第7話

文字数 2,642文字

 ちょうど昼時で混雑していたため、思った以上に時間がかかってしまった。午後一時半。
「さすが海に近いだけありますねぇ。美味しかったです」
「そうだな。満足だ」
 紺野と北原は、すっかり満たされた腹を抱えて車へと向かう。
 食後のコーヒーで一服したい気分だが、署に戻って捜査員の経歴を調べなければならない。何せ区をまたいでいた上に、二か月続いた事件だ。関わった捜査員も多い。
「あ、そう言えば、樹くんの例の噂の件、どうするんですか?」
 それが残っていたか。紺野は低く唸った。
「ああいう店って、開店時間は夜だろ? 何もなければ今日行っとくか」
「分かりました。それで俺、昨日ちょっと調べたんですけど、あの噂、ネットで全くヒットしなかったんですよねぇ。検索ワードを色々変えても駄目でした」
「今時、完全に口コミで回ってんのか」
「みたいです」
 珍しいな、と呟いて紺野は息を吐いた。
「そうなると、やっぱ直接行くしかねぇか。開店時間は?」
「十時です。でも客が増えるのは十一時くらいからみたいですよ」
「じゃあ十一時だな。お前どうする?」
「どうするって、行きますよ?」
「面倒じゃねぇか? スーツは目立つだろうから、一度帰ってまた出なきゃいけねぇけど」
「構いません。それに、クラブなら二人の方が自然ですし」
「……そういうもんか?」
「そういうもんです」
 何せ縁がない場所だ。若い北原が言うならそうなのだろう。そうか、と紺野は納得して頷いた。
「河原町駅から徒歩ですぐですけど、どうします? 駐車場ちょっと離れてますよ」
「ちょっとくらいなら車の方がいいだろ。拾ってやるからうちで待ってろ、着いたら連絡する」
「やった。お願いします」
 と、助手席のドアに手をかけた時、携帯が震えた。車に乗り込みながら液晶を確認すると、下平(しもひら)の名が表示されていた。美琴の件か。
「もしもし」
「ああ、紺野くんか? 俺だ、下平だ」
 背後から低く唸る機械音が聞こえる。どうやら屋上で一服しつつの連絡らしい。
「お疲れ様です。昨日はありがとうございました」
「いや。さっそくなんだがな、沢渡(さわたり)って刑事と連絡が取れたぞ」
「ありがとうございます。どうでしたか?」
 紺野はシートベルトを締めながら、エンジンをかけようとした北原を目で制した。
「日中なら、連絡をくれれば時間を作るそうだ。連絡先を預かってるから、後でメールで送ってやるよ」
「ああ、助かります。すみません、お手数おかけして」
「構わん、気にするな。あー……」
 突然下平が口ごもり、紺野は首を傾げた。
「何かありましたか」
「ああ……いや、何でもねぇ。すぐにメールする、じゃあな」
「え、ちょっと……」
 早口で告げられ、早々に切られた。待ち受け画面に戻った携帯の液晶を見つめ、紺野は眉を寄せた。何か言いたそうにしていたが、何だ。下平が何か言うとしたら樹のことだろうが、何かあったのだろうか。
「紺野さん、どうしたんですか?」
「ああ、いやいい。とりあえず署に戻って、捜査員の経歴調査の続きだ。まだかなり残ってたろ」
「細かいところまで確認するから時間かかるんですよねぇ」
 北原は溜め息をつきながらエンジンをかけ、発車させた。
「しょうがねぇだろ。何か引っかかるところがあったら言えよ」
「はーい」
 気の抜けた返事にひっぱたいてやろうとした時、携帯がメールの着信を知らせた。開くと下平からで、沢渡の連絡先が書かれてあった。
 神戸まで二時間かからないくらいだが、すぐに時間を取ってもらえるとは限らない。とりあえず連絡してみるかと電話番号をタップしようとした時、北原が小さく息を吐いた。横目で視線を投げると、刀倉影正の件を聞いた時と同じ表情を浮かべている。何か思い詰めたような顔。
「どうした」
「え? ああ、その……」
 口ごもると、北原はまた溜め息をついて口を開いた。
「華さんのことなんですけど、俺、妹さんの気持ち、ちょっと分かるなと思って」
 意外な意見だった。どちらかと言えばマイペースな性格で、誰に何をどう評価されても気にしないタイプだと思っていたのだが。
「分かるって?」
 静かに尋ねると、北原は苦笑いを浮かべた。
「もちろん華さんの辛さも分かります。ああいうのって、持って生まれたもので本人のせいじゃないし。でも……ほら、俺五人兄弟じゃないですか。兄と姉と俺、年子なんですよ。しかも二人とも出来が良くて。華さんみたいに全般的にってわけじゃないですけど、兄は弓道部でインハイ行って個人で全国三位だし、姉は全国模試で常に十位以内に入ってるくらい頭が良くて。俺は特にこれと言って特技もなかったですから。二人とも優しいし仲も良いですけど、やっぱりこう、嫉妬というか、羨ましいとは思ってましたね」
 さすがに嫌いにはならないですけど、と付け加えて、北原は口を閉じた。
「そうか……」
 出来の良い兄姉を持つと、そんなものなのだろうか。
 姉の朱音(あかね)は、穏やかというよりはむしろぼんやりしたタイプだ。ただ道を歩いているだけで側溝に落ちたり、電柱にぶつかったり、川の土手から滑り落ちたりと、おっちょこちょいと言えば可愛らしいが、単に注意力が欠けていただけに思える。運動はさっぱりだが勉強は良くできていた。ただ、五つも年が離れていると、いくら姉が親や周りから褒められても少しも気にならなかった。
 年が離れているのだから当然だと思っていたのか、それとも北原以上に自分がマイペースだったのか。
「でも」
 紺野は携帯の画面に視線を落したまま、ぽつりと言った。
「今は警察官だろ。胸張ってろよ」
 警察学校に入るには、まず、文章理解、判断推理、数的処理、資料解釈、さらに社会科学、自然科学と幅の広い教養試験に加え、論文、国語試験を突破しなければならない。二次試験では面接と身体検査。それらをクリアし入学が許可されると、全寮制の寮へ入ることになる。そこで憲法や刑法、刑事訴訟法、民法などの法律を学び、近年ではサイバー犯罪に対応すべくパソコンの知識も身につける。もちろん逮捕術は絶対だ。
 並々ならぬ努力を重ね、人々が安全に暮らせるようにと願い、少しでも犯罪を減らそうと日々奮闘する警察官は、胸を張ってよい職業だ。
 もしもし、京都府警の紺野と申しますが、と話す紺野の耳に、微かに「はい」と頷く北原の声が届いた。
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