第10話

文字数 5,734文字

 アヴァロンが入るビルの二階は、アヴァロンの関係者以外立ち入り禁止となっており、事務所、備品庫、男女別の更衣室、招いたミュージシャンら専用の控室、休憩室、化粧室がある。
 午前一時。
 開店から三時間過ぎたこの時間帯は、フロアが一番混む。DJやミュージシャンらは、ほどよく酒が回りすでに気分上々の客たちをさらに煽りまくり、フロアの熱はますます上がる。ゆえに、揉め事も起きやすい。
 客数にもよるが、この時間になると冬馬はほぼ事務所に籠る。監視カメラのチェックと、細々した事務処理のためだ。
 事務所は、入って右手に黒い光沢のある事務机と革張りの椅子、ファイルが整然と並ぶ棚があり、向かい合う形で巨大な監視カメラのモニターが壁に取り付けられている。その中央には応接セットが設置され、無駄な装飾や調度品が一切置かれていない。
 酒を飲んでも飲まれるなとはよく言ったものだ。冬馬は一人、椅子に腰掛けてモニターをじっと注視しながら、ふとそんなことを思った。
 アヴァロンを任されてからこっち、幾度となく揉め事を処理してきた。連れ同士の喧嘩や男女をめぐっての諍い、足を踏まれただの腕が当たっただの、中には「くだらん」と一蹴したくなるようなものまで様々だ。最悪だったのは、男性スタッフの顔が嫌いだったから、などと言って喧嘩を吹っ掛けた阿呆だ。即座に放り出してやった。
 客の大半は二十代。飲み慣れない者も多いだろうが、それでも酒が提供される場と分かった上での来店だ。自分のボーダーラインくらい把握しておけ、泥酔したいのなら家で飲むか、介抱してくれる連れを確保してからにしろと言いたい。ましてやそれが二十代を半ばも過ぎた大人だったらなおさら。痴態を晒し他人に迷惑をかけ、情けないの一言に尽きる。
 今のところ問題は起こっていないようだ。それでも視線はモニターから外さずに、冬馬は息をついた。
 大音量の音楽の中で目が痛くなるようなライトを浴びて、踊り狂う客たち。
 日々のストレスを発散する者、寂しさを紛らわせようとする者、一夜の温もりを求めてくる者。それぞれ何かを抱えてここへ来る。この、小さな箱に。
 と、扉が鳴った。
「はい」
 モニターから扉へ視線を投げる。
「失礼します」
 細い声と共に恐る恐ると言った様子でゆっくりと扉が開いた。隙間から顔を覗かせた女性は、バーカウンター担当の(つばさ)だ。半年前にアルバイトとして入ったばかりだが、以前はバーで働いていたらしく酒に関する知識はかなりのもので、先輩スタッフたちにも頼りにされている。
「どうした」
 事務所にスタッフは滅多に入って来ない。入るとしたら面接の時か、何か問題が起こった時に録画してあるカメラ映像を確認する時、あるいは退職の話をする時くらいだ。
 まさかそれだろうか。勤務態度は真面目でスタッフとも上手くやっており、接客も評判が良い。手放すには惜しい人材だ。できる限り説得を試みるか。
 そんな冬馬の先走った懸念とは裏腹に、彼女は戸口で立ち止まったまま遠慮がちに言った。
「あの、絆創膏、ありますか……?」
 思いもよらない質問に、冬馬は虚をつかれた顔をした。よく見ると、握った両手の隙間からティッシュが見える。グラスを割ったかして切ったのか。
「あるけど。休憩室かカウンターにないのか」
 椅子から腰を上げ、応接セットを通り過ぎてモニター下にしゃがみ込んだ。モニター下のローキャビネットには、救急箱やコピー用紙、文房具など、事務所で使う備品がしまわれている。
「ちょうど昨日切らしたばかりみたいで……」
 備品管理はしっかりしておけと言ってあるはずだが。この時間にスタッフを割くわけにはいかない。あとで買い出しに出るか。冬馬は溜め息をつきながら、救急箱を手に立ち上がった。
「おいで」
 応接セットのソファへ促すと、彼女は驚いた顔で「いえっ」と首を横に振った。
「絆創膏だけいただければ大丈夫です自分でできますっ」
 握った両手を胸に上げ、眉尻を下げて早口で言った彼女は、少々腰が引けているように見える。イケメンだの綺麗な顔立ちだのと言われ続け、女に迫られることも多い。だが、そんな男を苦手とする女もいることは理解している。けれど。
「グラスで切ったのか」
「え? あ、はい。洗ってる時に割ってしまって……」
 すみません、と小声で付け加えて俯いた。苦手というより怖がられているのか、これは。店の備品を壊してしまったことに対しての罪悪感もあるのだろう、翼はさらに身を縮ませた。
 冬馬はテーブルに救急箱を置き、ソファに腰を下ろした。
「グラスのことは気にしなくていい。ただ、ガラスで切った傷は思ってる以上に深い場合が多いんだよ。いいから、とりあえず見せてみろ」
 救急箱の蓋を開けながら有無を言わさない口調で言うと、彼女は小さく返事をして恐縮した様子で部屋に足を踏み入れた。
「座って」
「……はい……」
 彼女は冬馬の隣に浅く腰を下ろし、当てていたティッシュを外した。右手人差し指の中ほどに、横一直線の傷がある。丸めたティッシュには血が広がり、傷口からはまだ血が滲み出ている。大量とまではいかないが、絆創膏一枚では止血できないだろう。
「やっぱり、深いな」
 冬馬は消毒液と球状綿を取り出し、ピンセットで綿を摘んで消毒液を染み込ませる。
「触るぞ」
 一応確認すると、翼は小さく頷いた。
 冬馬は左手で傷がある指先を親指で押さえ、伸ばすようにして支えると、軽く叩くように消毒する。一旦手を離し、傷より大きめに折ったガーゼを当ててから、包帯を巻く。あまり巻きすぎると曲げられなくなるため、二重に巻いてからハサミで切り離し、包帯止めで止めた。
 慣れた手つきの冬馬の手元を、翼が驚いた顔でじっと眺めている。
「いいぞ」
 道具をしまいながら告げてやると、翼が呆然と呟いた。
「冬馬さん、慣れてますね……」
 振り向いた冬馬に翼ははっと我に返り、すみませんと小さく謝って両手を胸の前で握った。視線が泳ぎまくっている。
「あの……っへ、変な意味じゃなくて、すごいなって意味で……っ包帯の巻き方とか綺麗だしっ」
 俺は翼に何かやっただろうか、と思わず不安になるほどの動揺だ。しかし、苦手意識を持たれていようが怖がられていようが、きっちり仕事をしてくれればそれで構わない。冬馬は顔を逸らし、道具を片付ける手を動かした。
「こんな仕事だからな。揉め事の処理で怪我をすることも多い、慣れもする。それに……」
 無意識にこぼれそうになった言葉に、冬馬は口をつぐんだ。
「いや、何でもない。それより、シェイカー振れるか?」
 救急箱の蓋を閉じて話題を変えた冬馬に、翼は不思議そうな顔をしつつ包帯が巻かれた指を動かした。
「はい、大丈夫です」
「酷く痛むようだったら無理するなよ。戻っていいぞ」
「はい、ありがとうございました」
 翼は少し緊張が残る笑みを浮かべ、深々と頭を下げて立ち上がった。扉の前でもう一度、ありがとうございました、と礼を告げて部屋を出た。
 扉が閉まると、冬馬は腰を上げてデスクへと歩み寄った。パソコンの側にあるのは、全員のインカムへと繋がるスタンドマイクだ。スイッチを入れ、口を近付ける。
「業務連絡。(のぼる)、翼を洗い場に入れるな。傷が深い。配置換えは任せる。それと備品管理は徹底しろ。以上」
 箇条書きのような連絡を入れスイッチを切ると、ガガッとノイズを響かせて再度通信が繋がった。
「了解です! すみませんでした!」
 ガチャガチャとうるさい音を背景に、無駄に大声で叫んだのはフロアリーダーの昇だ。大音量が響くフロアでは、自分の声すら聞き取れないため仕方がない。初めのうちはこれが慣れなくてかなり不快だったが、いつの間にか慣れてしまった。
 冬馬はバーカウンターの様子が映るモニターへ視線を投げた。戻った翼に昇が声をかけている。カウンターに入っていたスタッフと翼を交代させると、すぐに接客に入った。翼の方も、別の客から注文を受けて作業に入る。それを見届けてから、冬馬は放置したままの救急箱を片しにソファへと戻った。
 ゴミをゴミ箱に放り込み、救急箱を抱えてローキャビネットの前にしゃがみ込む。
 慣れてますね――昔、同じことを言った奴がいた。
 翼に言った理由は嘘ではない。こんな場所では、酒と揉め事はセットだ。だからこそ、絆創膏一つ貼れないくせにやたらと傷を作る奴の手当てをしているうちに、慣れてしまった。
 冬馬は救急箱をしまい、乱暴に扉を閉めた。と、
「何だ、ご機嫌ナナメか? 冬馬」
 ノックもなしに入ってきた男の軽口を叩く声に、冬馬はわずかに眉を寄せた。立ち上がりながら振り向く。
 よ、とニヤついた笑みで軽く手を上げたのは、アヴァロンと同系列で、祇園にあるホストクラブ「クラブ・ミュゲ」の店長を務める林良親(はやしよしちか)だ。
 以前はアヴァロンのスタッフとして働いていたが、ミュゲに空きが出たとたん移籍し、冬馬がアヴァロンを任された頃とほぼ同時期に店長に就任している。同僚であり同じ店長という立場だからなのか、何かにつけてライバル視してくるため、実に鬱陶しい。客層が違うのだから比べられるものじゃないと再三言っているのに、理解しないのは何故なのか。
 ちなみに、ミュゲの由来はフランス語のスズランだ。それを聞いた時、オーナーはずいぶんと乙女チックだなと思った。フランスでは5月1日に、身近な人にスズランを贈る習慣があるらしく、受け取った人には幸福が訪れると言われている。そこから付いた花言葉は、幸福の再来。ただ、その可憐な姿とは裏腹に花や茎、根、花粉にまでも毒を持つ有毒草だ。それを知った時はなるほどと納得した。男であれ女であれ、美しい花には棘がある、だ。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。何度言えば分かる」
 あからさまに渋面を浮かべ、冬馬はデスクへ戻った。
「そんなお固いこと言うなよ、俺らの仲じゃねぇか」
「何しに来た」
 軽口を聞き流し、冬馬はチェックしていた休暇申請書と勤務表のファイルを抱えた。
 そもそも、良親とは昔から反りが合わない。何においても、おおらかを通り越して粗雑でいい加減、女癖も悪い。計画性もなく喧嘩早い。アヴァロンにいた頃、何度客との揉め事の仲裁に入ったことか。今でもふらりと立ち寄っては、客と言わずスタッフの女性までナンパする。正直なところ、こんな男がよく店長に抜擢されたものだと思う。しかし、以前は同じ店のホストと喧嘩をしたと度々小耳に挟んでいたがそれもぱったり聞かなくなり、店も売り上げが伸び安定しているところを見ると、どうやらそちらの才には恵まれていたようだ。
「それがさぁ、聞いてくれよ」
 良親は眉尻を下げ、溜め息交じりに言いながら乱暴にソファに座った。だらしなく背にもたれかけ、足を組んで顔だけをこちらに向ける。
「ヤリ逃げされたんだよ」
 唐突な下ネタに、冬馬はファイルを棚にしまうと冷ややかな視線を送った。
「ヤリ逃げしたの間違いじゃないのか」
「冗談だろ。あんだけの美人にそんなもったいねぇことするかよ」
 こいつに好みはないのかと思うほど手当たり次第だが、美人に目がないのはやはり男の性か。良親は頭をソファの背もたれの上に置き、天井を仰いだ。
「朝起きたらさぁ、いなくなってたんだよな。しかもめっちゃだるくて動けない上に記憶もねぇんだよ。ヤったの一回や二回じゃねぇな、あれ。惜しいことしたよなぁ、俺としたことが。だから探してんだよ、あの美人。もう一回お願いしようと思ってさぁ。けどいねぇんだよ、絶対見逃すはずねぇのに」
 仕事放ったらかして何してんだ、と内心突っ込みながら、再びデスクへと戻った冬馬が作成途中の来月のシフト表を保存し、パソコンの電源を落とし、携帯を尻ポケットに入れ、サマージャケットを羽織るまで、良親はだらだらと喋り続けた。
「それは残念だな。悪いが、今から出掛けるんだ。出ろ」
 いくら同じ系列店の店長だろうが元従業員だろうが、この男を事務所に一人残しておくわけにはいかない。
 扉に足を向けながら率直に告げた冬馬の言葉に、良親は深々と溜め息をついて腰を上げた。
「お前、そういうとこは昔っから変わんねぇよな。ああでも――三年前より、少しは融通が利くようになったか?」
 嘲笑を含んだ台詞に、冬馬はレバーに伸ばした手を止めて勢いよく振り向いた。片手で胸倉を掴み、そのまま引き寄せながら両手で掴み直して、扉に乱暴に押し付ける。
「お前、何を企んでる」
 威圧感と鋭い視線を真正面からぶつけ、低い声で問う。しかし良親は、怯えるどころかうっすらと余裕の笑みを浮かべたままだ。
 緊迫した空気が流れる中、突然インカムのマイクが雑音を響かせて繋がった。
「業務連絡。昇さん、トイレの前で男性が一人泥酔してまーす。俺だけじゃ移動できないんで応援ください」
「はいよ、了解。坂本(さかもと)さん、セキュリティ誰か回せます?」
「了解。大貫(おおぬき)、行けるか?」
「はい、行けます」
「頼んだ」
 了解です、と大貫の返答を最後に通信が切れた。諦めたような息を吐きながら、良親が冬馬の腕を掴んで引き離した。
「冬馬、一つだけ忠告しといてやるよ」
「忠告?」
 乱れたTシャツを整える良親を怪訝な面持ちで見据える。改めて視線を上げた良親の口角が、歪に歪んだ。
「執着心は、身を滅ぼすぜ?」
「っ!」
 息を詰めた冬馬に、良親はしてやったりな笑みを浮かべた。するりと横に抜けて扉のレバーに手をかけると、冬馬を振り向いた。
「せっかくだし、俺ちょっと遊んで行くわ。お前出掛けるんだろ? 気を付けて行けよ?」
 じゃあな、と嫌味たらしい笑みを残し、良親は部屋を出た。
 冬馬は、立ち尽くしたままゆっくりと閉まっていく扉を見つめ、両手をきつく握り締めた。
「誰が……っ」
 次に続くはずの言葉は喉の奥で詰まり、出てこなかった。
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