第3話

文字数 5,508文字

 午後九時半。
 茂と夏也(かや)が双子を入浴させ寝かしつけている間に、弘貴(ひろき)春平(しゅんぺい)は風呂に入り霊符を描くことにした。特にこれと言って興味を引かれるテレビ番組がなかったせいだ。
 体を洗い終え、浴槽に深く体を沈めてから、春平はぽつりと呟いた。
「意外、だったよね」
 隣で長い息を吐きながら気持ち良さそうに目を閉じた弘貴が、少し間を置いてそうだなと頷いた。
「霊力のせいかな」
「多分な。大河の性格って好かれやすいだろうし」
「うん。良い人だよね、大河くん」
 一拍置いて、弘貴が静かに問うた。
「どうした?」
 不意に問われた質問に、春平はうんと答えにならない返事をして、息を吐いた。
 普段は大雑把だが、こんな時、弘貴は敏感に人の機微を感じ取る。幼い頃から一緒にいたからか、それとも生来備わった力なのか。あるいは、生い立ちの影響か。
「すごいなと思って」
 想像もしていなかった大河の過去を知って驚いたのは、おそらく皆同じだろう。
 素直で真っ直ぐで、明るくて裏表がない。あの樹の警戒心を容易に解き、皆とすんなり溶け込んだ。いじめに遭っていたのなら、人間不信なり警戒心を持っていても不思議ではないのに。だから、まさかあんな過去があるなんて思わなかった。
「もし霊力が原因だったら、何であんなに行使できるんだろう。僕は……」
 春平は、湯に浸かった両手に視線を落とした。
 いじめに遭っていたわけではない。けれど、人に迷惑をかけた過去がある。この望んでもいない力のせいで。
「そりゃお前、あれだろ。気付いてくれた友達のおかげだろ」
 弘貴は、湯で顔を洗いながら当然のように言った。
「省吾だっけ。そいつがいたから、大河は大河でいられるんじゃねぇ?」
 一拍置き、そうだね、と小さく同意して、春平は同じように湯で顔を洗った。
 どれだけ人から疎んじられようとも、信じている人がただ一人でもいればそれだけで救われる気持ちは、よく分かる。けれどきっと、その一人以外の人間を信じるには時間がかかるだろうし、霊力を行使しようなんて思えない。怖くて、そんなことできない。
 大河はどうして、あんなにも人を信じることができて、霊力を行使しようと思えるのだろう。
「お前、まだ気にしてんの? 昔のこと」
 核心をつかれて、春平は息を詰まらせた。じっと俯いたまま動かなくなった春平を横目で見やり、弘貴は両手で髪を後ろに撫でつけながら言った。
「俺じゃ、省吾のようにはなれないか」
 ぽつりと聞こえた言葉に一瞬思考が止まり、すぐに再稼働した。勢いよく振り向くと、弘貴はさめざめと泣きながら顔を覆っていた。
「そうだよなぁ、俺なんかじゃあな。お前の方がよっぽど頭いいししっかりしてるし、俺じゃあ頼りにならねぇよなぁ」
 実にわざとらしい。身長が180センチもあり体躯も良い男が両手で顔を覆い、さらに真っ裸で背を丸めて泣く姿は少々不気味だ。正直言って見たくない。
 春平は苦笑いを浮かべ、短く息をついた。
「そんなこと思ってないよ。弘貴には、いつも助けられてる」
 目を閉じて、初めて告げる言葉を口にした。
「感謝してる」
 一番初めに声をかけてくれたのは、弘貴だった。あの瞬間がなければ、今でもきっと一人でうずくまっていた。過去の傷は消せないし、持って生まれた資質は変えられないけれど、それでもこの力がなければここにいなかった。皆と出会うことも、こうして笑って毎日を過ごすこともなかった。
 そうか、大河もこんな気持ちなのだろうか。望まない力を持って生まれたけれど、それがなければ今はなかった。そんな風に思って、前を向いているのかもしれない。
 弘貴は横目で春平を見やり、顔を上げた。
「じゃあさ」
「うん?」
 にっと白い歯を見せて上がった口角に、春平は不安を覚えた。水面を揺らして横にずれ、弘貴との距離を取る。
「な、何……?」
 にやにやと薄ら笑いを浮かべ、弘貴が距離を縮めてくる。
「いつまでもぐだぐだ考えんじゃ、ねぇっ!」
 語尾に合わせて弘貴の腕が水中で伸び、脇腹をくすぐった。
「ちょ……っくすぐった……っ」
 春平の笑い声と派手に水が跳ねる音が浴室に響き渡る。
「やめ……っ」
「お前は昔っから考えすぎなんだよ。あんまり考えすぎるとハゲるぞ!」
「分かったからやめろって! 弘貴!」
 春平の降参の声が響いた時、浴室の扉が開いた。二人が動きを止めて振り向くと、(すばる)が実に複雑な面持ちで立ち尽くしていた。
 どこかで滴が数滴垂れた音が、浴室に静かに響いた。三人の間に妙な空気が流れ、やがて昴が視線を逸らしてゆっくりと扉を閉め始めた。
「……ごめん、邪魔したかな……?」
「何を!?」
 とんでもない台詞を吐いた昴に、春平と弘貴の突っ込みが大きく反響した。この状況で何故その発想になる。
 綺麗に重なった二人の突っ込みに、昴が笑い声を上げて閉めかけた扉を開いた。
「ごめん、冗談」
 ペタペタと足音をさせ、洗い場の一つに腰を下ろす昴の背中を追いかけながら、弘貴が浴槽の淵に腕を重ねて置き、顎を乗せた。
「昴さんでもそういう冗談言うんですね。初めて聞いた」
「だって、そんな風に見えたから」
「どんな風!?」
 再度重なった突っ込みに、昴がまた笑い声を上げた。最近よく笑うようになったな、と蛇口を捻る昴を見やる。
 そういえば、と前に宗史の笑顔を見て似たように感じたことを思い出した。宗史も昴も優しいけれど、以前は、あと一歩人を踏み込ませない壁があった。それが今は少しずつ薄れてきているように思える。
 もしかして、大河の影響なのだろうか。何せあの樹の警戒心を容易に解いた人物だ。
 敵わないな、と春平は静かに息を吐き、腰を上げた。俺も、と弘貴も立ち上がる。
「昴さん、先に上がりますね」
「うん。あ、二人とも、(はな)さんが頼みたいことがあるからリビングに寄ってって言ってたよ」
「分かりました」
 泡立ったシャンプーで頭をもこもこにさせながら振り向いた昴に笑いを堪えながら返事をし、春平と弘貴は浴室を後にした。
 脱衣場にエアコンはない。人数が多く、窓を閉め切っている間は湿気が籠りやすいため、銭湯よろしく壁面に扇風機は取り付けてあるが、真夏は効果が薄い。手早く体を拭いて着替え、リビングに駆け込むのが正解だ。女性陣がいなかったらパンイチで行くんだけどなぁ、と常々弘貴がぼやいている。寮住まいであるがゆえの不便さは、お互い様だ。
 扉を開けると、何やら甘い香りが廊下に充満していた。
「チョコ?」
「そういえば、華さんが何か作ってたね」
「ああ、樹さんが催促したのかな。あの人の甘い物好き、ちょっと異常だからなぁ」
「見てるこっちが吐きそうになる」
「バレンタインとかすげぇもんな。三食チョコでいいとか言い出すし」
「宗史さんと(あきら)さんがこっちに回してくるからね。しかもしげさんの分もあるし」
 宗史は学校、明は氏子や仕事関係、そして茂はスーパーや近所の主婦から、毎年紙袋いっぱいのチョコを貰う。宗史と明が食べ切れないからと言って寮へ持ってくるのは毎年のことで、その日ばかりは樹の機嫌がすこぶる良い。
「毎年すげぇよな、あの数。嫉妬するのも馬鹿らしいわ」
「分かる。あんなにモテるのに、二人ともフリーってほんとなのかな?」
「それだよ。彼女がいるって話、一回も聞かねぇよな。そんな素振りもないし」
「宗史さんは桜ちゃん優先だろうけど、明さんってどうなんだろう」
「お見合いの話はしょっちゅう来るって晴さんが言ってたぜ。中には政治家の娘もいるって」
「ああ、顧客にいるからね。でも受けないってことは、好きな人か彼女いるんじゃない?」
「やっぱりか。つーか他の人はともかくさ、樹さんと宗史さんの彼女になる人って……」
「……大変だろうね……」
「だよな……」
 ずらりと並んだ可動式の扉の向こうにいるであろう本人に聞こえないよう、小声で話しながら廊下を歩き、扉を開ける。
「風呂上がりましたぁ」
 あっつー、と付け加えながら入る弘貴の後に続くと、廊下以上に漂う甘い香りにむせ返りそうになった。
「あ、二人ともちょうど良かったわ。これ、大河くんに持って行ってあげてくれる?」
 そう言って華がカウンターに置いたのは、透明の蓋付きカップだ。これには見覚えがある。今年のバレンタインデーに使われていた物だ。中には柄の入ったワックスペーパーが敷かれ、一口サイズのチョコが五つほど入っている。しかもピック付き。なるほど、これなら食べれば捨てられるし邪魔にならない。
「いいですよ。チョコですか」
 食器棚を開けながら弘貴が尋ね、春平は冷蔵庫から麦茶のポットを取り出す。流し台には、包丁やまな板、泡立て器やボウルなどの道具に混じって、ホットケーキミックスの袋が見える。前にレシピ本を見ていた華が「これ簡単そうねぇ」と言っていたが、それか。
「そう、チョコレートブラウニーなの。頭使うと甘い物欲しくなるかと思って」
「……昴さんと俺らのは?」
 ソファへ視線を投げて、弘貴が不安気に眉を寄せた。ニュースを見ている茂の横で、樹がローテーブルに置かれた皿からブラウニーを次々と口に放り込んでいる。怜司(れいじ)香苗(かなえ)は、パソコンで耐水性和紙を扱っている会社のホームページを覗いてあれこれ思案中だ。美琴(みこと)の姿はない。風呂か部屋だろう。
「大丈夫、昴くんは先に食べてたから。二人の分は樹に取られる前に夏也に包んでもらったから無事よ」
 やっぱり取られかけたのか。溜め息交じりの華に苦笑を浮かべ、春平は弘貴が持ったグラスに麦茶を注いで冷蔵庫にポットを戻した。
「大河くん、コーヒーでいいかしら。ブラックチョコ使ったんだけど」
「いいんじゃないですか?」
「弘貴くんと春くん、部屋で霊符描くのよね。二人の分も用意するからちょっと待ってね」
「はーい」
 とりあえずついたダイニングテーブルでは、夏也がブラウニーを綺麗にラッピングしている最中だ。こちらもまた透明の蓋付きカップ仕様。五つあるところを見ると、美琴と双子の分だろう。
「夏也さん、そういう細かい作業好きだよね」
 夏也の手元を微笑ましげに眺めながら、弘貴が言った。
「はい、好きです」
 双子用のカップをさらに透明なシートで包み、口をリボンで結ぶ。プレゼントの様で子供が喜びそうだ。
「できました」
 表情も口調もいつもと変わりないが、満足そうな雰囲気が漂っている。
「弘貴くんと春くんは、すぐに食べますか?」
「食べます」
 二人揃って即答した。小腹が空きはじめていることもそうだが、置いておくと今夜中には樹の腹に収まるだろう。以前、弘貴が個人購入したチョコ菓子をカウンターの上に置きっ放しにしていたら、翌日には食い尽されていた。哨戒帰りで腹を空かせた樹の仕業で、買い直してくれたが油断ならない。
「では、このまま置いておきますね」
 そう言って美琴と双子用のカップを持って腰を上げ、冷蔵庫へしまった。
「弘貴くん、春くん、お願いね」
 カウンターの向こうから、華がコースターを敷いたトレーにアイスコーヒーのグラスを置いた。
「はーい」
 麦茶を飲み干してから腰を上げ、トレーにカップを三つ置いて春平が抱える。
「気を付けてくださいね」
「うん」
 扉を開けてくれた夏也に頷いてリビングを出た。
 リビングダイニングはもちろん、廊下と言わず階段まで漂う甘い香りに苦笑が漏れた。
「寮の中全部甘い匂いがするね」
「作ったの、一回や二回じゃないな」
「樹さんがいるからね」
「ほんとどうなってんだ、あの人の胃袋」
「あれで太らないのもすごい。代謝すごい良さそう」
「まあ訓練で全部消費してるだろうしな。体質もあるだろうし」
「僕、太りやすいから羨ましいなぁ」
「そうかぁ? 別に普通だろ」
「そうかな?」
「そうだよ」
 寮に入り訓練を始めてから、前より痩せて太りにくくなった気はするが、油断するとすぐに体重が増える。筋肉もついていて食べる量にも気を使っているのに、この体質は悩みの種だ。春平はトレーに乗ったカップに視線を落とした。甘い物が嫌いなわけではないし、せっかく作ってくれた物を食べそびれるのは惜しい。だが、この時間に食べると確実に太る。明日の訓練はいつも以上に動かなければ。
 階段を上り切ると、パジャマを持った美琴とかち合った。
「あ、美琴ちゃん、今華さんがお菓子作ってくれたんだ。美琴ちゃんの分、冷蔵庫に入ってるよ」
「……分かった」
 春平の手元をちらりと見やり、そっけない返事を残してさっさと通り過ぎた。トントンと軽い足音をさせて階段を下りる美琴に、弘貴がわずかに眉を寄せた。
「もっと可愛気のある反応できねぇのかよ」
 弘貴が廊下を歩きながらぼやいた。また余計なことを。聞かれたら喧嘩が始まるのに。
「弘貴」
「分かってるって。あいつと喧嘩する暇があったら訓練するわ。大河に追いつかれたくねぇからな」
 以前は、程度はあるものの日に一度は揉めていた。だが最近は見なくなっていて、良いことだがどうしたのだろうと思っていたが、そういうことか。春平は小さく溜め息をついた。
 大河は、どれだけ人に影響を与えているのだろう。
「おーい、大河。起きてるか?」
 大河の部屋の前で声をかけると、中から間延びした声が返ってきた。
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