第4話

文字数 4,980文字

 仕事のあと、会合があるためいつ帰って来られるか分からない。
 午後九時半頃。宿題を終わらせ、仕事の前に(さい)紫苑(しおん)に精気をと思い、(せい)に電話をして志季(しき)に来てもらった。それはよかったのだが、到着するなり縁側からリビング、階段、廊下を駆け抜ける足音を寮内に響き渡らせ、志季はノックもなしに部屋の扉を開けるなり叫んだ。扉が壊れなかったのは奇跡だ。
「てめぇこら大河! 俺が樹の馬鹿に言ったこと聞いてなかったのか!?」
 樹を馬鹿呼ばわりとは命知らずな。怒号と共に飛び込んできた志季を止めたのは、紫苑だ。
「貴様、柴主のお食事の時間を邪魔するとは何たる無礼」
「食事とか言うな!!」
「ちょっとぉ! 誰が馬鹿だって!?」
 大河と志季の鋭い突っ込みが重なり、さらに志季の悪態が聞こえたらしい、樹が乱入してもうカオスだった。元気で良いな、と呟いた柴の感覚はどうかしていると思う。
 その後、怜司(れいじ)たちによって樹が回収され、やっと静かになった部屋で柴と紫苑の食事、もとい精気の摂取が無事に終わったのはいいが、それまでも治癒中も、志季はずっと不機嫌だった。
「ごめんって、志季」
 肩に仄かな温もりを感じながら、大河は上目遣いでむすっとした志季を窺う。
「謝るくらいなら初めから言え」
「うん、ごめん」
「二度とすんな。次やったら燃やす」
 殺すではなく燃やすなのか。大河は苦笑した。
「それはやだなぁ」
「じゃあやるな」
「うん。……ありがと」
「よし、いいぞ」
 志季は嘆息し、傷口が塞がった肩を見て満足そうに笑った。
「あれ、完治してる。志季、苦手だって言ってなかった?」
「この程度なら問題ねぇ。けど酷い傷だとちょっとな。治癒って時間かかるから集中力続かねぇんだ。痛みを我慢するっつーなら一気にしてやれるけど」
「一気に治すこともできるの?」
「その代わりすっげぇ痛ぇと思うぞ。気絶すんじゃねぇかな。今度やってやろうか」
「いやいいです遠慮します」
 速攻で遠慮し、さてそろそろと揃ってリビングに下りると、怒りが収まらない樹が志季に噛み付いてまた大騒ぎだった。それは宗史(そうし)と晴が到着するまで続き、晴の「戻れ!」の一言で収められたが、なんだか精気を与えたあとより疲れた気がする。
 そして現在。
 大河たちは株式会社メディスプロが経営する「京都俳優育成所」へと向かっていた。
 依頼書によると、一カ月ほど前から依頼者の小田原優(おだわらゆう)の元に、中年男の幽霊が現れるらしい。場所は必ず職場。時間は大体午後十一時から午前一時頃。目撃者は小田原と、同じ職場で働く交際中の女性で、二人とも男の顔に見覚えはなく、また憑かれるような心当たりもないという。俗に言うポルターガイスト現象や体調不良なども一切ない。さらに、男は何をするでもなく、ただじっと扉の方を向いて佇んでいるだけらしい。宗一郎が「緊急性なし」と判断した理由だ。
 小田原は、京都俳優育成所の事務員として働きながら、役者としても所属しているそうだ。初めて目撃したのは、同じビルのスタジオで稽古に励んでいた時らしい。
 稽古中は、節電のため、明かりは巨大な姿見の前だけ点け、扉の方は薄暗いという状況だった。つい夢中になって、気が付けば午後十一時を少し過ぎていたが、あと少しだけ、と思ったその時だった。ふと人影のようなものが視界の端に映り、何気なく目をやると扉の前に透明な男が佇んでいた。小田原は驚いてそのまま動けず、震えながらただ男を見つめていた。時間はほんの数分。男は突然煙のように姿を消した。それからというもの、稽古をしていると必ず男は姿を現すのだそうだ。
「憑いてんのにスタジオだけに出るってことは、役者だったのか? 昔所属してたとか」
 助手席で晴が言った。今日は仕事終わりに土御門家へ行くため、宗史が車を出したのだ。
「その可能性もあるな。けど、何故彼に憑いたのか謎だ」
「役者だらけなのに、あえて依頼者を選んだってことだからな。しかも一カ月前からいきなり」
 わけ分かんねぇ、と晴がぼやいた。
「しかし、人に憑いているのに霊障がないというのはな……」
 宗史がハンドルを切りながらぼやいた。
「扉の方を向いてじっとしてるだけっていうのも謎だよね。その人の目的って何なのかなぁ」
 大河はボディバッグを膝に抱えて低く唸った。
「さあな。実際会って意思疎通を図るしかない」
「だよね……」
 大河は相槌を打って車窓へ顔を向けた。
 霊障をもたらさない浮遊霊。ピアノに憑いていたあの女性もそうだった。特にこれと言って霊障という霊障はなかったけれど、ピアノを購入してからという条件があったため、ある程度の推測はできた。けれど今回の場合、目撃者二人に心当たりがないとなると、何の手がかりもない。依頼者からもっと詳しく聞く必要がある。
 彼は、どんな未練があってこの世に留まっているのか。何を訴えたいのだろう。
「あ、そういえば大河」
 不意に晴がルームミラー越しに視線を送ってきた。
「夕飯カレーだったんだろ。どうだったよ、柴と紫苑の反応は」
「あー……」
 大河は晴の期待を察して苦笑いをした。
 本日の夕飯は、カレーとポテトサラダと野菜たっぷりのコンソメスープだった。約束通り香苗(かなえ)が作ってくれたポテトサラダは、弘貴(ひろき)春平(しゅんぺい)が言った通り、何を入れればこんな味になるのだろうと思うくらいに美味しかった。「ずっと見てたんだけど、やっぱり特別な物は入れてないのよね。何が違うのかしら、分量?」と困惑する(はな)に対して、「愛情の違いじゃないの」と樹が茶々を入れた。その後、華と夏也(かや)からカレーのおかわりを無視され続け、しぶしぶ自分でよそっていた。余計なこと言うから、と樹以外の全員が心で呟いたことは言うまでもない。
 一方、カレー初体験の柴と紫苑はというと、運ばれてきたカレーをじっと、ただひたすら無言でじっと見つめていた。食事中は禁句の単語は口にしなかったけれど、その態度が物語っていた。これは食べ物か? と。大河たちが口にしたことを確認してから、二人は恐る恐る口に運んだ。まずいとは言わなかったが、初めて感じるスパイスの辛さと、やはり見た目が受け入れられないらしく、おかわりはなかった。その代わりに、ポテトサラダにはよく手が伸びていた。
「やっぱカレーってそういう風に見えるんだな」
「色が駄目なのか?」
「あとスパイス。すごい辛そうにしてた」
「あの時代の日本にはない辛さだろうからな」
「あ、そういえば、今日の昼飯ラーメンだったんだけど、チルドは結構平気みたい。醤油味で野菜てんこ盛りだったからかな」
 華たちいわく、病院と買い出しで帰りが遅くなったため、念のため焼きそば麺を確保し、試しにとチルドのラーメンにしたのだそうだ。ちなみに餃子は、以前大量に作って冷凍しておいたらしい。
 そこから、何味のラーメンが好きかだの、市内で美味いラーメン屋はどこかだの、これから仕事へ向かうとは思えない話題で盛り上がった。
 小田原が指定してきた俳優育成所は、京都でメディスプロが起業された際に使われていた場所をそのまま使用しているらしく、五階建て雑居ビルの二階から四階に入っていた。二階は事務所、三階、四階はレッスンスタジオになっている。ちなみに五階は空き店舗だ。
 近くの駐車場に車を停め、宗史を先頭にコンクリートむき出しの階段を上る。等間隔に電灯が点いていて、危険というほどではないが明るくもない。
 「(株)メディスプロ 京都俳優育成所」と印字されたシートが貼り付けてある観音開きのガラス扉は、オートロックらしい。大手セキュリティー会社のステッカーと、壁に蓋付きのオートロックパネルが設置してある。しかし、マンションのようにインターホン付きではないので、宗史は扉を軽くノックした。
「こんばんは」
 うっすらと明かりがもれる扉の向こう側で、ちらりと人影が動いた。
「玉木社長からのご依頼で参りました。賀茂家の者ですが」
 名乗る宗史の声を聞きながら、大河は何気なく扉の貼り紙に目を通した。来月の頭に移転する挨拶文に、移転先の住所と簡略化した地図が書かれてある。確かにここは、エレベーターすらなく警備員もいない。大手芸能事務所が経営しているとは思えないほどの古いビルだ。思い入れがあって手放せなかったといったところだろうか。
「へぇ、移転すんだな」
「みたい」
 後ろから覗き込んだ晴と小声でそんな言葉を交わしていると、ガラスの向こう側から男の影が近付いて扉が開いた。鍵がかけられていなかったらしい。冷えた空気と共に顔を覗かせたのは二十代半ばくらいの男。依頼書には小田原は二十六歳とあったから、本人だろう。爽やかな整った顔をしていて、白のシャツに黒のパンツとシンプルな服装がよく似合っている。
 しかし彼は、その容姿には似合わないおどおどした顔でついと視線を上げ、目を丸くした。そして宗史、大河、晴へと順に目を移し、間の抜けた声で言った。
「……どちらさまでしょう?」
 さっきの宗史の声が聞こえていなかったのだろうか。それとも人違いか。宗史がにっこり笑ってもう一度、丁寧に確認をする。
「玉木社長からのご依頼で参りました。賀茂家の者です。除霊のご依頼をされた、小田原様ですよね?」
 男ははっと我に返って見るからに狼狽した。
「あっはい、そうです。小田原です。すみません、まさかこんなにお若いとは思わなくて。どうぞお入りください」
 小田原は早口で言いながらあたふたと大きく扉を開け、大河たちを招き入れる。こんな状況だから仕方がないとは思うが、おどおどした顔といい、小田原の言動に一抹の不安を覚えながら大河は宗史の後に続いた。
 入口は事務所の右端に位置する。入って目の前は長いカウンター、その奥には向かい合わせに設置されたデスクが十台と、右側の壁にはスチール製の棚。正面の壁は一面が嵌め殺しの窓になっており、そこには窓を塞がないように背の低い棚が置かれている。そして左手奥には、いつもはパーテーションで仕切られているのだろう。今は開けられていて、応接セットと、その後ろには給湯室が見える。照明は応接セットの方だけが点けられている状態で、入口の方は少し薄暗い。また、移転の準備は着々と進んでいるらしい。至る所に段ボールが積み上げられ、雑然とした雰囲気だ。
 応接セットのソファの前で、不安顔でこちらに向いて立っている女性は、交際中の女性だろう。二十代前半くらいに見える。茶色く染めた髪を肩で切り揃え、袖がひらひらと揺れるベージュのトップスに、ふんわりと広がる紺色のスカート、ヒールの低いパンプス、首には細いネックレスを着けている。化粧も自然で、可愛らしい上品なお嬢さんといった雰囲気だ。
「どうぞ、こちらへ」
 応接セットの方へ手を差し出して促され、小田原の後に続く。入口すぐの左手の壁際には、フリーペーパーなどを入れるラックが三つと掲示板が設置され、ポスターがずらりと貼られている。オーディション募集要項のチラシや、所属俳優が出演している映画やドラマのポスターのようだ。ぱっと見て知っている役者はいない。
 でもいつかこの中から有名俳優が出たりするんだろうな。そんなことを考えていると、小田原が足を止めて振り向いた。
「えっと、ご紹介します。沼田沙織(ぬまたさおり)さんです。ここで事務のバイトをしている人で……ぼ、僕の、彼女、です……」
 小田原は照れ臭そうに顔を緩めて俯いた。付き合いたてなのだろうか、紹介の仕方がやけに初々しい。小首を傾げる大河とは逆に、晴の目は白けている。唯一平常心なのは宗史のみだ。
 沙織は不安な顔をしたまま、ゆったりと頭を下げた。
「沼田沙織です。このたびはご足労いただき、ありがとうございます」
 ごそくろう、と大河は口の中で反復した。細く可愛らしい声は少し弱々しいけれど、小田原と違って態度は落ち着いている。
「とんでもありません。さっそくですが、依頼内容を詳しくお伺いしてもよろしいですか」
 冷静な態度に、小田原はまた我に返って落ち着きなくソファに向けて手を差し出した。
「あっ、はい。どうぞお座りください。そうだ、何か飲まれますか」
「いえ、お気遣いなく」
 さらりと断りを入れて手前側のソファに腰を下ろす宗史に、大河と晴が続く。大河を真ん中に三人が落ち着き、奥のソファに小田原と沙織が腰を下ろした。
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