪名を告げる。そんな下平を、三人は真っ直ぐ見つめていた。
「未成年者略取、および誘拐罪で、現行犯たい」
「待ってください!」
 下平の声を遮ったのは、陽だった。下平が振り向き、冬馬たちが視線を投げる。
「違います!」
 至極真剣な眼差しで下平を見据える陽に、式神を含めた宗史ら大人組みが小さく溜め息をつき、大河はわずかに口角を上げた。柴と紫苑は黙って成り行きを見守っている。
「……違うって、何がだ?」
 その落ち着いた声色は、陽の思惑をすでに察していた。陽は覚悟を決めたようにきゅっと唇を噛んでから言った。
「その人たちも捕まってたんです!」
 そう来たか、と苦笑した晴につられるように、大人組みが苦笑いを浮かべた。大河もまた、微笑ましげな笑みを浮かべる。
「まあ、広義の意味でそう取れなくもないが……」
「曲論、解釈次第だな」
 頭を捻らせて理屈をこねる宗史を、怜司が震える声で後押しした。
 一方、反論された下平はどこか複雑な表情を浮かべ、庇われた当の本人たちは呆然と陽を見ている。
「だからその人たちは犯人じゃないですっ。僕、被害届も出しませんし告訴もしませんから、絶対!」
 まくしたてるように言い切った陽は、長く息を吐いた。
 首謀者も男たちもいない。唯一の目撃者である鈴も不在である今、否定するも肯定するも冬馬たち次第だ。冬馬が口を開いた。
「何を言ってるのか分からない。下平さん、俺たちは」
「絶っ対に被害届も告訴もしません!」
 冬馬の言葉を遮り、絶対の部分を強調してもう一度同じ主張をした。冬馬が困った表情を浮かべた。
「お前、何で……」
「しないと言ったらしません!」
 まるで子供の疳癪だ。意外と頑固なのかな、と大河は笑いを噛み殺した。良親が言うには、樹は冬馬にべったりだったらしいし、脅されていたという事情もある。それとも、自分を助けようとした彼に、恩返しのつもりなのだろうか。
 頑なに譲ろうとしない陽に、冬馬が困惑した面持ちで口をつぐんだ。
「晴」
 このままでは平行線だと踏んだのだろう、宗史が口を挟んだ。
「明さんがいない今、お前が陽の保護者だ。どうする」
「あー、そうだなぁ……」
 全ての判断を丸投げされ、晴は喉の奥で唸った。隣から、じっと無言の圧力が注がれる。
「えーと……」
 視線を上げ、眉尻を下げる。保護者としては、どんな事情があるにせよ誘拐に手を貸した者を野放しにするわけにはいかない。それに、明がどう思うか。
「だからだなぁ……」
 俯いて後頭部を掻いた。煮え切らない晴に、陽がますます目を鋭くした。念でも送っているのか、少々怖い。晴は兄と弟の板挟み状態だ。晴さん頑張れ、と大河は心の中で合掌した。
 やがて、晴が投げやりな声を上げた。
「あーもー、分かったって。陽がそう言うならそうなんだろ。おっさん、そういうことでよろしく」
 陽がぱっと顔を輝かせた一方、冬馬たちは苦しげな表情を浮かべて俯いた。無理矢理事件に巻き込まれ、本来なら言い訳の一つでもできるはずなのに、彼らは一言もしない。むしろ、逮捕されないことを悔やんでさえいるようにも見える。
 下平は悩ましげな唸り声を上げ、乱暴に頭を掻く。やがて、諦めたように溜め息をついた。
「だそうだ。構わんか、紺野、北原、って、お前らなぁ……」
 いつからそうしていたのか、二人揃ってそっぽを向いて耳を塞いでいる。知らぬ存ぜぬを決め込む気だ。下平が脱力した。
「てわけだ、話がついたんなら撤収しようぜ」
 疲れた息を吐いて晴が促す。
「怜司くん、大河くん、ありがと。大丈夫、歩ける」
 するりと二人の肩から腕を抜き、樹はゆっくりと一歩を踏み出した。その一歩が、妙に緊張しているように見えた。このまま真っ直ぐ進めば、冬馬とぶつかる。
 そういえば、良親が言っていた。三年前、冬馬は樹を見殺しにしたと。
 あの話を聞いていて、違和感を覚えた。内容ではなく、良親にだ。樹の腹の怪我のことも、その原因も知っているということは、彼もその場にいたことになる。つまり、良親本人も樹を見殺しにしたことになるのではないのか。それなのに、何故他人事のように語れるのだろうと思った。冬馬一人に全ての責任があるような言い草だった。
 樹が大窓から放り出された時、背後から冬馬の声が響いた。まるで背中を押されるような感覚を覚えるほど、悲痛な声だった。あんな声で名前を呼ぶ彼が、本当に樹を見殺しにしたのだろうか。自らを犠牲にしてまで陽を助けようとした。智也と圭介に対しても、もう従う必要はないと、あんな状態で訴えた。
 正直なところ、見殺しにしそうなのは良親の方だと思うのは、こんなことをした奴だという先入観があるからだろうか。
 ゆっくり足を進める樹の隣を、怜司が付かず離れずの距離で歩いている。大河もまた、少し間を開けて歩く。その後ろから、宗史、晴、陽、椿と志季、さらに後ろから柴と紫苑がついてくる。少し先に、紺野と北原の背中がある。
「下平さん、どうします?」
 紺野と北原が立ち止まった。
「こいつら送る。ちょっと聞きたいこともあるしな。明日朝一で連絡するから、どうなったか教えてくれ。こっちもこっちで報告することあるし」
「ああ、そうでした。実は俺たちの方もあるんです」
「分かった。お疲れさん、気を付けて帰れよ」
「はい、お疲れさまでした」
「お先に失礼します。下平さんも気を付けてください」
「おう」
 笑みを浮かべて挨拶を交わし、紺野と北原が冬馬たちの横をすり抜けた。不意に、下平がはっと何かを思い出したように冬馬たちから離れ、携帯を取り出した。すぐに通話を始めたと思ったら、すまんすまんと謝った。
「悪いけど、そいつら送ってってやってくれるか。もう大丈夫だと思うが念のためだ。あー、まあ色々あんだよこっちも。じゃあな、頼んだぞ」
 早口で言い終えると、ちょっと下平さん! とこちらにも届くほどの怒声を躊躇いなく切った。苦い表情を浮かべた下平が携帯をしまって一歩踏み出し、足を止めた。
 避けるかなと思っていたら、どちらも避けなかった。
 互いに腕を伸ばせば届く距離で、樹が足を止めた。自然と全員の足が止まり、紺野と北原も、先の方で止まって振り向いた。
 静かな目で、樹は冬馬をじっと見つめていた。冬馬もまた、視線を逸らさなかった。
 冬馬を見る樹の目は、どう見ても、自分を見殺しにした人間に向ける目ではない。むしろ、どこか懐かしげな、それでいて悲しそうな、たくさんの感情が混ざった何とも言えない色が浮かんでいる。
 森の木々が、微かにざわめいた。
 先に口を開いたのは、冬馬だった。智也と圭介の肩から腕を抜く。
「樹」
 背筋を伸ばして真っ直ぐ立ち、樹を見据える。ゆっくりと、唇が開いた。
「ずっと、後悔してたんだ」
 葉音が届く大広間で、皆が冬馬の声に耳を澄ますように身じろぎ一つしない。
 樹が一つ、瞬きをした。それが合図かのように、冬馬は笑みを浮かべた。
「お前と関わったこと、後悔してた。だからもう関わるな。こんなの、二度とごめんだ」
 首謀者は良親ではなく平良という男で、樹を狙ってこの事件を起こした。それは先程の話を聞いていれば分かる。しかも鬼代事件に乗じて。つまり、こちらの都合で彼らを巻き込んでしまったことになる。さらにリンとナナという女性二人も。
 冬馬の主張は、間違っていない。けれど、何故だろう。冬馬の言葉が、笑顔が、どこか曖昧だ。
 樹は伏せ目がちに、ぽつりとほんの小さく呟いた。
「冬馬さん」
 視線を上げ、冬馬を見やる。
 冬馬から笑みが消え、驚きの表情へ代わった。智也と圭介も、同じ顔をしている。
「ありがとう。ばいばい」
 満面の笑みを浮かべて、樹はそう告げた。また明日ね、ばいばい、と言うような気軽さで。
 ふいと顔を逸らし、冬馬の横をすり抜ける。冬馬が静かに目を伏せた。
「ああ」
 囁くような一言だった。
 大河は、唇を噛んで冬馬の横顔から目を逸らした。俯いた視界の端に映った冬馬の拳は、白くなるほどきつく握られていた。
 ――相変わらず、下手。
 さっき、樹はそう言った。きっとあの言葉も、あの笑顔も嘘だ。嘘の言葉と、嘘を隠すための笑顔。だから曖昧に感じた。
 では、樹は? 嘘をついているようにも、無理に笑ったようにも見えなかった。本心なのだろうか。
 大河は樹を横目で盗み見た。前を見据えるその目は、どこか遠くを見つめているように見える。何か吹っ切れたような、清々しささえ感じられる、そんな目だった。
 鞄を回収した陽が言うには、屋内非常階段でここまで上がってきたらしい。大広間から見て突き当たりにあるそうだ。紺野と北原が先行する。
 大河は真っ直ぐ伸びる廊下の先を見やり、うわ、と小さく声を上げた。突き当たりの壁が豪快に崩れ落ちている。おかげで明かりがいらない程度には明るいが、よく全壊しなかったものだ。
「紫苑、あそこぶち抜いた?」
 後ろを振り向いて尋ねると、紫苑は無表情で大河を見下ろした。
「仕方なかろう」
 少し拗ねたような声に、隣を歩く陽と顔を見合わせて苦笑する。責めているわけではないのだが。
「それでも無傷って、お前らやっぱり頑丈にできてんだな」
 晴が感心したように言った。
「無傷なわけあるまい。人より治りが早いだけだ」
 そういえば、柴も着物があちこち破れているのに傷は見当たらない。どんな細胞をしているのだろう。
「いやいや、俺たちより自己治癒力が高いってどうなの。神様よ、俺ら。立場ねぇんだけど」
「知ったことか」
 悔しげに吐いた志季を、紫苑がしらっとした顔で一蹴した。椿が苦笑を漏らす。神と鬼が対話する光景など貴重な光景だ。しかも、一度は交戦した相手と。大河は相好を崩した。
 大広間を出てすぐの広いスペースはエレベーターホールだったようだ。すっかり錆びてしまっているが、扉が鉄格子のレトロなタイプのものが、右手に二台。しかし別の階に停まっているのか、シャフトの中にかごはない。紫苑が悪鬼に追いやられて破った扉の残骸が、無残に転がっている。床はコンクリートが剥き出しで、壁には何やら卑猥なイラストが描かれている。
 こんな場所にこんなの描いて何が面白いんだろう、と横目に通り過ぎた時、足音が近付いてきた。
「樹!」
 全員が足を止めて振り向く。智也と圭介だ。後ろを歩いていた大河らが左右に避け、道を作った。
 智也と圭介は、式神と鬼を見て一瞬怯んだ。それでも、速度を落としながら間を抜け、樹の前で足を止めた。
 真っ直ぐ見据える樹に、あのさ、と言い淀み、どこか不安そうに圭介が尋ねた。
「あの時のこと、お前、覚えてるか……?」
 樹が答える前に、意を決したように智也が続ける。
「冬馬さんは悪くないんだ。あの時お前を置き去りにしたの、その、俺たちなんだよ」
「俺たちが、良親さんに言われて無理矢理冬馬さんを連れてったんだ。冬馬さんはお前を助けようとしてた。けど、俺たち……」
 尻すぼみに、二人はバツが悪そうに俯いた。もごもごと口ごもる二人に、樹が言った。
「……別に、気にしてない」
 二人は一瞬固まり、目を丸くして顔を上げた。樹がふいと踵を返した。
「悪かった、樹!」
「ごめんな樹! ありがとう!」
 ぴたりと樹の足が止まった。そして長い溜め息をつき、振り向いた。
「一つ、教えてあげる」
 え? と智也と圭介が目をしばたいた。
「あの人、皆が思ってるほど強くない。側にいてあげなよ」
 そう言い置くと、樹は再び踵を返した。二人は振り向くことなく足を進める樹の背中を見つめ、ふいと陽へ視線をやった。
「ほんとごめん」
「ごめんな」
 眉尻を下げて詫びる二人に、陽は首を横に振った。
「いいえ、大丈夫です。お二人は悪くないので、気にしないでください」
 中学生とは思えない対応に、二人は目を丸くした。じゃあ、と会釈をして背を向けた陽に大河たちが続く。やがてぱたぱたと走り去る足音がして、消えた。
 三年前に何があったのか、何となく分かった。けれど、彼らがどんな時間を共に過ごしてきたのかも知らずに、これ以上あれこれと詮索するのは無粋だ。それに、もう知る必要はない。
 ただ、こんな再会の仕方をしなければ、と思うくらいは許されるだろうか。この先、もしまた再会できたとしたら、その時は――。
「ねぇ、怜司くんおぶってよ。しんどい。ここ七階でしょ、無理、倒れる」
「アホか。しんどいのはお前だけじゃないんだ、甘えたこと言うな」
「ケチ」
「そこから突き落とされたいのかお前。帰りの運転するならおぶってやる」
「やだ」
「本気で突き落とすぞ」
 据わった目で睨まれ、樹はけらけらと笑い声を上げた。
 非常階段へと続く廊下の両側は、襖が外れ、畳みも床も腐り落ちた和室の宴会場と、窓ガラスが割れて吹き曝し状態の洋風の広間が設けられている。どちらも埃とカビ臭く、窓から蔦が侵入して葉を茂らせている。
 そんな肝試しにはうってつけの場所に響く樹の笑い声に、思わず安堵の息が漏れた。
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