第17話

文字数 4,061文字

 志季がこっそり罵っていると、突如、不動明王の神気が消えた。どさりと倒れ込む音がして、志季と陽が勢いよく顔を上げて立ち上がり、朱雀二体がそれぞれの肩から離れた。
「晴!」
「兄さん!」
 朱雀より一歩遅れ、晴の側に駆け寄ってしゃがみ込む。覗き込んだ顔は、すっかり憔悴して血の気がない。大怪我を負って神を降ろせば当然だ。けれど呼吸は整っている。ほっと安堵の息を漏らす。
「ずいぶん酷くやられたようだが、怪我は治っているな」
 宗一郎が上からひょいと覗き込んできた。手に携帯を持っている。
「相手は楠井満流か?」
「ああ」
 なるほど、と呟き、宗一郎は背を向けながら携帯を操作した。
「私だ。……ああ、問題ない。火を絶やすなと宮司に伝えてくれ。……いや、着替えがそちらにあるからな。晴たちを送ってから戻る。……頼んだぞ」
 相手は尚だろう。結局中途半端に終わったが、大量の霊力を消費したことに変わりはない。巨大結界の発動は、明にはかなりの負担になる。今頃は動けないはずだ。
 通話を切り、さてと、と呟きながら振り向いた。
「おじさんっ」
 陽が素早く立ち上がり、今にも泣きそうな顔で宗一郎を見上げた。
「あの……」
 声をかけたはいいが、さすがにどう言っていいのか分からないようだ。視線を泳がせ、ぎゅっと唇を噛んで俯く。
 体を強張らせて言葉を探す陽に、宗一郎が表情を柔らかくして苦笑した。ぽんと、頭に大きな手を置く。
「お前たちが、無事で良かった」
 そう言った宗一郎の声はやけに優しくて、陽の目にじわりと涙が浮かんだ。汚れた手で何度拭っても次から次に溢れ出て、結局、大粒の涙となって頬を滑り落ちた。
「ごめ、なさ……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
 あの時、宗一郎の背中には恐れも怯えもなかった。けれど、別の感情はどうだろう。死そのものに恐れはなくとも、気がかりがないはずがない。律子や夏美もそうだが、何よりも体の弱い桜と、後を継がせるにはまだ心許ない宗史を残して逝くことに、少しも迷わないはずがない。
 自分たちの身代わりをさせてしまったことや、家族を奪ってしまう結果になったことへの罪悪感。これから先、一生その罪を背負って生きていくことになる。
 陽の嗚咽を聞きながら、志季は痛々しげな眼差しを晴へ落とした。
 この結末を知って晴がどう思うか、考えるまでもない。自分を責めて罪悪感や後ろめたさを抱え、きっと、事件を終わらせることに躊躇する。下手をすれば、陰陽師を辞めると言い出しかねない。それだけならまだいい方だ。自ら霊力を封印してしまう可能性だってある。だがそれでも、この事件だけは終わらせなければならない。例え、結末が分かっていても。
 またそれは、志季にとっても決して他人事ではない。
「お前は赤ん坊の頃からよく泣く子だったが、今でも変わっていないな」
 どこか懐かしげに笑いながら陽の涙を袖で拭ってやる宗一郎を見上げ、志季は表情を引き締めた。
 宗一郎が契約を反故することは、天地がひっくり返ってもないだろう。だとしたら、その覚悟に報いなければならない。
 宗一郎が命を賭けて守った晴と陽を、彼が愛した者たちが生きるこの世界を、守らなければならない。
「私のために泣いてくれるなんて、光栄だな。本当に素直で可愛い子だ」
「貴方はまたそうやって……っ、もういい加減にしてくださいっ」
 どうやら宗一郎のペースに乗せられたらしい。犬でも可愛がるように顔をもみくちゃにされていた陽の苛立った声が響き、志季は大きな溜め息をついた。
 よくよく考えれば、不動明王は宗一郎が術を会得した時から神力を貸しているのだ。つまり、対面したことはないにしろ、付き合いは長い。晴や陽、あるいは他の者や式神らを含め、彼らより宗一郎のことをよく知っているだろう。あの気安い会話はそのためだ。
 神々にとって、人の世が混沌に陥ることは本望ではない。ましてや仏の役割は人を救うことにある。宗一郎のことをよく知っているのならば、今彼を失うのはそれこそ痛手になると危惧し、「お願い」を飲んだ。あるいは、こいつに何を言っても無駄だと思ったのかもしれない。
 どちらもあるだろうが、比率なら後者の方が高いだろう。志季は溜め息をついた。
 こんな状況でも変わらない態度は、彼らしいと言えばらしい。けれど、こちらの罪悪感を少しでも軽減しようと、あえてそうしているふうにも見える。不動明王を前に平然とした態度といい、自分の死が確定したにもかかわらずどうかしていると思うが、それだけ強靭な精神力の持ち主とも言える。
 ただ、宗一郎があえて「いつも通り」を演じているのなら、それに乗ってやる方が彼も安心するだろう。それに、放置された晴が可哀想だ。
「宗一郎。陽が可愛いのは分かったから、俺らどうすればいいんだ」
「かわ……っ」
「志季、変化できるな?」
 言葉を遮られ、陽が忌々しそうにぎりぎりと歯ぎしりをした。可愛い顔が台無しだからやめろ。
「ああ、まあな」
「ならば、二人をホテルまで運んでやってくれ。酔い潰れたとでも言えばいい。車の移動はこちらで手配する」
「なるほど、分かった」
 代行でも頼むのだろうか。よっこらせと腰を上げる。陽が口を挟んだ。
「あの、でもこの恰好じゃ……」
 陽に言われてはたと気づく。確かに、晴と志季の傷は治っているが血痕はそのままだし、陽においては血だらけ傷だらけで、かなり物騒な姿だ。間違いなく通報される。
「陽の治癒は俺ができるけど、汚れはどうにもできねぇぞ。川でも探すか?」
「それなら――玄武」
 宗一郎が視線をやると、蛇がひょいと顔を上げ、玄武がのそりと足を踏み出した。擬音を付けるのなら、のっしのっしといった感じだろうか。重厚感のある歩き方と言えば聞こえはいいが、何となく気だるそうにも見える。
「車は下の駐車場だな」
「ああ……」
「ええ……」
 遠目に見ても大きいのに、一歩近付くごとにさらに巨体さが増し、志季と陽の視線が次第に上へ移動する。
「着替えた方がいいだろうから、一旦駐車場へ下りるか。玄武、あとで三人を綺麗にしてやってくれ」
 承知した。低音の渋い声が直接頭に届く。玄武は水神だ。廃ホテル事件のあと、寮で右近がやったように洗い流してくれるらしい。それはいい、それは大変助かるのだが、今は玄武の巨体の方に気を取られる。神気どうこう以前の問題だ。間近で見ると圧がすごい。まさに怪獣。全長は五メートルほどと驚くほどではないが、何せ高さがある上に甲羅や鱗、蛇の太さや長さが迫力に輪をかけている。おそらく、これでも小型化している方なのだろう。どこまで大きくなれるのか、そして人型はどんな姿なのか。
 すぐ目の前で足を止めた玄武に志季が興味をそそられていると、陽が呆けたように言った。
「かっこいい……」
 つい先ほどまで唖然としていた目はきらきらと輝き、うきうき、いやわくわくだろうか。とにかく、興奮した顔で玄武を見つめている。今にも飛び付きそうだ。
 触りたいんだろうなぁと思わせるくらいにうずうずし始めた陽をしばし横目で見つめていると、玄武が言った。
 乗ってみるか?
 陽がぱあっと顔を輝かせ、身を乗り出した。
「よ、よろしいのですか? あっ、でも兄さんを早く……」
「構わない。私が一緒に連れて行こう」
 笑いを噛み殺した宗一郎が提案すると、陽は逡巡したあと遠慮がちに「じゃあ」と言って玄武に歩み寄った。まあ、体の大きい晴を支えるのなら宗一郎の方が適任だ。
 志季は、使いに「ご苦労だったな」と労いの言葉をかけて解放し、変化しながら陽と玄武の様子を眺めた。
 蛇が胴体に巻き付き、ひょいと抱え上げた陽を甲羅の上に乗せた。陽は顔を紅潮させ、うわぁと感嘆を漏らしながら、すごい硬い、厳つくてかっこいい、立派な甲羅ですね、綺麗な鱗ですねと褒め称えながら蛇共々あちこち触れる。
 何だろう、この敗北感というか悔しさは。互いに神なのに、怪獣に負けた気分だ。陽も男だしな。男は怪獣とかロボット好きだしな。と必死に自分に言い聞かせる。
「ほんとにかっこいい……」
 うっとりとした顔で呟いた陽の頬を、蛇が赤い舌を出してぺろりと舐め、すり寄った。どうやら気に入られたらしい。閃と鈴をはじめ式神一同陽にはやけに甘いし、人たらしならぬ神たらしか、あいつ。
 なんかもう勝てる気がしない。志季は変化を終わらせ、笑い上戸が発動した宗一郎を横目で見やった。ますます晴が可哀想になってきて、何度目かの溜め息をつく。
 宗一郎、早く晴を乗せてやれよ。
「あ、ああ……っ」
 それで力入るのか、と怪訝に思っていると、蛇がするりと陽から離れて晴に巻き付いた。これまたひょいと持ち上げて、伏せた志季の背中に乗せる。うつぶせで横に手足がぶら下がる状態だ。どうも、とぺこりと長い首を振ると、いや、と短い答えが返ってきた。そういえば、さっきから同じ声しか聞こえないがどちらの声なのだろう。そして意思は玄武と蛇と別々にあるのだろうか。あるとしたら喧嘩したりしないのか。喧嘩したらどうするのだろう。
 そんな疑問を思い浮かべながら、ちゃんと晴を支えてろよと、未だ笑いが収まらない宗一郎へ告げる。不安だ。
 蛇が陽を支えるように再び胴体に巻き付いたところで、志季はばさりと羽を広げて地面を蹴った。晴を落とされたら大参事だ。宗一郎がいまいち信用ならず、ゆっくりと慎重に空を滑る。玄武が後ろに続いた。
 上から見下ろした伊吹山の頂上は、東側に不自然な土の塊が残ってしまっている。茂っていた雑草は、いかにも踏み荒らしましたといった惨状で、あちこちに尖鋭の術の痕跡が残っている。
 このまま放置してもいいのかと不安になっていると、宗一郎が不満げにぽつりと言った。
「私の時は、支えてくれなかったのに」
 陽に巻き付いた蛇のことだろう。そんなことより明日のニュースと晴と他の奴らのことを心配しやがれ。などと言えばどんな反論が返ってくるか分からない。もう面倒なので黙っておいた。
 伊吹山の頂上に、静寂が戻った。
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