第2話
文字数 4,602文字
「あのさ、俺、二人に話があるんだけど」
同時に視線を向けた二人に、とりあえず座ろう、と視線で促してゆっくり縁側に足を投げ出して座る。体が軋む。これから真剣な話をするのに格好がつかないな、と情けない気持ちでお盆を置く大河の隣に、柴が腰を下ろした。紫苑は、並んで座る大河と柴を見守るように、背後に正座した。
柴と紫苑がグラスを静かに床に置き、大河を見やった。二人の視線を受けて、無意識にグラスを握る手に力が籠る。
少しの間、せわしなく鳴く蝉の声を聞いてから、大河は口を開いた。
「あの、じいちゃんを運んできてくれた時のことなんだけど……」
謝らなければと思っていたのに、いざとなったら迷いが生まれた。今さらとか思われないだろうか。あの時の、悲しげに揺れた柴の深紅の瞳が脳裏をちらつく。
大河は握っていたグラスを横に置いた。意を決した面持ちで顔を上げ、体を捻って赤い目で見据えてくる二人を振り向く。交互に二人を見つめたあと、勢いよく頭を下げた。
「じいちゃんを運んでくれてありがとう、感謝してる。それなのに俺、あの時酷いこと言った。ごめんなさい」
柴はゆっくりと瞬きを繰り返し、紫苑は目を丸くして大河を見つめている。
「じいちゃんを……殺したの、柴と紫苑じゃないのに、俺すげぇ責めた。馬鹿なこと言った。ほんとに、ごめん」
言うべきは礼だったのに、それを言わずに真っ先に責めた。同じ鬼だというだけで、ひとくくりにした。
男だから、高校生だから、ゆとり世代だからとひとくくりにされて不快な思いをしたことはあったのに。自分が不快に思ったことを忘れて、柴と紫苑に同じことをした。もちろん、便宜上そうする場合があるのは分かっている。けれど、あの時はそうするべきではなかった。
鬼の本性がどうであれ、柴と紫苑を白い鬼と同じ目で見てはいけなかったのに。
頭を下げたまま動かない大河に告げたのは、柴だ。
「お前が、謝る必要はない。顔を上げろ」
大河はゆっくりと頭を上げ、しかし俯いたまま「でも」と呟いた。
「お前から祖父を奪ったのは、鬼だ。私たちもまた、鬼だ。憎まれて、当然だ」
大河は目を見開いて、勢いよく顔を上げた。同じ鬼だから、当然――。
「柴、それは違う」
柴を見据えたまま、大河は小さく首を振った。
「同じだから憎まれて当たり前なんて、そんなことない。柴と紫苑は、あいつとは違う。あいつはじいちゃんを殺した、じいちゃんを蹴って物みたいに扱った。けど二人は違うだろ、綺麗にしてここまで運んでくれた。あいつと同じじゃ……っ」
まくしたてるように言いかけて、大河ははっと言葉を飲んだ。眉根を寄せ、両手を握り締めて俯く。
「俺が、偉そうに言うことじゃないよな……ごめん。ほんとに、ごめん」
お前ら鬼が殺した、と言ったのは、紛れもなく自分なのに。容易に書き換えや消去できるメッセージやメールとは違う。一度口にした言葉は、どれだけ後悔しても、どんな言い訳をしても、もう取り消すことはできない。
肩を竦め、じっと俯く大河をしばらく見つめていた柴が、沈黙を破った。
「その気持ちだけで、十分だ。もう、自分を責めるな――大河」
初めて呼ばれた名前に、大河は弾かれたように顔を上げた。黒に近い深紅の目が、朝日に照らされて透明感を増し、真っ直ぐに見据えている。
「だが」
柴はふいと顔を逸らし、どこか遠くを見るような眼差しで前を向いた。
「私たちが鬼であるという事実は、変わらぬ。奴と同じ鬼であり、友であることは、何も変わらぬ」
真っ直ぐな瞳とは裏腹に、その声はどこか憂いを帯びていて、寂しそうだった。
「……あの白い鬼って、隗?」
もしかしてと思った。すまないと謝罪したその理由と、こちらに合流した理由。
「ああ」
目を伏せて頷いた柴に、大河が首を傾げた。
「じゃあ、あの時俺に謝ったのって、それが理由?」
瞼をゆっくりと持ち上げ、柴は間を開けてもう一度、ああと低く答えた。
驚かなかったと言えば嘘になる。影綱の日記には、隗は柴たちを裏切ったと書かれてあった。
大戦時、柴の仲間も隗に殺されただろう。それにも関わらず、裏切り者を未だ友だと言い、その裏切り者が犯した罪に対して謝罪をする。柴と隗がそれだけ親しかった証拠だ。柴は、隗を止めたいのかもしれない。
大河は伏せ目がちに視線を落とした。
大河にとって隗は影正を殺害した宿敵で、柴にとっては友人だ。柴は、大河と隗の間で板挟み状態にある。
「大河」
不意に呼ばれた名に、大河は視線を上げた。深紅の瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。
「お前が、奴を友だと言う私が疎ましいと思うのなら、私は、今すぐ去ろう」
「え……?」
何故そんなことを言うのか一瞬分からなかった。身内を殺害した犯人を、それでも友人だと言う者を人は認められない。そんな風に思ったのだろうか。
大河は笑みを浮かべて迷うことなく首を横に振った。
「疎ましいなんて、そんなこと思ってないよ。俺は……俺にとって、隗は確かに許せない奴だけど、柴の気持ちを否定する気にはなれない。だって友達だったんだし。むしろ、すごいなって思う」
「……密偵のことか」
時代がかった言い回しに、大河は肩を震わせた。
「そう。昨日の帰り、陽くんと言ってたんだ。心変わりしてたらいいねって。でももしそうじゃなかったら、裏切られたあと、俺はその人を友達だって、仲間だって言える自信がない。じいちゃんを、殺した仲間だし……。柴はさ、なんで今でも隗を友達だって言えるの?」
不躾かなと思いつつも尋ねると、柴はさして気に止めない様子で答えた。
「確かに、奴は我らを裏切った。私の配下の者たちも、大勢殺された。しかし、奴はあれで情に厚い男だ。何か、捨て置けぬ理由があったのだろう」
影綱の日記にも、その理由は記されていなかった。
「その理由って、柴と紫苑も知らないの?」
ああ、と二人は頷いた。
「そうなんだ……」
隗に何があったのだろう。同族を裏切り、人を虐殺してまで許せなかった何か。蘇生され、なおも人を恨み、晴らそうとする理由。また内通者も、同じように理由があるのなら、それはどんな理由なのか。
大河は静かに息をついた。
けれど、どんな理由があったにせよ、やっぱり大切な人を殺されていい理由にはならない。
そう改めて思って気付いた。何故こういつも気付くのが遅いのだろう。
「柴は、俺といて平気なの?」
質問の意味が伝わらなかったのか、柴が首を傾げた。
「友達を許せないって言ってる俺と一緒にいて、平気?」
憎まれて当然だと言っていたが、それでもこうはっきり宣言されると複雑だと思うのだが。そんな大河の心配をよそに、柴はすんなり頷いた。
「お前が私の気持ちを否定する気がないように、私も、お前の気持ちを否定する気はない。むしろ、奴はそれだけの罪を犯した。当然の報いだ」
なんだか、冷たいのか優しいのかよく分からない。割り切るべきところをきちんと割り切った上で、隗のことを理解し心配している。そんな感じだろうか。鬼ゆえの潔さなのか、それとも柴の性格の問題なのか。
もし内通者が心変わりをしていなかったとしても、柴のように考えられるだろうか。これまでに、内通者がいたら止めたいと、止めなければと思ったことはある。けれどそれは、これ以上罪を重ねさせないように、悲しむ人が増えないようにという気持ちからだった。裏切られた時、柴のようにその人の罪を受け入れた上で、友人として、仲間としてその人を止めたいと、そんな風に思えるだろうか。
やっぱり、自信がない。
床に目を落とし沈黙した大河を眺めていた柴が、おもむろに口を開いた。
「すまなかった」
「……え?」
唐突な謝罪に反応が遅れた。大河は顔を上げて首を傾げ、きょとんとした顔で見上げる。柴が、自分の右肩を指差した。
「紫苑に、聞いた。お前を襲ったと」
「ああ、あれ」
「傷跡が残っていた。すまない」
風呂場で見られていたらしい。牙の治癒は、椿や右近ほど完治はしてくれず、肩の前後に二つずつ丸い傷跡が残ってしまっている。
「大丈夫だよ、このくらい。なんてことない、気にしなくていいよ」
軽く肩を叩いておどけてみせると、柴が一度瞬きをしてから告げた。
「私たちも、どうということはない。気にするな」
何の話だろう、と逡巡する大河に、紫苑が呆れた声で口を挟んだ。
「お前が私たちを責めたという話だ」
「あっ、そうだごめん。俺が話し逸らしたんだ」
まったく、と息をつく紫苑にへらっと笑ってごまかす。そういえば昨日も紺野に指摘を受けたばかりだ。
えーと、と大河は脳みそを回転させる。責めたことを謝る自分に対して、柴は噛み付いたことを謝ってきた。つまり、お互い様だと思えと、そう言いたいのだろうか。
大河は自分を見つめる柴をじっと見つめ返して、微笑んだ。
「ありがとう、柴」
こくりと頷いた柴を確認して紫苑へ視線を向けると、無言のまま小さく頷かれた。
「ありがとう、紫苑」
柴も紫苑も、もういいのだと言うのなら受け入れるべきだ。もし柴が噛み付いたことを何度も謝ってきたら自分だって困る。あとは、自分の中で反省すればいい。
大河は前を向き、残りの麦茶を飲み干してから安堵の息を吐いた。肩の荷が下りた気がする。と、もう一つ言い忘れていたことを思い出し、大河は再び上半身を捻って二人を見た。
「あ、それと、改めて。何度も助けてくれて、ありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げる。
「私からも、一ついいか」
「うん?」
頭を上げると、目が合った。
「何故、戻ってきた」
「え……」
その理由は、宗史と晴には言ったけれど、寮の皆には話していない。誰からも聞かれなかったし、わざわざ自分から話すことでもないと思って言わなかったのだが、まさか柴から聞かれるとは。
大河は前を向き直り、空になったグラスに視線を落とした。
「じいちゃんが、殺されなきゃいけなかった理由を知るため」
「……そうか」
静かな声色で、しかしはっきりと告げた大河に、柴はそう一言だけ返して前を向き直った。その一言がやけに重苦しく聞こえて、大河は口をつぐんだ。
ゆっくりと麦茶に口を付ける柴の背中を、紫苑が目を細めて見つめ、やがて逸らした。
大河は柴の横顔を盗み見る。戻ってきた、と聞いたということは、山口へ帰ったあの日も見ていたのだ。鬼の恐ろしさを知り、祖父を殺害され、危険だと分かっているにも関わらず、陰陽術を扱えなかった奴が何故わざわざ戻ってきたのかと疑問に思って当然だ。
無謀だとか思われてるのかな、と卑屈なことを考えながら、グラスを置くために腰を捻る。とたん、腹筋が悲鳴を上げた。話に集中していたせいで忘れていた。
「い……っ」
唇を噛んで硬直した大河に柴が心配そうな顔を向け、紫苑が遠慮のない呆れた溜め息をついた。
「情けない。あのような時のために鍛錬を積んでいたのではないのか」
「そ、そうなんだけど……」
始めたばっかだし、と言い訳はできない。割り切るにはいいかもしれないが、それに甘えるのは違う気がする。
「精進します……」
「良い心掛けだ」
両手でグラスを持って尊大に言い放った紫苑に、ありがとうございます、と礼を言いながら小さな矛盾に気付いた。寮を監視していたことに対しての疑問は会合で宗一郎たちが聞くだろうから、小さな疑問を解決しておこう。
同時に視線を向けた二人に、とりあえず座ろう、と視線で促してゆっくり縁側に足を投げ出して座る。体が軋む。これから真剣な話をするのに格好がつかないな、と情けない気持ちでお盆を置く大河の隣に、柴が腰を下ろした。紫苑は、並んで座る大河と柴を見守るように、背後に正座した。
柴と紫苑がグラスを静かに床に置き、大河を見やった。二人の視線を受けて、無意識にグラスを握る手に力が籠る。
少しの間、せわしなく鳴く蝉の声を聞いてから、大河は口を開いた。
「あの、じいちゃんを運んできてくれた時のことなんだけど……」
謝らなければと思っていたのに、いざとなったら迷いが生まれた。今さらとか思われないだろうか。あの時の、悲しげに揺れた柴の深紅の瞳が脳裏をちらつく。
大河は握っていたグラスを横に置いた。意を決した面持ちで顔を上げ、体を捻って赤い目で見据えてくる二人を振り向く。交互に二人を見つめたあと、勢いよく頭を下げた。
「じいちゃんを運んでくれてありがとう、感謝してる。それなのに俺、あの時酷いこと言った。ごめんなさい」
柴はゆっくりと瞬きを繰り返し、紫苑は目を丸くして大河を見つめている。
「じいちゃんを……殺したの、柴と紫苑じゃないのに、俺すげぇ責めた。馬鹿なこと言った。ほんとに、ごめん」
言うべきは礼だったのに、それを言わずに真っ先に責めた。同じ鬼だというだけで、ひとくくりにした。
男だから、高校生だから、ゆとり世代だからとひとくくりにされて不快な思いをしたことはあったのに。自分が不快に思ったことを忘れて、柴と紫苑に同じことをした。もちろん、便宜上そうする場合があるのは分かっている。けれど、あの時はそうするべきではなかった。
鬼の本性がどうであれ、柴と紫苑を白い鬼と同じ目で見てはいけなかったのに。
頭を下げたまま動かない大河に告げたのは、柴だ。
「お前が、謝る必要はない。顔を上げろ」
大河はゆっくりと頭を上げ、しかし俯いたまま「でも」と呟いた。
「お前から祖父を奪ったのは、鬼だ。私たちもまた、鬼だ。憎まれて、当然だ」
大河は目を見開いて、勢いよく顔を上げた。同じ鬼だから、当然――。
「柴、それは違う」
柴を見据えたまま、大河は小さく首を振った。
「同じだから憎まれて当たり前なんて、そんなことない。柴と紫苑は、あいつとは違う。あいつはじいちゃんを殺した、じいちゃんを蹴って物みたいに扱った。けど二人は違うだろ、綺麗にしてここまで運んでくれた。あいつと同じじゃ……っ」
まくしたてるように言いかけて、大河ははっと言葉を飲んだ。眉根を寄せ、両手を握り締めて俯く。
「俺が、偉そうに言うことじゃないよな……ごめん。ほんとに、ごめん」
お前ら鬼が殺した、と言ったのは、紛れもなく自分なのに。容易に書き換えや消去できるメッセージやメールとは違う。一度口にした言葉は、どれだけ後悔しても、どんな言い訳をしても、もう取り消すことはできない。
肩を竦め、じっと俯く大河をしばらく見つめていた柴が、沈黙を破った。
「その気持ちだけで、十分だ。もう、自分を責めるな――大河」
初めて呼ばれた名前に、大河は弾かれたように顔を上げた。黒に近い深紅の目が、朝日に照らされて透明感を増し、真っ直ぐに見据えている。
「だが」
柴はふいと顔を逸らし、どこか遠くを見るような眼差しで前を向いた。
「私たちが鬼であるという事実は、変わらぬ。奴と同じ鬼であり、友であることは、何も変わらぬ」
真っ直ぐな瞳とは裏腹に、その声はどこか憂いを帯びていて、寂しそうだった。
「……あの白い鬼って、隗?」
もしかしてと思った。すまないと謝罪したその理由と、こちらに合流した理由。
「ああ」
目を伏せて頷いた柴に、大河が首を傾げた。
「じゃあ、あの時俺に謝ったのって、それが理由?」
瞼をゆっくりと持ち上げ、柴は間を開けてもう一度、ああと低く答えた。
驚かなかったと言えば嘘になる。影綱の日記には、隗は柴たちを裏切ったと書かれてあった。
大戦時、柴の仲間も隗に殺されただろう。それにも関わらず、裏切り者を未だ友だと言い、その裏切り者が犯した罪に対して謝罪をする。柴と隗がそれだけ親しかった証拠だ。柴は、隗を止めたいのかもしれない。
大河は伏せ目がちに視線を落とした。
大河にとって隗は影正を殺害した宿敵で、柴にとっては友人だ。柴は、大河と隗の間で板挟み状態にある。
「大河」
不意に呼ばれた名に、大河は視線を上げた。深紅の瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。
「お前が、奴を友だと言う私が疎ましいと思うのなら、私は、今すぐ去ろう」
「え……?」
何故そんなことを言うのか一瞬分からなかった。身内を殺害した犯人を、それでも友人だと言う者を人は認められない。そんな風に思ったのだろうか。
大河は笑みを浮かべて迷うことなく首を横に振った。
「疎ましいなんて、そんなこと思ってないよ。俺は……俺にとって、隗は確かに許せない奴だけど、柴の気持ちを否定する気にはなれない。だって友達だったんだし。むしろ、すごいなって思う」
「……密偵のことか」
時代がかった言い回しに、大河は肩を震わせた。
「そう。昨日の帰り、陽くんと言ってたんだ。心変わりしてたらいいねって。でももしそうじゃなかったら、裏切られたあと、俺はその人を友達だって、仲間だって言える自信がない。じいちゃんを、殺した仲間だし……。柴はさ、なんで今でも隗を友達だって言えるの?」
不躾かなと思いつつも尋ねると、柴はさして気に止めない様子で答えた。
「確かに、奴は我らを裏切った。私の配下の者たちも、大勢殺された。しかし、奴はあれで情に厚い男だ。何か、捨て置けぬ理由があったのだろう」
影綱の日記にも、その理由は記されていなかった。
「その理由って、柴と紫苑も知らないの?」
ああ、と二人は頷いた。
「そうなんだ……」
隗に何があったのだろう。同族を裏切り、人を虐殺してまで許せなかった何か。蘇生され、なおも人を恨み、晴らそうとする理由。また内通者も、同じように理由があるのなら、それはどんな理由なのか。
大河は静かに息をついた。
けれど、どんな理由があったにせよ、やっぱり大切な人を殺されていい理由にはならない。
そう改めて思って気付いた。何故こういつも気付くのが遅いのだろう。
「柴は、俺といて平気なの?」
質問の意味が伝わらなかったのか、柴が首を傾げた。
「友達を許せないって言ってる俺と一緒にいて、平気?」
憎まれて当然だと言っていたが、それでもこうはっきり宣言されると複雑だと思うのだが。そんな大河の心配をよそに、柴はすんなり頷いた。
「お前が私の気持ちを否定する気がないように、私も、お前の気持ちを否定する気はない。むしろ、奴はそれだけの罪を犯した。当然の報いだ」
なんだか、冷たいのか優しいのかよく分からない。割り切るべきところをきちんと割り切った上で、隗のことを理解し心配している。そんな感じだろうか。鬼ゆえの潔さなのか、それとも柴の性格の問題なのか。
もし内通者が心変わりをしていなかったとしても、柴のように考えられるだろうか。これまでに、内通者がいたら止めたいと、止めなければと思ったことはある。けれどそれは、これ以上罪を重ねさせないように、悲しむ人が増えないようにという気持ちからだった。裏切られた時、柴のようにその人の罪を受け入れた上で、友人として、仲間としてその人を止めたいと、そんな風に思えるだろうか。
やっぱり、自信がない。
床に目を落とし沈黙した大河を眺めていた柴が、おもむろに口を開いた。
「すまなかった」
「……え?」
唐突な謝罪に反応が遅れた。大河は顔を上げて首を傾げ、きょとんとした顔で見上げる。柴が、自分の右肩を指差した。
「紫苑に、聞いた。お前を襲ったと」
「ああ、あれ」
「傷跡が残っていた。すまない」
風呂場で見られていたらしい。牙の治癒は、椿や右近ほど完治はしてくれず、肩の前後に二つずつ丸い傷跡が残ってしまっている。
「大丈夫だよ、このくらい。なんてことない、気にしなくていいよ」
軽く肩を叩いておどけてみせると、柴が一度瞬きをしてから告げた。
「私たちも、どうということはない。気にするな」
何の話だろう、と逡巡する大河に、紫苑が呆れた声で口を挟んだ。
「お前が私たちを責めたという話だ」
「あっ、そうだごめん。俺が話し逸らしたんだ」
まったく、と息をつく紫苑にへらっと笑ってごまかす。そういえば昨日も紺野に指摘を受けたばかりだ。
えーと、と大河は脳みそを回転させる。責めたことを謝る自分に対して、柴は噛み付いたことを謝ってきた。つまり、お互い様だと思えと、そう言いたいのだろうか。
大河は自分を見つめる柴をじっと見つめ返して、微笑んだ。
「ありがとう、柴」
こくりと頷いた柴を確認して紫苑へ視線を向けると、無言のまま小さく頷かれた。
「ありがとう、紫苑」
柴も紫苑も、もういいのだと言うのなら受け入れるべきだ。もし柴が噛み付いたことを何度も謝ってきたら自分だって困る。あとは、自分の中で反省すればいい。
大河は前を向き、残りの麦茶を飲み干してから安堵の息を吐いた。肩の荷が下りた気がする。と、もう一つ言い忘れていたことを思い出し、大河は再び上半身を捻って二人を見た。
「あ、それと、改めて。何度も助けてくれて、ありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げる。
「私からも、一ついいか」
「うん?」
頭を上げると、目が合った。
「何故、戻ってきた」
「え……」
その理由は、宗史と晴には言ったけれど、寮の皆には話していない。誰からも聞かれなかったし、わざわざ自分から話すことでもないと思って言わなかったのだが、まさか柴から聞かれるとは。
大河は前を向き直り、空になったグラスに視線を落とした。
「じいちゃんが、殺されなきゃいけなかった理由を知るため」
「……そうか」
静かな声色で、しかしはっきりと告げた大河に、柴はそう一言だけ返して前を向き直った。その一言がやけに重苦しく聞こえて、大河は口をつぐんだ。
ゆっくりと麦茶に口を付ける柴の背中を、紫苑が目を細めて見つめ、やがて逸らした。
大河は柴の横顔を盗み見る。戻ってきた、と聞いたということは、山口へ帰ったあの日も見ていたのだ。鬼の恐ろしさを知り、祖父を殺害され、危険だと分かっているにも関わらず、陰陽術を扱えなかった奴が何故わざわざ戻ってきたのかと疑問に思って当然だ。
無謀だとか思われてるのかな、と卑屈なことを考えながら、グラスを置くために腰を捻る。とたん、腹筋が悲鳴を上げた。話に集中していたせいで忘れていた。
「い……っ」
唇を噛んで硬直した大河に柴が心配そうな顔を向け、紫苑が遠慮のない呆れた溜め息をついた。
「情けない。あのような時のために鍛錬を積んでいたのではないのか」
「そ、そうなんだけど……」
始めたばっかだし、と言い訳はできない。割り切るにはいいかもしれないが、それに甘えるのは違う気がする。
「精進します……」
「良い心掛けだ」
両手でグラスを持って尊大に言い放った紫苑に、ありがとうございます、と礼を言いながら小さな矛盾に気付いた。寮を監視していたことに対しての疑問は会合で宗一郎たちが聞くだろうから、小さな疑問を解決しておこう。