第8話

文字数 2,232文字

 あの痛がりようは、もしや催涙スプレーか。卑怯な真似をする。各々鼻と口を腕で塞ぎ、顔や首筋を押さえて地面を転がりまわる男たちと建物を交互に見やる。
「もっと離れて、しばらく口を塞いでいてください。催涙スプレーです」
 鼻と口を塞いだまま駆け寄った夏也に押されるように、橋の手前まで下がる。
 茂が眉をひそめた。
「やっぱり。それで近藤さんを動けなくしたのか」
「間違いないと思います」
「夏也姉、助かった。ありがと。何ともない?」
「はい、大丈夫です。油断してはいけませんよ」
 こくりと頷いて小言を言った夏也に、弘貴が申し訳なさそうに肩を竦めた。
「ごめん。つーか、催涙スプレーってあんな痛いんだな」
「近藤さん、大丈夫かな。さっきの音も……」
 男たちから建物の二階へ視線を移すと、屋根の上に人影が現れた。左近だ。悠然と佇んで、こちらを見下ろしている。
「左近が引いたのなら、紺野さんが間に合ったんだと思うよ。多分、無事だ」
「じゃあさっきの、紺野さんが犯人をぶん投げたか何かした音かな」
「だろうね。何せ警察官だし、廃ホテルの乱闘を切り抜けた人だよ」
「あー、確かに」
 言われてみればそうだ。茂が言うように、紺野はあの廃ホテル事件を無傷で生還した人だ。左近は彼一人で対処できると判断したから引いたのだろう。ならば、おそらく犯人は一人。そして、近藤は無事だ。
 全員が、ほっと胸を撫で下ろした。
 ふと、夏也が持ったままの催涙スプレーに目を落とした。
「まだ残っていますね。もう少しかけておきますか?」
「そうしてやりたいところだけど、さすがに動けないだろうし可哀想だからやめておこうか」
 無表情で酷な提案をした夏也に、茂がにっこり笑って却下した。夏也が少し残念そうにしているのは気のせいではないはずだ。
「怒らせると怖ぇんだよな、夏也姉……」
「サブ属性が火だからね……」
 夏也の属性は水だが、次に相性がいいのは火だ。近藤は、これまでにも科捜研として協力してくれている。直接会ったことがないにせよ、紺野との過去や捜査に戻したことなど、夏也の中で十分信用できる人物として認識しているのだろう。そんな彼を、催涙スプレーなんぞを使って拉致した犯人は許せないようだ。一見クールに見えるが、意外と情に厚い人なのだ。
 こそこそと話す春平と弘貴をよそに、茂が話を戻した。
「夏也さん、一度宗一郎さんに連絡を入れてくれるかい。僕は紺野さんたちの様子を見に行ってくるから。春くんと弘貴くんは、犯人たちの見張りをお願い」
「分かりました」
「了解っす」
「了解です。しげさん、念のために気を付けてください」
「うん」
 茂は笑顔で頷いて、低い呻き声を漏らす男たちを大きく避けて建物へと駆けて行った。
「弘貴くん、これをお願いします」
「うん」
 催涙スプレーを弘貴に預け、夏也はポケットに入れた携帯を取り出しながら少し距離を取った。
「で、結局これってどの事件なんだ? 鬼代事件じゃなさそうだけど、冬馬さんが聞いたやつ? それとも全然別?」
「さあ。もう一人建物の中にいるみたいだから、そいつの顔を見れば分かるかも」
「あ、そうか。つーかさぁ……」
 おもむろに、弘貴が手の中の催涙スプレーに目を落とした。
「催涙スプレー、最強じゃね?」
「う、うーん……」
 卑怯な真似をと思った手前、素直に頷けない。春平は曖昧に返事をして、悶絶する男たちへ憐みの視線を投げた。確かに、どんな屈強な戦士でも、あれほどの痛みを与える催涙スプレーには敵わない気がする。いっそ敵側と対峙する際に催涙スプレーを撒き散らせば、一瞬で勝敗が決まるのでは。しかし、苦し紛れに術を行使されると無駄に被害が拡大する恐れもある。
 駄目か。男たちの低い苦悶の声を聞きながら、春平は複雑な顔で息をついた。
 それからしばらくして、木霊するパトカーのサイレンが聞こえ、茂から弘貴へ連絡が入った。痛みは引かないようで、茂と近藤をおぶった弘貴が戻ってきても、男たちは変わらず地面に転がって唸り声を漏らし続けた。
「二人とも、何か飲み物持ってない? 脱水症みたいなんだ」
 指示があったのだろう。茂が紺野の車の助手席のドアを開けながら尋ね、弘貴が近藤をゆっくりと下ろす。近藤が、良かった無事だと言いながら、座席に転がっていた携帯を拾い上げた。
「あ、すみません。僕、飲みきっちゃって」
「私はあります。持ってきますね」
「ついでに僕のもお願いできる?」
 はい、と返事をして、夏也は身を翻した。
「弘貴くん、ありがと。重かったでしょ」
「大丈夫っす、これくらい。鍛えてるんで」
 弘貴がにっと笑うと、近藤は喉を鳴らして笑った。
「頼りがいがあるねぇ」
「でしょ? 席、倒します?」
「ううん、平気」
 弘貴は人見知りとは無縁だ。近藤もそうなのか、あるいはつられたのか、すっかり打ち解けた様子だ。
 近藤は助手席から足を外に投げ出して、背もたれに体を預けた。目を伏せ、疲れた様子で長い息を吐く。
 羽織ったジャケットの下は、切り裂かれたTシャツ。髪は濡れ、両手首には擦り傷、顔色も悪い。だが、暴行を受けた形跡がないのはひと安心だ。
 北原襲撃事件で平良の蹴りを防いだとは聞いていたけれど、研究職という先入観もあって、もっとひ弱そうな人をイメージしていた。けれど実際は、身長はおそらく弘貴と同じくらい。例の事件のものだろう、額に大きな一文字の傷跡は残っているが、整った容姿。細身だがシャツから覗く胸は引き締まり、鍛えているように見える。
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