第12話

文字数 3,828文字

 コンコンと軽いノックの音がして、土御門栄明(つちみかどえいめい)は目を通していた書類から視線を上げた。
「どうぞ」
 短く促すと、扉の向こうから「失礼します」と聞き慣れた声が届いた。扉が開き、姿を現したのは第一秘書である郡司邦和(ぐんじくにかず)だ。四十になったばかりの彼は、切れ長の目に曇りのない銀フレームの眼鏡、一糸乱れぬオールバックに整えられた黒髪、皺一つないスーツに磨かれた革靴。そして、手には手帳と一冊の黒いファイルを持っている。
 郡司は後ろ手で扉を閉め、落ち着いた足取りで栄明の元へ歩み寄った。
「社長、こちらですが」
「うん」
 今日もやっぱり隙がないなぁ、と感心して、栄明は差し出されたファイルを受け取る。
「先程、長岡京支店から届いた案件です」
「長岡京か」
 郡司が黒いファイルを持ってくるその意味は、もうずいぶん前から心得ている。栄明は表紙を開いた。
 書類の一枚目には、対象となる物件の外観写真と数枚の室内写真が添付され、住所、築年数、土地の総面積、間取り、設備、家主の個人情報などが、三枚分にわたって記載されていた。築年数は三十年と古いが、ごくごく普通の一般住宅。ざっと目を通して、次をめくる。
 左端に、赤いインクで「社外秘」のハンコが押されている。栄明は、舐めるように文章を目で追った。
 箇条書きにされた近隣住民の証言、要点を絞った必要な情報、担当者が確認、目撃した状況の詳細。そして、家主が売却に至った経緯。
 栄明はわずかに眉を寄せ、郡司を見上げた。
「夜の予定は?」
「空いておりますが、行かれますか?」
 郡司は手帳を確認することなく即答した。彼を秘書に持って、もう何年経つだろう。すっかり読まれている。栄明はうんと頷いてファイルを閉じた。
「……明様に、お任せしては」
 遠慮がちに進言した郡司へファイルを戻しながら、栄明は苦笑した。
「彼も忙しい身だからね。読んだ限り悪鬼ではないようだし、現場を確認して、対処できるなら私がするよ。これでも陰陽師のはしくれだ。たまには術を使わないと忘れそうになる」
 ファイルを受け取って、郡司は小さく息をついた。
「承知しました。ですが、連絡はしておきます」
「うん。よろしく」
 失礼します、と一礼して背を向け、郡司は社長室を出た。
 深夜とはいえ、夜に予定を入れたからには、仕事を長引かせるわけにはいかない。栄明はさっそく読みかけの書類に目を落とした。


 栄明が代表取締役社長を務める「ミナモトホーム株式会社」は、代々土御門家の氏子代表を務めている。先代社長兼先代の氏子代表・源昭三(みなもとしょうぞう)の娘・葉子(ようこ)と交際、結婚し、昭三が早々に社長職を退いて会長という名の隠居生活を望んだため、栄明が引き継ぐこととなった。ちなみに、寮もミナモトホームが手掛けた物件だ。
 ミナモトホーム株式会社は、中部を含めた西日本を中心に事業を展開する、総合不動産会社である。戸建注文住宅や分譲住宅、賃貸・分譲マンションの企画・設計・施工・販売はもちろん、商業施設や物流施設、医療・介護施設などの法人施設の企画・設計・施工を手掛けている。グループに、リフォーム事業や設備総合メンテナンス事業、損害保険代行業、デザイン事業など、多くの会社を持つ。
 その中の一つ、不動産仲介業を担う「ミナモトエステート株式会社」は、その名の通り物件の賃貸・売買を行う会社だ。全国でないとはいえ西日本全域に店舗を持てば、扱う物件数も多い。多ければ様々な事情を抱えた物件も、当然ある。
 栄明の元へ届くのは、「心理的瑕疵有(しんりてきかしあ)り」とされた物件の情報だ。特に、担当者が実際目撃した、貸主・借主に何度も目撃されたもの、あるいは今回のように近隣で噂になってしまったものに関しては、ミナモトエステートの社長から郡司を通して書面で届けられる。
 栄明が土御門家の人間で、かつ陰陽師であることは、限られたグループ会社の社長、そして第一秘書である郡司のみが知る事実だ。ただ、もしかしてという噂がまことしやかに流れている。と郡司が言っていた。隠しているわけではないのだが、あれこれ相談を持ちかけられては困る。あくまでも栄明の本業は、社長なのだ。
 ゆえに、ほとんどの案件は明へ回す。こうして栄明自らが現場へ赴くことは、年に数回あるかないかだ。特に寮ができてからは稀で、術を行使する機会も減ってきている。
 午後十一時。
 栄明と郡司は、件の物件の前で車を停めた。門扉には「売物件・ミナモトエステート株式会社・お気軽にお問い合わせください」と書かれた看板が取り付けられている。
 駅から徒歩十分、駐車場と庭付き二階建ての四LDK。背の低いコンクリート塀に囲まれ、目隠し用に庭木が茂っている。三年前のキッチンをはじめ、浴室、トイレ、クロスの張り替えや畳の新調など多数のリフォーム歴があり、スーパーとコンビニも近い。
 築年数が古いため価格はかなり低く設定してあるし、あんなことがなければ、買い手が付いてもおかしくない物件なのに。
「何度も言うけど、危ないから来なくてもいいんだよ?」
「何度も言いますが、そうはいきません。以前のようなことがあったら、明様に顔向けできませんので」
「え、何それ。私のことを心配してるわけじゃないのかい」
「揚げ足を取らないでください。もちろん社長の安全が第一です。だからこそ同行するんです」
 一軒家を見据えたままさらりと反論した郡司に、栄明は笑いを噛み殺した。
 もうずいぶん前のことだ。
 とある戸建売物件の近所で、二階の窓に人影を見たと噂が流れたのが始まりだった。噂は瞬く間に広がり、唸るような人の声を聞いた、人魂を見た、徘徊する家主を見たなどと次から次へと証言が出て、最終的にはホラーハウスと言われるようになったのだ。だが、事故物件でもなければ、家主が亡くなったわけでもない。家主も、住んでいる間にそんなものは見たことがないと言った。恐怖はさらなる恐怖を生んで、判断力を鈍らせる。幻聴や幻覚、見間違いや勘違い、あるいは面白がってあることないこと触れ回った者もいるかもしれない。このままでは買い手が付かず、廃屋になってしまう。
 そこで栄明が現場へ赴いたところ、いたのは幽霊でも何でもない、三名の男子高校生だった。栄明は物件の管理者だと名乗り、一目散に逃げようとした少年の一人を捕まえた。だが、仲間の一人に所持していたカッターナイフを突き付けられ、咄嗟に捕まえた少年を放した瞬間、切っ先が腕を掠った。この程度の傷は、幼い頃からの訓練で慣れている。あっさりナイフを叩き落として確保すると、少年は諦めて抵抗をやめた。器物破損に住居不法侵入、銃刀法違反に傷害罪。彼らはいくつもの罪状を背負って、警察に連行された。
 この時も郡司は同行しており、彼が残りの一人を確保している間の出来事だった。
 後日聞いた話では、少年らは台所の勝手口の鍵を壊して侵入し、お菓子やゲーム、酒や煙草を持ち込んで、夜な夜なこっそり集まっていたのだという。動機は、受験のストレス発散。幽霊話をでっち上げ、誰も近付かないようにすればタダで自由に使えると思ったらしい。子供の浅はかな悪知恵だ。しかも水の元栓まで開けられており、トイレを使った形跡があった。幽霊の正体が判明し、保護者に水道代と賠償金が請求され、修繕が終わった頃には噂は消えており、物件は無事に売却された。
 あれから同じことは二度となかったけれど、郡司はあの時のことをまだ気にしているらしい。自分が油断したせいだと言い聞かせたのだが、真面目で責任感が強い秘書には通用しないようだ。
「特に不審な様子は見られませんね」
「うん。私にも、今のところは何も見えないな」
 こちらから見える全ての窓には、家主が置いていったレースのカーテンが掛けられているが、不自然な明かりや人影はない。漂っている浮遊霊もいない。ただ送られてきた資料には、庭の方で仄かな光が灯っていたという証言が多く、窓に何かを見たという証言は一つ二つだった。事故物件という先入観から見間違えの可能性もあるが、近所で噂になれば売買に支障が出る。迅速な対応が必要だ。
 栄明が二階へと視線を上げた時、屋根の上に人影が現れた。街灯の明かりが届いていて、(すず)だとすぐに分かった。郡司はあの件以降、必ず明へ報告をし、その明もこうして式神を寄越すようになった。叔父として情けなくもあるが、嬉しくもある。
 鈴が、庭の方を指差した。
「ん、いるのか」
 どうやら何かいるらしい。悪鬼なら鈴が先に対処しているだろうから、浮遊霊か、もしくは人間。
「行こう」
 栄明が促すと、郡司ははいと頷いて門扉を開けた。
 門をくぐると正面に玄関、右手は駐車スペースだ。先行した郡司が左へ足を向け、間取りを思い出しながら栄明も続く。右手にリビングダイニングの吹き出し窓。そこを通り過ぎて角を曲がると、仄かな光が目撃された庭だ。
 角を曲がる前に、郡司が足を止めて振り向いた。ジャケットの内ポケットから携帯を取り出す。
「人の気配がします。お気を付けください」
 栄明は無言でうなずく。あの時と同じ、不法侵入だろうか。郡司は携帯のライトを点灯し、角を曲がった。
「誰かいるのか」
 強い口調で問いかけながらライトで照らす。栄明も続いて角を曲がり、郡司の隣に並んだ。
 二人の視線の先にいたのは、少し眩しそうに目を細めた一人の男。そして、栄明だけに見える、向こう側が透けた一人の女だった。

 ――これが、今から二年前の出来事。
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