第7話
文字数 5,814文字
「無いな……」
ぐるりと周囲を見渡して、省吾 は溜め息交じりに一人ごちた。
昨夜、大河との電話を切ったあと、すぐに刀倉家へ連絡を入れた。電話口に出た影唯 に事情を伝えると、なるほど気が付かなかったなぁ、と暢気な声で驚いていた。
気温が上がる前にと、九時頃に影唯と共に登った裏山は、思っていた以上に急勾配だった。お茶を持って行った方がいいよとペットボトルを渡された意味が分かった。幼い頃は何も思わなかったが、まったく手付かずのまま、木々や雑草が好き放題に生い茂っている。いつから私有地なのかは知らないが、御魂塚を基準とするなら千年以上前。
気が遠くなるような時間の中、この山で生きとし生けるものたちは、人と同じように生死を繰り返し、しかし人とは違う、形を変えることなくあるがまま、ここに在る。ただひっそりと。
つまり、あの頃と同じ光景が目の前にある、ということだ。
そう考えると、何とも不思議な感覚に陥ってしまう。千年以上もの間、柴を封印した影綱はもちろん、刀倉家の人間が見てきた光景を、今自分が見ている。
「千年か……」
一言で言っても実感が湧き辛い年月である。省吾は再度溜め息をつき、頭を切り替えた。
そもそも、家の中に見当たらないこと自体が不自然なのだ。安倍晴明から賜った品となれば家宝と言っても過言ではないだろうし、陰陽師にとって独鈷杵 は貴重な武器の一つであることは日記からも読み取れる。何せ霊刀を「影丸」と名付け愛用していたのだから。
「つーか、影丸って……もっと捻れよ」
三日月宗近とか菊一文字則宗とか、と歴史上の名だたる武士や剣士の愛用刀の名を思い浮かべた。もしかして影綱はネーミングセンスに難があったのかもしれない。まああいつの祖先だしなぁ、と省吾は残念そうに一人呟き、踵を返した。
あるとすればここだと踏んだのだが、それらしいものは結局見当たらなかった。御魂塚を中心に、影唯と手分けをしてかなり広範囲を探したのだが、小さな祠どころか目印になるような物すら見当たらない。
「ここじゃなかったら、どこだ?」
省吾は喉の奥で低く唸った。貴重な物を千年以上も隠しておける場所。
日記は受け継がれており、独鈷杵の記述もある。けれど肝心の独鈷杵がない上にヒントすらない。日記にも書かれていないらしいし、影正もメモなどを残していなかった。
あの日、大河から影正 が残した手紙を見せられた時、正直かなり驚いた。陰陽師の存在を知っているからと言っても、先見なんてただの迷信か創作の中だけだと思っていたが。影正は自分の死を予感していて、それでも影唯に伝えず何も残さなかったということは、やはり知らなかったのだろう。在り処がどこか気にならなかったのだろうか。
木々の間を抜け、足元に茂る雑草を払いながら戻ると、影唯が静かに佇んでいた。
小ぢんまりとした広場は、あの日の戦闘がどれだけ激しかったのかを物語っている。真っ二つに割れた大岩、すり鉢状に深く抉れた大地、無残に倒れた木々や折れた太い枝、踏み潰された雑草。そして、葬儀の日の激しい雨でさえ流れ切れなかった、黒く染まった地面。
影唯はすり鉢状の際に立ち、じっと御魂塚だった大岩を見つめていた。千切れた注連縄と紙垂 は大岩に下敷きになって砂を被り、ほとんど地面に埋もれている。
その何とも言えない苦しげな表情を目にし、省吾は足を止めた。
父は鬼に殺害され、子は危険に身を投じている。その心労は、いかほどか。
ふと省吾の気配を察して影唯が振り向いた。ああ、と声もなく呟き柔らかい笑みを浮かべた。
「どうだった?」
ここで一緒に悲しむのは、本意ではないだろう。省吾はおどけるように肩を竦め、足を進めた。
「駄目。何もなかった」
「こっちもだよ。困ったなぁ、一体どこにあるんだろう……」
うーん、と腕を組んで唸った。省吾は隣で足を止め、横たわる大岩に視線を落とした。
「日記にそれらしいことは書かれてないんだよね」
「うん。大河から言われて読み返してみたんだけど、やっぱりどこにやったかまでは書かれてなかったなぁ」
そうか、と頷いてふと気になった。影唯に目をやる。
「おじさん、読み返したって、あれ古い文語で書かれてるんじゃないの?」
「そうだよ。でも、誰かが訳した現代語訳が残ってるんだ。かなり古くて掠れてる部分があるから、ちょっと読みにくいけど」
「へぇ、訳されてるんだ」
原文では読んでいないのか。疑うわけではないが、その訳が間違っている可能性はないのだろうか。他人に任せると面倒なことになりそうだし、宗史か晴が解読できるのなら一番安心で手っ取り早いが。
「省吾くん、読んでみる?」
思いがけない提案に、省吾はきょとんと目をしばたいた。
「興味はあるけど……でもあれ、貴重なんだよね?」
「学術的にみればそうだろうけど。でも、別にいいんじゃない?」
別にいいって。首を傾げた影唯に、省吾は唖然とした。
あの時代の平民の資料は、ほぼ残っていないと聞く。だから学校で習う平安時代の暮らしなどは、貴族ばかりに焦点が当てられているのだ。そんな時代の平民の日記は、まさに超が付く重要資料。こぞって学者が手に入れようとするだろう。しかもあの時代、紙はまだまだ高価な物で、国の戸籍管理や貴族たちが使用するに留まっていたそうだ。それをこんな片田舎の平民が使っていたとなれば、経緯を調べたがるに決まっている。
「だって省吾くんだからね。破ったり汚したりしないだろう? むしろ手袋とか着けそうだ」
信用されている照れ臭さと見透かされている悔しさで、省吾は視線を逸らした。
肩を震わせていた影唯が、ふいに笑いを収めて再び大岩に視線を落とし、小さく息を吐いた。
「省吾くんには、いつも迷惑をかけてるね」
「え?」
呟くようなその言葉に、省吾は影唯に視線を戻した。少し寂しそうに、けれどどこか自嘲的な笑みを浮かべて、影唯は言った。
「大河のこと、小さい頃からずっと」
確かに色々と迷惑を被ったことはあるが、深刻になるほどのことではない。友達といたずらややんちゃをして叱られることなど、誰にでも経験があるだろうに。おじさん、と声をかけようとした省吾より一歩早く影唯が口を開いた。
「小学生の頃のこと、覚えてるかい?」
大まかに聞かれ、一瞬何のことか分からなかった。あの頃は大河と一緒になっていたずら三昧、遊び放題の日々だった。けれど、すぐに一つのことに思い当たった。どうしても忘れられない、あのこと。
「おじさん、気付いてたんだ……」
驚きを持って呟くと、影唯は喉の奥で笑った。
「もちろん。これでも親だからね」
でも、と影唯は俯いて長い溜め息をついた。
「僕たちが気付いた時には、もう省吾くんが気付いてくれていた。学校に行っている間の様子は分からないと言っても、もう少し早く気付いてやれなかったのかと思うよ。学校で何か変わったことはないかって聞いてみたけど、あの子は笑って言ったんだ。何もないよ、楽しいよって。結局、省吾くんに任せてしまった。不甲斐無いね」
気付いたのは、偶然だった。教室から見えたグラウンドで、大河のクラスが体育の授業をしていた。柔軟をするためにペアを組んでいる最中だった。皆が次々とペアを組む中、大河は一人、ぽつんと取り残されていた。喧嘩でもしたのかと思い、授業が終わって様子を覗きに行くと、大河は笑って「省吾、どうしたの?」と言った。見間違いかと思ったけれど、これまで大河と一緒にいた奴らがこちらを見て、薄ら笑いでこそこそ何か話していることに気付いた。他のクラスメイトたちに視線を投げると、バツが悪そうに顔を逸らされた。
すぐに、どういう状況か理解した。
いじめを先導していたのは、いつもつるんでいた奴らだった。
頭に血が上った。すぐにでもあいつらを殴り飛ばしたかった。けれど大河は、笑っていた。何で笑えるんだと、苛立ちを覚えた。原因は多分、大河の体質。非現実的な話を信じられない気持は分かる。けれど大河と一緒にいたのなら、あいつがそんなくだらない嘘をつく奴ではないことくらい分かるだろう。お前たちはこいつの何を見ていたんだと、そう問い詰めてやりたかった。
でもそうしなかったのは、大河が笑っていたから。決していじめられていると口にしなかったから。それなら自分は何も聞かず、一緒に笑っていようと思った。例え自分にとって不本意でも。
暴力を振るわれたり、教科書や机に落書きをされたりといったことはなさそうだったが、それでも全員から徹底的に無視をされる状況は、今思えばかなり確信的だ。外側からは分かり辛いいじめ。
進級して同じクラスになり、教師らは気付いていたのかいないのか、先導していた奴ら全員とは別々のクラスだった。
それでも大河は、決してあの時のことを話そうとはしなかった。だから今でも、大河があの時何を思い考えていたのかは、分からない。
「そんなことないよ」
結局のところ、自分はただ一緒にいただけだ。大河に弱音や愚痴の一つも言わせてやれなかった。
影唯は自嘲気味に小さく笑うと、省吾を振り向いた。
「あの時は、本当にありがとう。悪いね、お礼を言うの、今頃になってしまって」
ああ、こういうことをさらりと言えるところは、やっぱり親子だ。省吾は笑みを浮かべて小さく首を振った。
「別に気にすることないよ。あいつの世話は慣れてるし」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、慣れるほど省吾くんに任せっ放しにしてる親っていうのは、どうなのかなぁ」
「おじさん、ちょっとネガティブ入ってない?」
呆れた口調で指摘すると、影唯は短く笑った。
「そりゃあね、ネガティブにもなるよ。僕が受け継ぐはずだった霊力を大河が受け継いだせいでいじめに遭ったんじゃないのかとか、鬼代事件が何で今だったのか、影綱の霊力を受け継いだのが何であの子だったのかとか、色々考えちゃうんだ」
そういえば、影唯は霊力をあまり受け継がなかったと言っていた。簡単な結界が張れるくらいだと。もし自分がきちんと霊力を受け継いでいたとしたら、大河の体質はもっと軽くて済んだかもしれない。いじめにも遭わなかったかもしれない。状況だけを見ると、影唯がそう思うのも無理はない。けれどそれは誰にも、どうしようもないことだ。
同じように、鬼代事件が何故今だったのか、何故大河が影綱の霊力を受け継いだのかなども、誰にも分からない。それでも考えてしまうのは、親だからか。大河を心配するあまり自分を責め、答えのない問いを続ける。
「まあ、こんなこと考えても仕方ないんだけど」
変なこと言って悪かったね、と開き直ったように付け加えた影唯に笑みを返し、省吾は丸く切り取られた青空を見上げた。
「大丈夫だよ、あいつは。おかしなところで頑固っつーか、根性あるから」
「ああ、それは確かにそうかな。あ、あれ覚えてるかな」
ふと思い出し笑いを漏らした影唯に顔を向ける。
「ほら、ボールの壁当て」
「あー、覚えてる覚えてる」
中学に入ったばかりの頃だっただろうか。初めは遊びのつもりで始めた、壁に描いた円の中心に野球のボールを当てるというゲーム。何度か投げるうちに省吾は当たるようになったが、大河はさっぱりだった。それが悔しかったのか、大河は夜通しボールを投げ続けた挙げ句、何とか当たるようにはなったものの肩を壊して病院で精密検査を受けた。
「プロにでもなる気かと思ったわ」
「それを言うなら水泳もそうだったよねぇ」
芋づる式に思い出した昔話に影唯は笑い声を上げ、省吾はうんざりした息を吐いた。
「自分だけ泳げないからって、二時間ずっと海に入りっ放しで練習したんだよね」
「上がった頃には指がしわくちゃだったんだよなー。つーか、あいつの体力どうなってんの」
「あの頃にはもう剣道習ってて、体力が付き始めてたからねぇ」
「それにしても二時間って、有り得ないでしょ。しかも風邪ひくし」
あっはっは、と影唯が盛大に笑い声を上げた。真夏だというのに長時間海水に入っていたせいで体が冷え切ったのか、翌日大河は風邪を引き三日間学校を休んだ。しかも懲りずに、泳げるようになるまで秘密の特訓を一週間ほど続けた。
「ぶつぶつ文句言うわりには、ほんっと負けず嫌いっていうか……」
ふと影綱の日記を思い出し、言葉尻がしぼんだ。
「そういうところ、影綱と似てるねぇ」
思っていたことをしみじみと口に出され、省吾は口をつぐんだ。影綱は学がないまま都に招聘され、文字の読み書きと同時進行で陰陽道を極めた。大河の負けず嫌いな性格は、影綱の霊力が影響しているのか。それとも、単に彼の子孫だからか。でもそれを言うなら、影正もだ。
「いやいや、じいさんの孫だからじゃないの?」
影正も大概負けず嫌いだった。子供相手にテレビゲームに本気になり、攻略本を熟読するような人だった。こちらが負けて、大人気ないと突っ込むと「大人だからだ」と訳の分からない言い訳をした。凛として曲がったことが嫌いで快活な人だったけれど、子供以上に子供みたいなところもあった。
「確かにあの祖父にしてこの孫ありって感じだけど、あいつ暢気なところもあるから」
ちゃんとおじさんの性格も受け継いでるよ。そんな照れ臭い言葉を口にできるほど素直ではない。意味もなく大岩に視線を落とした省吾の横顔を一瞥し、影唯は顔をほころばせてそうだねと呟いた。
「っと、大河に連絡入れてやらないと」
思い出話に浸っている場合ではない。省吾はジーンズから携帯を引っ張り出した。
「おじさん、代わる?」
「ああ、そうしてもらおうかな」
分かった、と承諾して大河に発信する。
遠くで鳴く鳥の声と、微かに吹く風に揺れる葉音を聞きながら待つ。五回ほど待って、タイミングが悪かったかなと切ろうとした間際、繋がった。
「もしもし」
向こうから届いた第一声に、え、と息を吐き出すように呟いた。影唯が不思議そうに顔を覗き込む。
知らない男の声。
誰だ、と思った瞬間、向こう側で大河とおぼしき悲鳴が響いた。
ぐるりと周囲を見渡して、
昨夜、大河との電話を切ったあと、すぐに刀倉家へ連絡を入れた。電話口に出た
気温が上がる前にと、九時頃に影唯と共に登った裏山は、思っていた以上に急勾配だった。お茶を持って行った方がいいよとペットボトルを渡された意味が分かった。幼い頃は何も思わなかったが、まったく手付かずのまま、木々や雑草が好き放題に生い茂っている。いつから私有地なのかは知らないが、御魂塚を基準とするなら千年以上前。
気が遠くなるような時間の中、この山で生きとし生けるものたちは、人と同じように生死を繰り返し、しかし人とは違う、形を変えることなくあるがまま、ここに在る。ただひっそりと。
つまり、あの頃と同じ光景が目の前にある、ということだ。
そう考えると、何とも不思議な感覚に陥ってしまう。千年以上もの間、柴を封印した影綱はもちろん、刀倉家の人間が見てきた光景を、今自分が見ている。
「千年か……」
一言で言っても実感が湧き辛い年月である。省吾は再度溜め息をつき、頭を切り替えた。
そもそも、家の中に見当たらないこと自体が不自然なのだ。安倍晴明から賜った品となれば家宝と言っても過言ではないだろうし、陰陽師にとって
「つーか、影丸って……もっと捻れよ」
三日月宗近とか菊一文字則宗とか、と歴史上の名だたる武士や剣士の愛用刀の名を思い浮かべた。もしかして影綱はネーミングセンスに難があったのかもしれない。まああいつの祖先だしなぁ、と省吾は残念そうに一人呟き、踵を返した。
あるとすればここだと踏んだのだが、それらしいものは結局見当たらなかった。御魂塚を中心に、影唯と手分けをしてかなり広範囲を探したのだが、小さな祠どころか目印になるような物すら見当たらない。
「ここじゃなかったら、どこだ?」
省吾は喉の奥で低く唸った。貴重な物を千年以上も隠しておける場所。
日記は受け継がれており、独鈷杵の記述もある。けれど肝心の独鈷杵がない上にヒントすらない。日記にも書かれていないらしいし、影正もメモなどを残していなかった。
あの日、大河から
木々の間を抜け、足元に茂る雑草を払いながら戻ると、影唯が静かに佇んでいた。
小ぢんまりとした広場は、あの日の戦闘がどれだけ激しかったのかを物語っている。真っ二つに割れた大岩、すり鉢状に深く抉れた大地、無残に倒れた木々や折れた太い枝、踏み潰された雑草。そして、葬儀の日の激しい雨でさえ流れ切れなかった、黒く染まった地面。
影唯はすり鉢状の際に立ち、じっと御魂塚だった大岩を見つめていた。千切れた注連縄と
その何とも言えない苦しげな表情を目にし、省吾は足を止めた。
父は鬼に殺害され、子は危険に身を投じている。その心労は、いかほどか。
ふと省吾の気配を察して影唯が振り向いた。ああ、と声もなく呟き柔らかい笑みを浮かべた。
「どうだった?」
ここで一緒に悲しむのは、本意ではないだろう。省吾はおどけるように肩を竦め、足を進めた。
「駄目。何もなかった」
「こっちもだよ。困ったなぁ、一体どこにあるんだろう……」
うーん、と腕を組んで唸った。省吾は隣で足を止め、横たわる大岩に視線を落とした。
「日記にそれらしいことは書かれてないんだよね」
「うん。大河から言われて読み返してみたんだけど、やっぱりどこにやったかまでは書かれてなかったなぁ」
そうか、と頷いてふと気になった。影唯に目をやる。
「おじさん、読み返したって、あれ古い文語で書かれてるんじゃないの?」
「そうだよ。でも、誰かが訳した現代語訳が残ってるんだ。かなり古くて掠れてる部分があるから、ちょっと読みにくいけど」
「へぇ、訳されてるんだ」
原文では読んでいないのか。疑うわけではないが、その訳が間違っている可能性はないのだろうか。他人に任せると面倒なことになりそうだし、宗史か晴が解読できるのなら一番安心で手っ取り早いが。
「省吾くん、読んでみる?」
思いがけない提案に、省吾はきょとんと目をしばたいた。
「興味はあるけど……でもあれ、貴重なんだよね?」
「学術的にみればそうだろうけど。でも、別にいいんじゃない?」
別にいいって。首を傾げた影唯に、省吾は唖然とした。
あの時代の平民の資料は、ほぼ残っていないと聞く。だから学校で習う平安時代の暮らしなどは、貴族ばかりに焦点が当てられているのだ。そんな時代の平民の日記は、まさに超が付く重要資料。こぞって学者が手に入れようとするだろう。しかもあの時代、紙はまだまだ高価な物で、国の戸籍管理や貴族たちが使用するに留まっていたそうだ。それをこんな片田舎の平民が使っていたとなれば、経緯を調べたがるに決まっている。
「だって省吾くんだからね。破ったり汚したりしないだろう? むしろ手袋とか着けそうだ」
信用されている照れ臭さと見透かされている悔しさで、省吾は視線を逸らした。
肩を震わせていた影唯が、ふいに笑いを収めて再び大岩に視線を落とし、小さく息を吐いた。
「省吾くんには、いつも迷惑をかけてるね」
「え?」
呟くようなその言葉に、省吾は影唯に視線を戻した。少し寂しそうに、けれどどこか自嘲的な笑みを浮かべて、影唯は言った。
「大河のこと、小さい頃からずっと」
確かに色々と迷惑を被ったことはあるが、深刻になるほどのことではない。友達といたずらややんちゃをして叱られることなど、誰にでも経験があるだろうに。おじさん、と声をかけようとした省吾より一歩早く影唯が口を開いた。
「小学生の頃のこと、覚えてるかい?」
大まかに聞かれ、一瞬何のことか分からなかった。あの頃は大河と一緒になっていたずら三昧、遊び放題の日々だった。けれど、すぐに一つのことに思い当たった。どうしても忘れられない、あのこと。
「おじさん、気付いてたんだ……」
驚きを持って呟くと、影唯は喉の奥で笑った。
「もちろん。これでも親だからね」
でも、と影唯は俯いて長い溜め息をついた。
「僕たちが気付いた時には、もう省吾くんが気付いてくれていた。学校に行っている間の様子は分からないと言っても、もう少し早く気付いてやれなかったのかと思うよ。学校で何か変わったことはないかって聞いてみたけど、あの子は笑って言ったんだ。何もないよ、楽しいよって。結局、省吾くんに任せてしまった。不甲斐無いね」
気付いたのは、偶然だった。教室から見えたグラウンドで、大河のクラスが体育の授業をしていた。柔軟をするためにペアを組んでいる最中だった。皆が次々とペアを組む中、大河は一人、ぽつんと取り残されていた。喧嘩でもしたのかと思い、授業が終わって様子を覗きに行くと、大河は笑って「省吾、どうしたの?」と言った。見間違いかと思ったけれど、これまで大河と一緒にいた奴らがこちらを見て、薄ら笑いでこそこそ何か話していることに気付いた。他のクラスメイトたちに視線を投げると、バツが悪そうに顔を逸らされた。
すぐに、どういう状況か理解した。
いじめを先導していたのは、いつもつるんでいた奴らだった。
頭に血が上った。すぐにでもあいつらを殴り飛ばしたかった。けれど大河は、笑っていた。何で笑えるんだと、苛立ちを覚えた。原因は多分、大河の体質。非現実的な話を信じられない気持は分かる。けれど大河と一緒にいたのなら、あいつがそんなくだらない嘘をつく奴ではないことくらい分かるだろう。お前たちはこいつの何を見ていたんだと、そう問い詰めてやりたかった。
でもそうしなかったのは、大河が笑っていたから。決していじめられていると口にしなかったから。それなら自分は何も聞かず、一緒に笑っていようと思った。例え自分にとって不本意でも。
暴力を振るわれたり、教科書や机に落書きをされたりといったことはなさそうだったが、それでも全員から徹底的に無視をされる状況は、今思えばかなり確信的だ。外側からは分かり辛いいじめ。
進級して同じクラスになり、教師らは気付いていたのかいないのか、先導していた奴ら全員とは別々のクラスだった。
それでも大河は、決してあの時のことを話そうとはしなかった。だから今でも、大河があの時何を思い考えていたのかは、分からない。
「そんなことないよ」
結局のところ、自分はただ一緒にいただけだ。大河に弱音や愚痴の一つも言わせてやれなかった。
影唯は自嘲気味に小さく笑うと、省吾を振り向いた。
「あの時は、本当にありがとう。悪いね、お礼を言うの、今頃になってしまって」
ああ、こういうことをさらりと言えるところは、やっぱり親子だ。省吾は笑みを浮かべて小さく首を振った。
「別に気にすることないよ。あいつの世話は慣れてるし」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、慣れるほど省吾くんに任せっ放しにしてる親っていうのは、どうなのかなぁ」
「おじさん、ちょっとネガティブ入ってない?」
呆れた口調で指摘すると、影唯は短く笑った。
「そりゃあね、ネガティブにもなるよ。僕が受け継ぐはずだった霊力を大河が受け継いだせいでいじめに遭ったんじゃないのかとか、鬼代事件が何で今だったのか、影綱の霊力を受け継いだのが何であの子だったのかとか、色々考えちゃうんだ」
そういえば、影唯は霊力をあまり受け継がなかったと言っていた。簡単な結界が張れるくらいだと。もし自分がきちんと霊力を受け継いでいたとしたら、大河の体質はもっと軽くて済んだかもしれない。いじめにも遭わなかったかもしれない。状況だけを見ると、影唯がそう思うのも無理はない。けれどそれは誰にも、どうしようもないことだ。
同じように、鬼代事件が何故今だったのか、何故大河が影綱の霊力を受け継いだのかなども、誰にも分からない。それでも考えてしまうのは、親だからか。大河を心配するあまり自分を責め、答えのない問いを続ける。
「まあ、こんなこと考えても仕方ないんだけど」
変なこと言って悪かったね、と開き直ったように付け加えた影唯に笑みを返し、省吾は丸く切り取られた青空を見上げた。
「大丈夫だよ、あいつは。おかしなところで頑固っつーか、根性あるから」
「ああ、それは確かにそうかな。あ、あれ覚えてるかな」
ふと思い出し笑いを漏らした影唯に顔を向ける。
「ほら、ボールの壁当て」
「あー、覚えてる覚えてる」
中学に入ったばかりの頃だっただろうか。初めは遊びのつもりで始めた、壁に描いた円の中心に野球のボールを当てるというゲーム。何度か投げるうちに省吾は当たるようになったが、大河はさっぱりだった。それが悔しかったのか、大河は夜通しボールを投げ続けた挙げ句、何とか当たるようにはなったものの肩を壊して病院で精密検査を受けた。
「プロにでもなる気かと思ったわ」
「それを言うなら水泳もそうだったよねぇ」
芋づる式に思い出した昔話に影唯は笑い声を上げ、省吾はうんざりした息を吐いた。
「自分だけ泳げないからって、二時間ずっと海に入りっ放しで練習したんだよね」
「上がった頃には指がしわくちゃだったんだよなー。つーか、あいつの体力どうなってんの」
「あの頃にはもう剣道習ってて、体力が付き始めてたからねぇ」
「それにしても二時間って、有り得ないでしょ。しかも風邪ひくし」
あっはっは、と影唯が盛大に笑い声を上げた。真夏だというのに長時間海水に入っていたせいで体が冷え切ったのか、翌日大河は風邪を引き三日間学校を休んだ。しかも懲りずに、泳げるようになるまで秘密の特訓を一週間ほど続けた。
「ぶつぶつ文句言うわりには、ほんっと負けず嫌いっていうか……」
ふと影綱の日記を思い出し、言葉尻がしぼんだ。
「そういうところ、影綱と似てるねぇ」
思っていたことをしみじみと口に出され、省吾は口をつぐんだ。影綱は学がないまま都に招聘され、文字の読み書きと同時進行で陰陽道を極めた。大河の負けず嫌いな性格は、影綱の霊力が影響しているのか。それとも、単に彼の子孫だからか。でもそれを言うなら、影正もだ。
「いやいや、じいさんの孫だからじゃないの?」
影正も大概負けず嫌いだった。子供相手にテレビゲームに本気になり、攻略本を熟読するような人だった。こちらが負けて、大人気ないと突っ込むと「大人だからだ」と訳の分からない言い訳をした。凛として曲がったことが嫌いで快活な人だったけれど、子供以上に子供みたいなところもあった。
「確かにあの祖父にしてこの孫ありって感じだけど、あいつ暢気なところもあるから」
ちゃんとおじさんの性格も受け継いでるよ。そんな照れ臭い言葉を口にできるほど素直ではない。意味もなく大岩に視線を落とした省吾の横顔を一瞥し、影唯は顔をほころばせてそうだねと呟いた。
「っと、大河に連絡入れてやらないと」
思い出話に浸っている場合ではない。省吾はジーンズから携帯を引っ張り出した。
「おじさん、代わる?」
「ああ、そうしてもらおうかな」
分かった、と承諾して大河に発信する。
遠くで鳴く鳥の声と、微かに吹く風に揺れる葉音を聞きながら待つ。五回ほど待って、タイミングが悪かったかなと切ろうとした間際、繋がった。
「もしもし」
向こうから届いた第一声に、え、と息を吐き出すように呟いた。影唯が不思議そうに顔を覗き込む。
知らない男の声。
誰だ、と思った瞬間、向こう側で大河とおぼしき悲鳴が響いた。