第7話

文字数 6,693文字

 喉の酷い渇きで、大河は目を覚ました。
 心臓が締め付けられるような感覚に、布団の中で手足を縮めて丸くなる。どれだけ止めようと頑張っても勝手に流れ続ける涙で枕が濡れる。
 脳裏に焼きついた、遠ざかる祖父母の背中。届かない手。初めて感じた、郷愁。
 目を覚ました時からどのくらいの時間が経ったのかは、分からない。
 泣きすぎて頭がぼんやりする。大河はゆっくりと体を起こし、視線を巡らせた。
 部屋の端に備えられたルームランプが、仄かな光を灯している。知らない天井、知らない家具に照明、夏用の薄いダウンケット。低く唸りながら冷風を吐き出すエアコンのせいで、部屋の空気はからからに乾燥していた。寮だ、と認識するのにずいぶんと時間がかかった。
 認識して、まるで脳が拒否するかのようにそれ以上の思考を停止した。とりあえずこの喉の渇きをどうにかしたいと思うのは、本能的な欲求だろうか。大河はのろのろとベッドから下りた。
 部屋の扉を開け廊下に出ると、夏のむっとした空気がまとわりつく。少々体が冷えているとはいえ、不快感は否めない。突き当たりに設けてある天井まで届く細長い窓から、月明かりが差し込んでいる。一切の音がないのは、それだけ夜が深いからか。今、何時だろう。そんなことを考えながら素足で歩く自分の足音が、妙に耳に響いた。
 階段にも大きな窓が設けられているため、明りには困らなかった。
 階段を下り廊下を曲がると、リビングの何枚も連なった長い扉が半分ほど開け放たれていた。噴き出し窓にはレースのカーテンしかかけられていないため、中の様子が窺える。寮の周囲は壁に囲まれているし、庭の高い木が目隠しの代わりになるのだろう。
 大きな窓からリビングダイニングの半分ほどまで差し込んだ月明かりを頼りに、大河はキッチンへ入った。
 白を基調にしたキッチンは綺麗に掃除され、整頓されていた。シンクの後ろの備え付けの棚からグラスを一つ失敬して、水道から水を注ぐ。少しずつ喉を慣らしてから、一気に飲み干した。生ぬるい水が体中に沁み渡る。
 今まさに蘇生したかのように、血管が大きく脈を打つ。比例して、思考が戻ってくる。長い息を吐いて作業台にグラスを置き、そのままぼんやりと室内を見渡した。
 俺、何でここにいるんだっけ。
 そんな疑問が頭をよぎった。
 つい三日、いや、もう四日前になる。クラスメートたちと終業式の後に遊んで、その帰り道に悪鬼に襲われて。翌日には、陰陽師の末裔で御魂塚を護る守人だと知らされた。鬼と遭遇して、噛み付かれて、式神を召喚して命を救われた。そして昨日、京都へ招集され、会合に出席して、何事もなく終わった。次の日には観光をして山口へ戻るはずだった。それが、昨日。
 宗史の自宅へ向かう途中、華から昴たちが鬼に襲われていると連絡を受けて現場に向かい、それから――。
「……っ」
 グラスを握る手に力がこもる。小刻みに震える手が、記憶が間違っていないことを証明している。
 再びじわりと瞳を濡らし始めた涙を堪えようと、きつく目を閉じた。
 誰を責めればいいのか分からなかった。けれど、誰も責めてはいけないとも思った。影正が死んだのは、ここにいる誰のせいでもない。影正は鬼から自分を守って死んだのだ。ならば責めるのはあの鬼と、弱い自分を責めるべきだと思った。何もできず、ただ影正を置き去りにした自分を。
 だからただ黙って耐えた。今にも爆発しそうな気持ちを抱えたまま、ひたすら耐えることしかできなかった。
 体中をじわじわと侵食していく鬼への怒りと憎しみと、自分への嫌悪と不甲斐無さを黙って押し留めなければ、皆を責め立てて恨んでしまいそうだったから。
 と、ざっと砂を擦る音がわずかに聞こえた。
「っ!」
 びくりと体を震わせ、勢いよくしゃがみ込んだ。そのまま時が止まったように体を硬直させ、耳を澄ます。
 明らかに砂を擦る音だった。ということは、外。庭だ。こんな時間に誰だ。寮の誰かがいるのだろうか。大河はごくりと喉を鳴らし、息をひそめた。緊張から体温が上がり、背中に汗が流れる。
 ざっ、と再び同じ音が、今度は連続して聞こえた。ゆっくりと、こちらに近付いている。扉は開いたままにしてあるため、このまま廊下へ出てしまえば見つからない。誰か呼んでくるべきか。いや、その前に庭にいるのが誰か確認した方がいい。哨戒から戻ってきた寮の誰かかもしれない。
 大河は這うようにしてキッチンから出ると、ダイニングテーブルの椅子の足の間から庭を覗いた。
「え……」
 月明かりに照らされた姿に、思わず声が漏れた。
 柴だ。
 何で、と声もなく呟いて、大河は椅子を支えに立ち上がった。すると、柴はついと大河に視線を向けた。
 夜でも一向に下がらない真夏の蒸し暑さを感じさせない涼やかな顔で、柴は大河をじっと見据える。不思議と恐怖を感じなかった。初めて対峙したあの時も、公園の林で鬼と対峙した時も、あんなに恐怖した。それなのに今恐怖を感じないのは、助けてくれた時と同じように、柴が正気だと分かったからだ。
 それは第六感か本能か、それとも、体に流れる影綱の血が覚えているのか。
 大河は、引き寄せられるように一歩踏み出した。一歩、また一歩と。
 不意に柴が視線を下ろし、腰を屈めた。
 柴の顔にばかり目を奪われて気付かなかったが、両腕に何かを抱えている。それをゆっくりと、慈しむように地面に横たえた。
「じ……っ」
 それが影正だと認識できたのは、月の光のお陰だ。
 大河は弾かれるように駆け出し、もどかしげにカーテンと鍵を開けて乱暴に窓を開いた。裸足のまま庭に飛び出して影正の側に駆け寄る。柴が数歩、後退した。
「じいちゃん!」
 地面に膝をつき、すっかり硬直してしまっている影正の遺体を揺さぶる。鬼に抉られ開いた穴はそのままで、血に染まった衣服は乾き切っていた。けれど、胸の前で両手が組まれ、見開いたままだった目は閉じられ、切り傷が残る顔の血は綺麗に拭き取られていた。
 何度揺さぶっても微かな反応すら返って来ない。目の前に影正の体はあるのに、その中に影正はいない。夢で見た遠ざかる背中が脳裏に蘇る。
 じいちゃん、と小さく呟き、影正にすがりつく大河の頭上から、微かな声が降ってきた。
「すまない」
 鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。一瞬、思考が止まった。
 大河は大きく目を見開いた顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。柴を凝視したまま、影正の遺体を回り込む。
「何だよ、それ……すまないって……っ」
 勢いよく柴に詰め寄り、両手で胸倉を掴んだ。
「お前らが……っお前ら鬼が殺したんじゃねぇかッ! 今さら何なんだよふざけんなッ! お前ら何で……っ」
 何で復活しやがった。ずっと大人しく封印されとけよ。何でお前ら存在してんだ、迷惑なんだよ。
 そう罵ってやろうとした時、見下ろしてくる深紅の双眸が微かに揺れた。表情は氷を思わせるほど冷たいのに、鬼の象徴であるその紅い瞳だけが悲しげに揺れ、大河は声を詰まらせた。
「何なんだ……お前……っ」
 何故謝る。何故影正を運んだ。何故そんなに悲しい目をする。鬼のくせに――じいちゃんを殺した仲間のくせに。
 柴を見上げたまま、大河はくしゃりと顔を歪ませた。
 もう、漏れる嗚咽も、溢れる涙を止める余裕はなかった。大河は堰が切れたように泣き声を上げながら、柴の体に沿ってずるずると崩れ落ちた。
 大河の怒声を聞いて二階の部屋に明りが点き、ばたばたと階段を駆け下りてくる足音がいくつも響く。ほぼ同時に、
柴主(さいしゅ)
 どこからか紫苑が姿を現した。柴が躊躇するようにわずかに後退し、
「大河ッ!」
 宗史の声に弾かれたように後方に飛び跳ねた。そのまま反転し、紫苑を連れて屋根から屋根へ飛び移りながら姿を消した。
「待ててめぇッ!」
「待て晴! 追うな!」
 手の中に霊刀を具現化しなから裸足で庭に駆け下りた晴を、宗史が制した。
「深追いするな。二の舞だ」
 晴は柴らが消えた方を睨んで舌打ちをかました。
「それより……」
「ああ……どういうことだよ」
 地面に横たわる影正の遺体。すがりついて泣き喚く大河。宗史と晴は顔を見合わせた。
 この状況はどう見ても、柴と紫苑が影正の遺体を運んできたとしか考えられない。となると、公園の林から遺体を移動したのは柴と紫苑ということになる。鬼にとって陰陽師の肉は貴重な食料のはずだ。それを食らわずに、あまつさえわざわざ敵陣である寮まで運んでくるとは。
 それに、どうやってこの場所を知った?
「あいつら、何考えてんだ」
 晴のぼやきに、宗史は眉根を寄せた。
 とりあえず、今は奴らの思惑を探っている場合ではない。宗史は頭を切り替え、皆に指示を出した。
 樹と怜司は哨戒中でいない。茂と弘貴、春平で影正を和室へと運び、夏也(かや)美琴(みこと)、昴は影正を寝かせるための布団を用意した。香苗は華の部屋に待機させている双子の元へ、華は大河の傍についてやっている。
 宗史は宗一郎へ、晴は明へと連絡を入れ、すぐに向かうと告げられて待機を命じられた。指示を皆に伝え、各々何をするでもなく待つ。
 しばらく重苦しい時間が過ぎ、時計の針が二時を回った頃、おもむろに美琴が席を立った。
「あたし、部屋に戻ります。ここにいてもしょうがないし。何かあったら呼んでください」
「ああ、構わないよ」
 大河は、泣き止みはしたものの、和室で横たわる影正の傍で身じろぎ一つせずに膝を抱えている。そんな大河を気遣ってか、小声だが無表情で美琴が告げた。すんなり頷いた宗史とは逆に、樹の席から弘貴がじろりと睨んだ。
「お前、よくそういうこと言えるな。影正さん、亡くなったんだぞ」
 ちょっと、と春平が止めに入るが、弘貴がうるせぇと一蹴する。
「だから? たった一晩泊まっただけの人に対してよくそんなに情が湧くわね」
「お前っ」
 椅子を鳴らして立ち上がり、弘貴は詰め寄るようにテーブルに両手をついた。
「一緒に戦ってくれた人に向かってなんて言い草すんだ!」
「おい」
 低い声を上げたのは晴だ。腕を組んでソファに座ったまま、瞬時に固まった二人を振り向きもせずに言い放つ。
「お前ら二人とも、部屋に戻ってろ。呼ぶまで出てくんな」
 有無を言わせない迫力に二人揃ってふてくされつつ、言われたとおりにリビングを出て部屋へ向かった。
 苛立った様子で足を組み替える晴を盗み見て、宗史は機嫌が悪いなと小さく溜め息をついた。
 普段はへらへらして軽い印象ばかりが強いが、実のところ非常に情に厚い男でもある。場の空気にも鋭く、短絡的ではあるが頭の回転も悪くない。性格的に、分かりやすい状況や思考を好む傾向があるため、おそらく柴らの行動の意味が読めず苛立ちが募っているのだろう。それでなくとも千代の骨を盗んだ犯人の目的も居所も掴めていないのだ。けれど、気持ちは分かるが八つ当たりは少々大人気ない。
 宗史は腰を上げ、ダイニングテーブルへと歩み寄った。小声で言う。
「皆も、部屋に戻ってもらって構いません。休める時に休んでおいた方がいいですし、美琴の主張も一理あります。何かあれば呼びますから。それと、春と夏也さん、弘貴のフォローお願いできますか」
「あ、はい。分かりました」
「はい」
 春平と夏也は立ち上がってリビングを出た。後に続くように、昴と茂も腰を上げる。リビングを出る前、一瞬だけ昴が大河を気にするように振り向いた。
 次は和室へ行き、華を手招きをして呼び同じことを告げた。
「それと、美琴をお願いしたいんです。何もなければそれでいいんですが……」
 言い淀む宗史に、華は困ったようにええと頷いた。
「あの子、まだちょっとね……」
 眉尻を下げる華に、宗史も苦笑いを浮かべる。分かったわ、と言って華はリビングを出た。
 麦茶を三人分淹れ、一つは大河へと運ぶ。体を丸めて膝に顔をうずめ、身じろぎ一つしない大河の傍にお盆ごと置くと、そのまま立ち去った。
「お前、ちょっと過保護じゃねぇの」
 残り二つを晴と自分の前のローテーブルに置いた時、非難するような声でぼそりと晴が言った。弘貴と美琴のことだ。ソファに腰を下ろしながら、宗史はそうでもないよと返す。できるだけ小声で続けた。
「小さくても綻びは綻びだ。実際、美琴はあまり馴染んでいないようだし、統制が取れなくなっても困る。皆、大人だから個人間の問題で済むだろうけど、空気は悪い」
「打算か」
「ああ」
 今の状況では、小さな(いさか)いから仲間割れに発展しないとも限らない。修復できる時にしておくのも、自分たちの役目だ。
「それに……」
 宗史は和室の方をちらりと見やる。
「人の気配は、少ない方がいいだろ」
 ぽつりと呟いた言葉に、だな、と小さく同意が返ってきた。
 感受性が高すぎる大河なら、きっとこんな時でも感じているだろう。いくら馴染むのが早いとはいえ、会ったばかりの人間の気配は煩わしいかもしれない。本当は一人にさせてやりたいところだが、宗一郎たちを待たなければならない。だったらせめて、数日を共にした自分たちなら多少煩わしさも軽減されるかもしれないと思うのは、自惚れだろうか。
 以降、晴が何度か煙草を吸いに庭に出た以外は、二人は一言も交わすことなく当主らの到着を待った。
 三十分ほどで明が到着し、一時間後に宗一郎が到着した。
 宗一郎に案内されて入ってきたのは、桜の主治医だった。宗史も面識がある。驚きながらも軽く会釈をすると、無言で会釈を返された。
 通常、病院で死亡した場合は医師によって死亡診断書が発行される。病院以外や自宅療養中以外などで死亡した場合は、警察医によって死体検案書が発行される。だが宗一郎は医師を連れてきた。ということは、医師はこちらの事情をすべて把握しているということだ。警察に通報できない事情を。
 すぐに死亡診断書が発行され、医師は深々と頭を下げてタクシーで帰って行った。
「皆は」
「部屋に下がらせました」
 宗史の答えに、宗一郎はそうかと一言だけ返した。
「明。刀倉家に連絡は」
「先ほど。予定通り、十時頃に到着予定です」
「分かった」
 予定通りということは、昼間の連絡ですでにそうすると決まっていたのだろう。影正の遺体の有無ではなく、大河を迎えに来るために。
 宗一郎がおもむろに立ち上がり、和室へと入った。
 しばらくすると、扉を閉めながら出てきた。
「このままでいたいそうだ」
 大河に両親が来ることを伝え、部屋で休めとでも言ったが断られたのだろう。宗一郎はソファに腰を下ろすと、さて、と宗史と晴を交互に見た。
「一瞬とは言え、柴と紫苑を見た感想は?」
 問われた質問に、宗史も晴も低く唸った。感想と言われても正直困る。彼らに関する情報はほとんどないに等しいのだ。
 先に口を開いたのは晴だった。
「正直、分からない」
 晴は膝に肘をつき、前屈みで神妙な表情を浮かべ答える。
「何を基準に判断すればいいのか、俺には分からない。ただ、柴は正気だったと思うし、影正さんを運んでくれたことは……個人的には感謝してる。けど、あいつらの目的が分からない以上、信用するべきじゃないと思う」
 ふむ、と宗一郎が頷き、宗史へ視線を向けた。
「俺も、晴と同じ意見です。柴は正気だったように見えましたし、何よりも遺体を食らわずにここまで運んだという事実はその証明になります。信用はまだできませんが」
「……そうか、分かった」
 一瞬空いた間が引っ掛かった。宗史はわずかに眉を寄せたが、口をつぐんだ。
「お前たちも、部屋に戻って構わない。休める時に休んでおきなさい」
「あ、いえ。俺はここで……」
 ついて出た言葉に一番驚いたのは自分だった。休める時に休んでおけと皆に言ったのは自分なのに。尻すぼみに戸惑っていると、晴が便乗した。
「俺も。慣れてねぇ枕ってよく寝れねぇんだよなぁ」
 ちょっと一服と庭へ出る晴を、宗史は胡乱な目で見送った。
 騒ぎが起きるまでいびきをかいて眠っていた奴がどの口で言う。新幹線だろうと縁側だろうと、ところ構わず眠れるくせに。
 宗史は麦茶に手を伸ばした。
 その後、他愛のない話をぽつぽつとしつつ、気付かないうちにソファで眠りに落ちていた。
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