第14話
文字数 2,207文字
日常の中の、ほんの小さな出来事。もう、すっかり忘れていたけれど。
「二年前って……」
昴が失踪し、朝辻家の文献が持ち出された時期だ。
「お前、まさかあの時……」
独鈷杵を探すために来てたのか。そう続けようとした間際、大河たちが弾かれたように頭上を見上げた。結界の霊気が消えていく。やはり待機していた仲間がいたか。騒ぎに乗じて霊符を探していたらしい。しかし、驚いたのはそこではない。
「おい、マジか……」
愕然と晴が呟いた。頭上からゆっくりと、渦を描くように悪鬼が広場へと流れ込んでくる。やがてそれは頭上を覆い尽くし、一つの塊となって、監視するように宙に浮いたまま動きを止めた。早くしろと言いたげな、ゆっくりとした低い唸り声が漏れている。
大きさは広場から少しはみ出るくらいだが、息が詰まるほどに感覚を刺激するこの濃さは異常だ。襲撃に使った悪鬼といい、本当にどこから連れてきたのか。
周りの森に差し込む月明かりと暗闇に慣れているおかげで、かろうじて相手の姿が確認できる。
呆然とする大河を見つめていた満流が、息をついた。
「やれやれ、少し時間がかかりましたね」
腰を上げた満流に倣って、昴も立ち上がる。
「さて、独鈷杵を渡していただきましょうか」
手を差し出した満流に、大河は歯噛みした。ここで拒否すれば、悪鬼をけしかける気だ。自分たちだけではなく、おそらく鈴たちの方へも。
満流たちに加えて悪鬼となると、さすがに分が悪すぎる。何か、方法はないか。
大河は、思考を巡らせながらもゆっくりとポケットに手を伸ばす。と、不意に社の裏の森の中からものすごい勢いで紫苑が吹っ飛んできた。さらに木々の上から枝葉を散らしながら落ちてきたのは、腕を交差した柴だ。悪鬼に気を取られたところを攻撃されたか。
紫苑は足で地面を滑りながら速度を殺し、しゃがみ込んで大河たちの側で止まった。一方、背中から落ちてきた柴は体勢を立て直し、こちらもまたしゃがみ込んだ格好で社の側に着地した。衝撃でわずかに地面が抉れ、砂埃が舞う。
「柴、紫苑!」
晴が叫び、持っていた刀を放り投げた。二人はすぐさま振り向きながら立ち上がり、刀を受け取ると素早く抜刀した。ほぼ同時に満流たちの側に人影が二つ降ってきて、大河たちが一斉に後退する。
「悪鬼と仲間が二人、鈴の元へと向かった」
駆け寄りながら告げられた柴の報告に、大河たちが息を詰まらせた。結界は解かれている。にもかかわらず逃げた弥生と犬神が加勢に入って来ないということは、おそらく向こうにいる。あの悪鬼にもう二人となると、鈴でもかなり不利だ。追い詰められた。
やっていることは良親や尊たちと同じではないか。
「お前ら……ッ」
大河はまなじりを吊り上げて独鈷杵を引っ張り出した――と、不意に志季と式神がぴくりと反応を示し、ゴゴ、と地面が微かに揺れた。
地震? と思った直後、
「足踏ん張れ、動くなッ!」
志季がものすごい剣幕で叫び、式神が満流を引き寄せて腕に抱き込んだ。とたん、
「うわッ!」
大きな揺れと共に、ゴッと突風のような音を立てて、何かが足元から目の前を素通りした。全員が咄嗟にバランスを取りながら足を踏ん張り、腕で顔を庇う。
突然すぎて何が起こったのか理解できない。ぴたりと揺れが止み、大河は息を止めたままそろりと目を開けた。
「柴、紫苑、大河を連れて行けッ!」
様子を確認する前に宗史から鋭い指示が飛んだ。体の側面に何かがぶつかり、足が浮いた。わけが分からないまま浮遊感を覚え、今日はこれで何度目だろう、枝葉に突っ込み、文献を胸に抱いて顔を伏せた。
混乱している間に森を抜け、今度は前から風を感じた。
「え、ちょ、何……」
狼狽しながら目を開けると、前には刀を振るう紫苑の背中があり、刀を帯に差した柴にお姫様だっこをされていた。視界の端を不可解なものが一瞬で後方へ流れ、周囲が開けた。追いかけて首を回し、唖然とする。
神社周辺の木々の上。針のような細長い物体が、森の中から無数に飛び出している。紫苑が針をなぎ倒しながら抜けたらしい。遠くからだと、山頂付近だけ針山状態に見えるだろう。
神社へ向かう時よりも速い速度で、異様な光景はぐんぐん遠ざかる。
「え……地天……?」
地面が揺れて、そのあとに何かが目の前をものすごい勢いで通過したように思えた。それがあれだとすると、地天の尖鋭の術。確かに、地天は水天や火天と違って下から攻撃するものだか、誰も真言を唱えている様子はなかった。
だとしたら、あれは何で、誰の術だ。
「……牙……?」
ふと、口から漏れた。
しかし、召喚してもいないのに――待て、それよりも。
「柴、待って! 宗史さんたちが……っ」
追手が来ない。式神と皓はあの場に留まったのだ。柴と紫苑が離脱すれば不利どころではない。大河が縋るように着物を掴むと、柴は言った。
「これ以上、奴らが仕掛けてくることはあるまい。撤退する」
「何でそんなことが……」
「柴主!」
先行していた紫苑が叫び、柴が大きく跳ねた。
眼下に見えたのは、そう大きくない悪鬼と真っ赤な鳥が一羽。畑には、無数の赤い光が縦横無尽に飛び交い、それと対峙する犬神と人影が二つ。
そしてその先の道路では、省吾と風子を庇う雪子を背に、結界を掲げる影唯の姿。目の前で、弥生が霊刀を振り下ろした。
「――父さんッ!!」
大河の悲痛な叫び声と、結界が割れる音が木霊した。
「二年前って……」
昴が失踪し、朝辻家の文献が持ち出された時期だ。
「お前、まさかあの時……」
独鈷杵を探すために来てたのか。そう続けようとした間際、大河たちが弾かれたように頭上を見上げた。結界の霊気が消えていく。やはり待機していた仲間がいたか。騒ぎに乗じて霊符を探していたらしい。しかし、驚いたのはそこではない。
「おい、マジか……」
愕然と晴が呟いた。頭上からゆっくりと、渦を描くように悪鬼が広場へと流れ込んでくる。やがてそれは頭上を覆い尽くし、一つの塊となって、監視するように宙に浮いたまま動きを止めた。早くしろと言いたげな、ゆっくりとした低い唸り声が漏れている。
大きさは広場から少しはみ出るくらいだが、息が詰まるほどに感覚を刺激するこの濃さは異常だ。襲撃に使った悪鬼といい、本当にどこから連れてきたのか。
周りの森に差し込む月明かりと暗闇に慣れているおかげで、かろうじて相手の姿が確認できる。
呆然とする大河を見つめていた満流が、息をついた。
「やれやれ、少し時間がかかりましたね」
腰を上げた満流に倣って、昴も立ち上がる。
「さて、独鈷杵を渡していただきましょうか」
手を差し出した満流に、大河は歯噛みした。ここで拒否すれば、悪鬼をけしかける気だ。自分たちだけではなく、おそらく鈴たちの方へも。
満流たちに加えて悪鬼となると、さすがに分が悪すぎる。何か、方法はないか。
大河は、思考を巡らせながらもゆっくりとポケットに手を伸ばす。と、不意に社の裏の森の中からものすごい勢いで紫苑が吹っ飛んできた。さらに木々の上から枝葉を散らしながら落ちてきたのは、腕を交差した柴だ。悪鬼に気を取られたところを攻撃されたか。
紫苑は足で地面を滑りながら速度を殺し、しゃがみ込んで大河たちの側で止まった。一方、背中から落ちてきた柴は体勢を立て直し、こちらもまたしゃがみ込んだ格好で社の側に着地した。衝撃でわずかに地面が抉れ、砂埃が舞う。
「柴、紫苑!」
晴が叫び、持っていた刀を放り投げた。二人はすぐさま振り向きながら立ち上がり、刀を受け取ると素早く抜刀した。ほぼ同時に満流たちの側に人影が二つ降ってきて、大河たちが一斉に後退する。
「悪鬼と仲間が二人、鈴の元へと向かった」
駆け寄りながら告げられた柴の報告に、大河たちが息を詰まらせた。結界は解かれている。にもかかわらず逃げた弥生と犬神が加勢に入って来ないということは、おそらく向こうにいる。あの悪鬼にもう二人となると、鈴でもかなり不利だ。追い詰められた。
やっていることは良親や尊たちと同じではないか。
「お前ら……ッ」
大河はまなじりを吊り上げて独鈷杵を引っ張り出した――と、不意に志季と式神がぴくりと反応を示し、ゴゴ、と地面が微かに揺れた。
地震? と思った直後、
「足踏ん張れ、動くなッ!」
志季がものすごい剣幕で叫び、式神が満流を引き寄せて腕に抱き込んだ。とたん、
「うわッ!」
大きな揺れと共に、ゴッと突風のような音を立てて、何かが足元から目の前を素通りした。全員が咄嗟にバランスを取りながら足を踏ん張り、腕で顔を庇う。
突然すぎて何が起こったのか理解できない。ぴたりと揺れが止み、大河は息を止めたままそろりと目を開けた。
「柴、紫苑、大河を連れて行けッ!」
様子を確認する前に宗史から鋭い指示が飛んだ。体の側面に何かがぶつかり、足が浮いた。わけが分からないまま浮遊感を覚え、今日はこれで何度目だろう、枝葉に突っ込み、文献を胸に抱いて顔を伏せた。
混乱している間に森を抜け、今度は前から風を感じた。
「え、ちょ、何……」
狼狽しながら目を開けると、前には刀を振るう紫苑の背中があり、刀を帯に差した柴にお姫様だっこをされていた。視界の端を不可解なものが一瞬で後方へ流れ、周囲が開けた。追いかけて首を回し、唖然とする。
神社周辺の木々の上。針のような細長い物体が、森の中から無数に飛び出している。紫苑が針をなぎ倒しながら抜けたらしい。遠くからだと、山頂付近だけ針山状態に見えるだろう。
神社へ向かう時よりも速い速度で、異様な光景はぐんぐん遠ざかる。
「え……地天……?」
地面が揺れて、そのあとに何かが目の前をものすごい勢いで通過したように思えた。それがあれだとすると、地天の尖鋭の術。確かに、地天は水天や火天と違って下から攻撃するものだか、誰も真言を唱えている様子はなかった。
だとしたら、あれは何で、誰の術だ。
「……牙……?」
ふと、口から漏れた。
しかし、召喚してもいないのに――待て、それよりも。
「柴、待って! 宗史さんたちが……っ」
追手が来ない。式神と皓はあの場に留まったのだ。柴と紫苑が離脱すれば不利どころではない。大河が縋るように着物を掴むと、柴は言った。
「これ以上、奴らが仕掛けてくることはあるまい。撤退する」
「何でそんなことが……」
「柴主!」
先行していた紫苑が叫び、柴が大きく跳ねた。
眼下に見えたのは、そう大きくない悪鬼と真っ赤な鳥が一羽。畑には、無数の赤い光が縦横無尽に飛び交い、それと対峙する犬神と人影が二つ。
そしてその先の道路では、省吾と風子を庇う雪子を背に、結界を掲げる影唯の姿。目の前で、弥生が霊刀を振り下ろした。
「――父さんッ!!」
大河の悲痛な叫び声と、結界が割れる音が木霊した。