第30話

文字数 3,638文字

 すでに算段は付いていた。
 もし龍之介が一連の事件に関わっていて、敵側が草薙たちを排除するつもりならこの機会を逃すはずがない。龍之介を言いくるめて、必ず賀茂家を襲撃する。自分たちが式神を引きつけておくから、その間に桜を拉致しろとでも言ったのだろう。そして龍之介は簡単に奴らの口車に乗り、予定通り見捨てられた。
 問題というほどのものではないが、草薙たちを警察に出頭させたあと、一連のやり取りをどこで行われたことにするかは、状況次第だった。
 仲間の動向によって対処が変わるのだ。彼らが賀茂家に行くか行かないか、生きているか死んでいるか。
 仲間が賀茂家へ行き、さらに生きているのならば賀茂家でと言わなければならなかったが、志季の言う通り生きてはいまい。ならば、草薙の自宅にした方が都合がいい。警察に草薙家との関係をあれこれ聞かれるのは面倒だ。念のために、寮を出たあと龍之介から聞いたマンションの住所へ閃を向かわせた。妙子を送り届けた時に戻った閃の報告では、ベランダの窓が開けっ放しになっており、荷物をまとめた紙袋やバッグが放置されていたとのことだ。間違いなく、襲われている。
 となると変更はない。内部告発、あるいは監査によって横領が発覚し、会長と社長自らが草薙の自宅へ足を運んだ。そこで追求し説得、出頭に至った。実にシンプルで分かりやすい構図だ。
龍之介に関しては、直接関わっていないが知っていたため、隠匿の罪になる。また、リンとナナの件ですでに警察が動いているため、合わせてそちらの聴取も行われるだろう。仲間は、部屋の状況に不自然さを覚えるだろうが、逃亡とみなして指名手配し、終いだ。
 草薙らにも、警察へ向かう道すがら一介たちからそう証言するように伝えられている。また携帯のアドレスも、楠井の連絡先と履歴は全て消去するように言ってある。ちなみに、さすがにもう逃げようとは思わないだろうが、念のために栄明と郡司が同行した。
 そして、龍之介の車は軽部(かるべ)が鍵を預かって女性秘書と共に回収し、自宅へ届けている。初めは郡司に任せるつもりだったのだが、軽部が「少しでも何かお役に立ちたいのです」と言うので任せることにした。六年前、会合で仕事の依頼をしたことを悔やんでいるのだろう。
 去り際に、晴が言った。
「軽部さん。今度、またうちにいらしてください。父も兄も喜びます」
 晴にしては気が利く台詞だ。軽部は目に涙を溜めて、深々と頭を下げた。
 妙子を送り届けて帰宅すると、無事回収したらしい、真っ赤なスポーツカーは門前から消えていた。それは良かったのだが、一つよろしくないことがあった。
 玄関扉を開けるなり目に飛び込んできたのは、体の前で手を組んで立つ、にこにこ顔の夏美だった。後ろには右近と左近が控えている。同時に無言で首を横に振った。三十年も付き合っていれば、それがどういう意味か分かる。というか、夏美を見れば分かる。
 宗一郎は一瞬固まりかけ、かろうじて回避した。
「ただいま」
「おかえりなさい、お義母さん。お疲れになったでしょう。お風呂湧いてますから、どうぞ」
 ただいまと言ったのは宗一郎なのに、華麗に無視された。律子が同情と憐みを込めて、宗一郎の背中をぽんと叩いて横をすり抜けた。
「ありがとう、夏美さん。桜は大丈夫だった?」
「ええ。もう休ませましたよ」
「そう、良かった。じゃあお風呂いただこうかしら」
「ええ、ごゆっくり」
 母と妻の良好な関係は、息子であり夫である立場からしてみれば実に助かる。嫁姑問題に頭を抱えなくてすむ。だが、気が合いすぎてないがしろにされることもしばしばだ。
 任せたと言わんばかりにさっさと姿を消した律子の背中を見送り、夏美はくるりと宗一郎に向き直った。
「あなた。こちらへ」
 もうその柔らかい声と美しい笑顔が恐ろしい。宗一郎は無言で草履を脱いで、促された庭へと続く廊下に足を向けた。後ろから右近と左近がついてくる。
 庭に面した縁側につくなり、夏美が足を止めて身を翻した。真っ直ぐ見上げてくる瞳は、少しの憤りが見える。
「右近から聞きました。どういうことです?」
 やはりそれか。一転して咎めるような口調に、宗一郎は嘆息した。
「どうと言われてもな。私も知らなかったんだよ」
「宗史の独断だと」
「そうだ」
 今度は夏美が嘆息した。
「本当に、貴方たちは……」
 俯いて、組んだ両手をきゅっと握る。
「待つ方の身にもなってください」
 苦しげに吐き出された言葉に、宗一郎は目を細めた。
 式神がいるとはいえ、息子が刺されたと聞けば母親として心配するのは当たり前だ。しかも相手は使役する式神。律子はもちろん、夏美もこれまでのいきさつを全て知っている。夫と息子がどれだけ危険な状況に身を投じているのか。日々、気が気ではないだろう。
 ただ、夏美が案じる原因は、それだけではない。
「……すまない」
 宗一郎は一歩歩み寄り、その腕に夏美を抱き込んだ。
「やめてください。右近と左近が見ています」
「気にするな。夫婦の触れ合いは円満の秘訣だ」
 しらっと言ってやると、夏美の細い肩が小さく揺れた。
「もう、十分円満ですよ」
「いいや、まだまだだ」
 冗談めかしの反論に、くすくすと夏美が笑う。
「贅沢ですねぇ」
 言いながらも突き放す素振りを見せない夏美に、宗一郎は少しだけ腕に力を込めた。
 そんな、三十年仕えてきた主とその妻の様子を眺める右近と左近は、どこか呆れ顔だ。しかし、二人の出会いから今日まで、その全てを見守ってきた二柱からしてみれば、今さらとも言える。
 夏美が息を吐いて肩から力を抜いた。
「宗史は、無事なんですね?」
 落ち着いた声で尋ねながら体を離した夏美から、宗一郎は少々名残惜しげに腕を解いた。
「ああ。出血は多かったが、傷は完治している」
「……そうですか」
 空いた間にわずかな心配を覗かせ、それでも一応ほっと安堵の息を漏らす。と思ったら、夏美は視線を落として顔を曇らせた。
「……昴くん、だったそうですね」
「ああ」
 そうですか、と小さく呟いた声は残念そうであり、痛々しげだった。
 昴が寮に入って一年。彼らの散髪を一手に引き受けていた夏美とは、それなりに交流もあった。内通者がいると判明した時から、それが誰であろうと心を痛めるのは分かっていた。夏美も覚悟はしていただろう。けれど、過ごしてきた日々はあまりにも穏やかで、それがことさら痛みと悲しみを増長させる。
 気を立て直すように夏美は大きく息を吐き出し、思い出したようにぽんと手を打った。
「そうだわ、冬馬さん」
「うん?」
 上げた顔には、いつもの明るい表情が戻っている。こんな時、つくづく強い女だと思う。
 夏美は庭へ顔を向けた。
「襲撃で庭に開いた穴を全部塞いでくれたそうなんです」
「ああ、先鋭の術で開いた穴か」
 ええ、と夏美は嬉しそうに笑って頷いた。庭へ視線を投げると、確かに一つの穴も見当たらない。しかもほうきで掃かれたらしい跡が残り、枝葉も一か所に集められている。晴も言っていたが、なるほど、律儀な性格だ。
「左近ってば、彼が帰る前に言ってくれればいいのに。お礼が言えなかったわ」
「手持ち無沙汰だからと、奴が好きでやったことだ。気にすることではなかろう」
「そういう問題じゃないのよ。確か、アヴァロンってクラブの店長さんでしたよね。HPからメールでも送っておこうかしら」
 突然店宛てにそんなメールが届いたら彼も驚くだろうに。しかし、特に問題がないのなら反対する理由もない。
「気になるのなら、好きにしなさい」
「じゃあそうします」
 ふふっと嬉しそうに笑って、夏美は改めて庭を見渡した。
「いつかまた、会えるかしら」
 哀愁を含んだ声。その相手が自分自身を指していないことは、すぐに分かった。宗一郎は袖口に交互に腕を通しながら、庭へ視線を投げた。
「ああ、会える」
 断言した宗一郎を、夏美は目をしばたいて見上げた。長年連れ添った夫とはいえ、陰陽師である彼の目に何が映っているのか、自分には知る由もない。けれど、濁りのない力強いその目を、ずっと信じてきた。
 夏美は口元に笑みを浮かべ、再び庭へ視線を戻した。
「夏美」
 落ちた沈黙を宗一郎が破った。
「あとでもう一度出掛ける。その前に一杯頼む。さすがにこう暑いと喉が渇く」
「ええ。麦茶でよろしいですか?」
「ああ」
 すぐにお持ちしますね、と言い残し、夏美は小走りで廊下の奥へ姿を消した。
 夏美の背中が見えなくなってから、宗一郎は右近と左近を見やった。
「左近、お前は戻って構わない。右近、もうひとっ飛び頼めるか」
「明のところか」
 ああ、と宗一郎は溜め息まじりに頷いた。
「まったく。だから私はやめろと言ったんだ」
 違う名であれば、晴は今頃本来の力を発揮できていた。それを五つ年上の幼なじみは、人の忠告を聞かずに明と晴と名付け、しかもその意味を話さずに死んでしまった。
 あの馬鹿は、と渋面を浮かべて小さくついた悪態は、夏のぬるい空気に溶けて消えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み