第32話

文字数 2,418文字

「美琴ちゃん……っ」
 香苗が顔をくしゃくしゃに歪めて駆け寄ってきた。後ろから、柴が隗を見据えてこちらへ歩み寄ってくる。こちらもまたぼろぼろで、血の跡がそこかしこに残っている。深手を負って、動けるようになるまで時間がかかったのだろうか。
「ごめんね、美琴ちゃん。ごめんね……っ」
 柴にここを離れるよう言われたのだろう。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、香苗は美琴の右腕を持ち上げて自分の首に回した。
 茂のことも気になるし、痛みと疲労で泣きたいのはこっちなのに、先に泣かれては泣けないではないか。まあ、泣くつもりはないけれど。
 お前は茂の援護へ、と右近が柴へ指示を出すのを聞きながら、美琴は溜め息をついた。
「話しはあと。とにかく、邪魔になるから離れるわよ」
「待て」
 右近と柴が鋭い声で制したのと、隗が土煙の中から姿を見せたのが同時だった。その直後に不快な気配を感覚が捉え、美琴と香苗は目を丸くして頭上を仰ぎ見た。北、いや北東か。邪気が近付いてくる。
「嘘……」
「どこから、こんな……」
 香苗と美琴が呆然と呟いた。初めよりはかなり小さいように思えるが、それでもこの状態で新たな悪鬼はかなり厳しい。一体どこに潜んでいた。
「あとでゆっくり食らってやろうと思って生かしておいたのだが、先に食っておくべきだったか」
 やれやれと言いたげに嘆息しながら、隗は足を止めた。ついと邪気の感じる方へ視線を上げ、わずかに眉を寄せる。何だ。
「まあよい。それにしても……」
 隗が柴へ視線を投げ、不意に言葉を切った。美琴と香苗がびくりと肩を跳ね上げ、体を硬直させる。邪気が近いせいではない、これは神気だ。全身の鳥肌がおさまらない。平城宮跡とはかなり距離があるのに、こんなにもはっきり感じ取れる程強烈な神気――巨大結界が、発動する。
「思っていたより早いな」
「柴、行け!」
 隗が眉をひそめて跳び上がり、右近の声に弾かれたように柴が馬場の方へ駆け出した。
 巨大結界発動直後は、一端を担う各神社や伊吹山、そして結界内は膨大な神気で満たされ、のちに龍脈を通して各地へ送られる。穢れは強制的に浄化、調伏され、もちろん鬼である柴たちも例外ではない。
 隗が姿を消し、馬場から西側へ向かった柴を見送る。このほんの数秒の間に神気がどんどん膨れ上がり――それは、一瞬だった。
 近付いてきた真っ赤な光は、景色や音を全て飲み込んだ。林立した木々や豊かに茂った枝葉、香苗が作った壁や地面、大気、結界の光。確かに光は動いて全てを赤く染め上げていくのに、微かな風すら吹かず、枝葉一枚揺れない。無音の景色の中で赤く色を変えた右近の結界が、突如円柱型に変形した。まるで巨大な火柱のような結界だ。赤い光がぴたりと止まり、音のない空間にさらに一瞬の沈黙が落ちて――音もなく、強烈な光を放った。
 あまりにも強大すぎる神気に気圧され、恐怖を覚えた。わずかな身じろぎも許されない。息をすることすらままならないほど、一方的に圧力をかけられているような圧迫感。蛇に睨まれた蛙なんて表現は生ぬるい。屈する以外の選択肢など思い付かないほど圧倒的で絶対的な、人智を超えた力。
 目をつぶっていても赤い光は瞼を透かし、様子が何となく分かった。地面に吸い込まれているのだろうか、上から下へ光が動く。
 やがて、完全に光が消えた頃。美琴は、ゆっくりと瞼を上げながら詰めていた息を静かに吐き出した。まるで、一瞬だけ時間が止まったような感覚だった。顔を上げて視線を巡らせる。虫の音一つ、葉音一つ聞こえないけれど、色が戻っている。間近で、香苗もどこか夢見心地な顔で辺りを見回している。
 もう一度長く息を吐き出し、ふと右近の横顔に目を止めた。北東の方を向いて、訝しげに眉をひそめている。悪鬼が来た方角だが邪気は感じられないし、どうしたのだろう。
 右近、と声をかけようとした矢先、突如、香苗の携帯が振動した。びくっと大仰に驚いて、にわかにあたふたする。美琴を支えているので、どうすればいいか迷っているらしい。美琴が回していた右腕をするりと離し、右近が腰に腕を回して支える。
「柴かしげさんじゃない?」
「あ、ううううんっ」
 どもりすぎ。密かに突っ込んで、美琴は溜め息をつきながら独鈷杵をポケットに押し込んだ。香苗が慌ただしく携帯をポケットから引っ張り出して通話する。
「美琴。治癒を」
「あ、うん。お願い」
 このまま立っているのは辛い。右近に支えられながらその場に座り込み、ふと息を吐く。さすがに疲れた。
「ひとまず腕と見える部分の傷を治癒するが、他にあるか?」
「お腹お願い。殴り飛ばされたわ」
 腕の傷に手をかざしていた右近が、ついと視線を寄越した。
「内臓は何ともないか?」
「多分」
 そうか、と一人ごち、右近は手元に目を落とした。食うつもりだったのなら、鮮度がいい方が美味いに決まっている。できるだけ血を流さずにおいたのだろう。とはいえ三メートル以上吹っ飛ぶほど強く殴られたのだ、痛いものは痛い。
「閃は」
 治癒の痛みに顔を歪めていると、不意に右近が口を開いた。
「お前が成長するごとに言っていた。良い術者になると思っていた、もっと強くなる、と。間違っていなかったな」
 思いがけない話しに、美琴は痛みを忘れて目を丸くした。
 ラブホテルで、同じことを言われた。閃はあまり口数が多い方ではないし、訓練でも滅多に褒めてくれない。だから、社交辞令でなければまだまだなのだと。期待に応えられていないのだと思っていたのに。
 ちゃんと、見てくれていた。期待に応えられていた。
 鼻がツンと痛んで、少しだけ唇を噛む。
「……ありがとう……」
 顔を赤く染めて俯いた美琴に、右近は口元に微かな笑みを浮かべた。
 とても照れ臭いけれど、嬉しさと安堵の気持ちの方が強い。だが治癒の痛みは容赦ない。ほっとしたとたん再び痛みに襲われ、いった……っ、と思わず口から漏れた。拳を握ってひたすら耐える。
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