第6話

文字数 5,017文字

 幼い頃から陰陽術を学んできたとはいえ、まだその全てを行使できるわけでも、教わっているわけでもない。相性の良し悪し、霊力量、成長速度を考慮し、段階を踏んで宗一郎から教わる。ゆえに、全ては宗一郎の判断に委ねられており、いくらこちらが催促しようとも無駄なのである。できることと言えば、普段の訓練を怠らず、堅実かつ地道に、慢心することなくひたすら成長を続けるのみだ。
 紺野と北原が腐臭にまみれている頃、宗史(そうし)は自宅の庭で霊刀を構えていた。
 蝉の声や子供たちの笑い声、どこからか響く風鈴の音。本来ならば、夏を象徴する音を聞きながら、暑さに愚痴をこぼしつつ解放感に胸を踊らせる風景である。
 しかし現在、賀茂家の庭には異様な緊張感が漂い、そして非現実的な光景があった。
 左足を大きく下げ、腰を落として半身に構えた宗史が左脇に握る霊刀の刀身には、まるで蛇のように鍔から切っ先に向かって静かに水が渦巻いている。柄を握り、静かに呼吸を整える。庭いっぱいに距離を取った視線の先には、無数の水塊を携えた椿(つばき)
「宗史様、よろしいですか」
「ああ」
「では、いきます」
 不意に蝉の鳴き声が止んだ。
 椿は涼やかな声で宣言すると、両腕を真横に広げ、勢いよく前に向かって垂直に振った。とたん、浮かんでいた水塊が一斉に宗史に襲いかかる。
 宗史は柄を握る手に力を込め、息を詰めた。襲いかかる水塊を注視したまま全ての位置を視認し、素早く霊刀を振った。横一閃。刀身に渦巻いていた水が弾かれるようにして広範囲に飛散し、パンッ! と一度だけ甲高い音を響かせて、椿が放った水の塊と寸分違わず激しく衝突した。細かく砕け散った水塊は水煙となり、庭全体に広がって、霧のように真っ白に視界を覆う。
 しばらく霊刀を振り上げたまま耳を澄ます。やがて我に返ったように鳴きだした蝉の声に、宗史は息を吐き、霊刀を下ろして消した。
「宗史様」
 視界を覆っていた水煙が生き物のように頭上へと移動を始め、視界が戻る。向こう側から、椿が嬉しそうに微笑みを浮かべて歩み寄った。
「お怪我はありませんか」
「ああ、大丈夫だ」
 水煙は庭木の方へと移動し、さあっと音を立てて霧雨のように降り注ぐ。庭木を跨ぐように、七色の虹が架かった。
「お見事です」
「ありがとう。あの数も大分慣れてきたな」
「さすがですね」
「でも、もう少し速度を上げられるか」
 主の要求に、椿が困ったように眉尻を下げた。
「可能ですが……しかし、危険では」
「どの程度まで対応できるか知っておきたいんだよ」
「また、夏美様に叱られますよ?」
「……それを言われると弱いな」
 バツが悪そうに眉を寄せた宗史に、椿が小さく笑った。
 同じ訓練を始めてどのくらいになるだろう。少しずつ水塊の数を増やし、速度を上げ、やっとここまで上達した。初めのうちは、体への直撃は避けたもののいくつも捉え損ね、庭木の幹や塀に罅を入れたりと大参事だった。夏美に椿共々しこたま叱られたことは言うまでもない。
「夏美の機嫌を損ねるなよ、宗史。小言を言われるのは私だ」
 いつもなら書斎に籠っている時間だ。珍しく縁側から訓練の様子を窺っていた宗一郎が、腕を交互に袖に入れたまま腰を上げた。沓脱石(くつぬぎいし)に置いていた草履を履き、庭に下りてくる。
 さすがの陰陽師家当主も妻には頭が上がらないのか。弱味を見せた宗一郎に、宗史と椿が苦笑を漏らした。
 宗一郎が宗史の目の前で足を止め、椿が遠慮するように一歩後ろに下がった。
「宗史、新しい術を教えよう」
 さらりと告げられて宗史は一瞬目を瞠り、そして表情を引き締めた。思ってもみなかった言明だ。子供の頃から何度も同じ台詞を聞いてきたが、慣れることはない。高揚し、心躍る瞬間。
「よろしくお願いします」
 期待が籠った、しかし挑むように見据えた宗史に、宗一郎がわずかに口角を上げた。
「九字結界の応用だ。よく見ておきなさい」
「はい」
 九字結界の応用。樹同様、文献はあらかた読み漁ってきたが、そんな術はあっただろうか。
 宗史と椿が見守る中、宗一郎は体を横に向けて右手の人差指と中指を揃えた。すぐさま指先に黄金色の光が灯る。
青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)勾陳(こうちん)帝台(てんたい)
 真言を唱えながら、宙に五芒星を描いていく。
文王(ぶんおう)三台(さんたい)玉女(ぎょくにょ)
 周囲を囲むように円を描くと、見慣れた五芒星結界が完成した。やり方は破邪の法と同じか。
「このまま結界として使えなくはないが、印を省いているため霊力を注いでも強度はかなり落ちる。お勧めはしない。本来の使い方は、こっちだ」
 そう言うと、宗一郎は結界を伴って指先を地面に向けた。導かれるように宗史と椿も目を落とす。
触地印(そくちいん)
 一言告げると結界は指先から離れ、すっと地面に吸い込まれるようにして消えた。と思った瞬間、今度は逆に地面から浮き出るように、一瞬にして黄金色の五芒星が現れた。
「このまま霊力を注げば、大きさが変えられる」
 宗一郎の指先から、光の筋のような霊力が結界へと注がれ、比例してゆっくりと大きくなっていく。一メートルほどだろうか、霊力がふっと途切れた。そして、
(けつ)
 宗一郎が一言告げると、五芒星を囲っていた円が薄い壁のようにせり上がって緩やかに湾曲し、ドーム型を成した。
「これは……」
 平面型の九字結界を地面に刻み、立体型の結界へと形成し直す術、というわけか。
 結界の基本は九字結界。大河が初めに会得した結界だ。あとは霊符を使ったものや、地面に直接五芒星を描き、真言によって形成するものがある。向小島で御魂塚の結界を補強するために描いた五芒星もそれだ。
 しかしこれなら、大河(たいが)の初陣の時のように、デスクなどの備品が多いオフィスでも結界が使えるようになる。触手を扱う悪鬼を閉じ込めて一気に調伏が可能だ。触手で霊符を防がれることもないし、擦って消えることもない。しかも大きさは自由に変えられ、印を結ぶ必要がないため、片手が空く。霊符も必要ない。
 驚愕の表情を浮かべていた宗史の眉根が寄り、腑に落ちないと言いたげな面持ちになった。
「……便利ですね」
 こんな便利な術があるなら何でもっと早く教えてくれなかった、と嫌味を込めてぼそりと呟くと、宗一郎は楽しそうな笑みを浮かべた。何も楽しくない。
 宗一郎はその意を察しているのかいないのか、悪びれもせず説明を続けた。
「お前も知っているように、九字結界は真言と印によってその効力を発揮する。だがこの場合、印を省いた代わりに地天、つまり大地の力を借りることになる。触地印の謂われは知っているな?」
「はい」
 触地印は、修行中に悪魔の妨害を受けた釈迦が大地に指先で触れ、大地の神を出現させ追い払ったことからそう名付けられた。別名、降魔印(こうまいん)とも言う。
「難しいのは、五芒星を描いた後だ。これまでのような真言ではなく、いわゆる単語を媒体にしてこちらの意思を伝えなければならない。かなりの集中力が必要だ。ただまあ、無真言結界(むしんごんけっかい)が行使できるお前なら、そう時間はかからないだろう」
 無真言結界は、現在樹が四苦八苦している上級の術だ。要領は独鈷杵(どっこしょ)と似ているが、自らの意思で己の霊力を具現化する霊刀と、真言を唱えず神へ意思を伝えて力を借りる無真言結界は難易度が格段に違う。かなり苦労した。
 しかしそう考えると、レベルは無真言結界の方が上なのではないのか。それなのに何故今頃教える気になったのだろう。しかも文献にはなかったはずだ。
 宗史が訝しげな視線を投げると、宗一郎は懐を探った。
「本題はここからだ」
「本題?」
「今の術は、これから見せる術の基礎になる。そのため、これまで教えなかった」
 そう前置きをし、難なく見せ付けられた術に、宗史と椿は瞠目した。うるさく鳴いていた蝉が、ジジッと短く鳴いて葉の隙間から素早く飛び去った。
 四十度近い気温の中、冷たい汗が頬を伝う。
 一瞬だった。
 たった二言により発動した術は、想像もしなかった現象を引き起こした。
「……まさか、この術……」
 驚きを持って視線を向けた宗史に、宗一郎は頷いた。
「この術は、文献には一切記述されていない。両家代々、当主から次期当主へ一子相伝、口伝として継承される秘術だ。理由は、分かるな?」
 静かに問われ、宗史は息を飲んで頷いた。
「しかし今回は別だ。この術を、お前と(せい)はもちろん、(はる)や寮の者全員に会得してもらう」
 反論などできるはずがなかった。この状況でその判断はもっともだ。
「ただし、時期が来るまで他言無用を厳命する。その時までに会得しておくように。いいな」
 言われなくても、こんな術をおいそれと他言はできない。汗を拭いながら、はい、と小さく答えると、宗一郎はゆっくりと目を伏せ、腕を袖に交互に入れた。
「今頃、晴も明から指導を受けているだろう。ああそれと」
 ふと思い出したように瞼を上げ、にっこりと笑みを浮かべて宗史を見やった。
「触地印の時は、きちんと地面に触れるように。それが本来の条件だ」
 宗史は能面のような顔で宗一郎を見据えた。何だそれは。自分は触れもせず行使したくせに。言外に指摘する視線を受けた宗一郎は、飄々とのたまった。
「手と着物が汚れるだろう。それが嫌でな、あれは私のオリジナルだ」
 潔癖症でもあるまいし何を、と思う反面、条件を捻じ曲げても術を発動させるその才能と霊力量に、嫉妬心が頭をもたげる。
 宗史は短く息をついた。
「分かりました」
 例え宗一郎と同じように会得できたとしても、寮の皆を指導するには基本をきちんと身に付けておかなければならない。基本をしっかり学ぶことは大切だし、そこからどうアレンジするかは自由だ。かくいう宗史が訓練中の術もオリジナルだ。まだまだ人に言えるような完成度ではないが。
「もう一つ」
「はい」
 宗一郎は酷く残念そうに息を吐いた。
「大河の報告書は確認したか?」
 う、と宗史は声を詰まらせた。昨日、帰宅してから確認した仕事の報告書は、詳細に書かれていたのはいいが文章にまとまりがない上に一文が長く、非常に読み辛かった。詳細にと言ったせいだろうが、まさかあんな風になるとは。読みながら思わず、限度があるだろ、と突っ込んでしまった。現国の成績を憂いてやらずにはいられない。
「し、しました……」
「晴や弘貴も大概だが、大河はそれ以上だ。茂さんに一度目を通してもらうように連絡しておいた。まあ、最後の一文は良かったがな」
 あいつは普段から本を読まないのか、とぼやきながら部屋へと引っ込む宗一郎の背中を見送り、宗史は深々と溜め息をついた。
「あいつはほんとに……」
 ぼそりと呟いた宗史に、椿が苦笑した。
「茂様に任せられたのでしたら、心配いりませんよ」
 主の心労を気遣う椿に、微かに笑みがこぼれる。
「そうだな」
 宗史は放ったらかしの結界に視線を落とした。
 過信するわけではないが、宗一郎の言う通り、あの結界を会得するのにそう時間はかからないだろう。問題は、あの秘術だ。会得することではなく、むしろ他言無用という指示。
 どう考えても、内通者がいる可能性を考慮した上での判断だろう。確かに、あんな術を敵側に知られると厄介だ。それに、今このタイミングで自分に教えたということはつまり、その時が近いということ。内通者がいるのか、それともこちらの杞憂なのかが判明する時が、すぐそこまで迫っている。
 引いては、あの推理が間違っていないと証明されることになる。時間がない。
「椿」
「はい」
「しばらく大学の課題は休みだ。連日訓練に付き合ってもらうことになるが、構わないか」
 主の神妙な声色に、椿は恭しく頭を垂れた。
「宗史様のご意向のままに」
 宗史は霊刀を具現化し、仄かに光を放つ結界の前で構えた。
「よろしく頼む」
 息を詰め、結界に向かって一気に振り下ろす。喧騒に混じって、硝子が割れるような甲高い音が周囲に響き渡った。
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