第9話

文字数 2,584文字

      *・・・*・・・*

 周囲に人がいないことを確認して船に戻ると、真緒が犬神をもう一度向小島へ向かわせた。
「弥生ちゃん、傷の手当て……」
「いい」
「でも……」
「触らないで」
 遠慮がちに伸ばされた真緒の手をするりとかわし、弥生はキャビンに引っ込んだ。しばらく一人にした方がいいと雅臣が告げ、真緒は顔を曇らせて弥生を見送った。
 波に揺れる船のように、気持ちがゆらゆらと揺れている。
 何があったのかどのみち報告されるし、全員この場所へ戻ってくるのだから、引きこもるというわけにはいかない。早く、気持ちを立て直さなければ。
 弥生は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、その場で大きくあおった。波の音よりも、自分の喉の音の方がやけに耳に響く。
 半分ほど一気に飲み干してから、大きく息を吐き出した。疼くような熱と痛み。腕にべったりと残る血の匂いが、鼻孔を刺激する。
「何で……」
 呟いた声に呼応するように、べこっとペットボトルが歪んだ。

 犬神が結界に反応して逃げおおせたあと、弥生は目の前を塞ぐ黄金色の壁を前に嘆息した。一緒に逃げた四畳ほどの大きさの悪鬼が、結界に向かって威嚇するような低い唸り声を上げている。
「あんたたち、あとで真緒に叱られるわよ」
 呆れ気味に言ってやると、犬神は耳をぺたんと伏せた。反省はしているらしい。忠実といっても、あくまでも術者である真緒に対してだ。本能で危険を察した状態で、止まれと命令しても止まらなかっただろう。
 真っ黒な体に、ゆらゆらと昇り立つ煙、真っ赤な目。どう見ても可愛いと思えないのに。真緒に感化されたか。弥生はもう一度息をついた。
「真緒にはもう伝わってるから、ごまかしきれないわよ。……まあ、フォローくらいはしてあげるけど」
 ぼそりと付け加えると、犬神は揃って耳を立て、尻尾をひとふりした。現金なところは主にそっくりだ。
「さて、どうしようかしら」
 このまま何もせずに待つというのも、何だか馬鹿みたいだ。
 不本意にも戦線を離脱してしまった。ということは、満流が賀茂宗史、雅臣が刀倉大河と対峙するだろう。満流は心配いらないが、雅臣は少々不安だ。しかし、自分にはどうしようもない。
弥生は周囲にぐるりと視線を巡らせながら、そういえばと思い出した。確か、杏と対峙した式神――鈴だったか。彼女も来ている可能性があると言っていたが、あの場にはいなかった。杞憂だったか、地上にいたのだろうか。いや、もし来ているとしたら警戒するだろうから、おそらく刀倉家。
 こちらの状況は、携帯から健人と真緒にも伝わっている。今頃、二人で外側から結界を破るために動いているだろう。となると、結界が解けたあと、鈴が両親を隔離し加勢に入ればこちらが間違いなく不利になる上に、牙の動向を探る目的も果たせなくなってしまう。ならば、鈴の所在を確認し、牽制するべきだ。犬神とこの大きさの悪鬼で式神に勝てるなどとは思わないが、何もしないよりはマシだ。場所は、柴の復活時に昴から情報が入っている。いなかったら、健人と真緒の手伝いにでも行けばいい。
 弥生は深々と溜め息をつき、行くわよ、と言って刀倉家の方を指差した。犬神がすっと宙を滑り、悪鬼もついてくる。
「……見張ってばっかりだわ」
 先日の賀茂家での一戦を思い出し、弥生は訝しげに眉を寄せた。未だ、あの時の違和感は拭えていない。拘束する絶好の機会だったのに、何故。
 案の定、刀倉家には結界が張られていたが、鈴の姿は見当たらない。現場にいたのかと思った時、気配を察知したらしい、海側に植わった木のてっぺんに人影が現れた。やはり鈴だ。見るなり犬神と悪鬼が同時に唸り声を上げる。
「駄目よ。止まって」
 語気を強めた指示に、犬神と悪鬼は次第に唸り声を小さくし、速度を落とした。止まったのは、畑の真上。
 本音を言えば仕掛けてみたいところだが、先日のように確実な援護や、拘束する気がないという保証はない。今回は見送るか。残念な気持ちで犬神に「お願い」し、輪にした触手にブランコよろしく乗る。さすがに、長時間腕一本で宙吊りにされるのは辛い。杏のように、背に乗ることができれば楽なのだが、何せ大型犬くらいの大きさしかない。突然動かれると間違いなく落ちる。
 待機の姿勢を取ったが、鈴はその場から動く気配がなかった。何ごともなければ、このまま終息まで牽制し合うしかない。
 鈴を警戒しつつ、弥生は携帯を取り出して耳に当て、視線を周囲に巡らせた。
 本土では、沿岸に建ち並ぶ工場や巨大倉庫の照明が煌々と光っている。一線を画すようにぽっかりと真っ黒な口を開けているのは、海。そして眼下にあるのは、畑の中に点々と灯る集落の明かり。頭上には満天の星、心地よく耳に届くのは波の音と虫の音、鼻孔をくすぐるのは潮の香り、肺を満たすのは澄んだ空気。
 嫌味なくらい、犯罪と縁のなさそうな長閑な島だ。
 微かに届く結界が何かを弾く音さえなければ、優しい月明かりと静寂に包まれ、島全体が眠りについたように見えるのだろう。
 眩しそうに目を細め、弥生は携帯から届く声に耳を澄ませる。剣戟の音や砂を擦る音に混じって、不穏な声が飛び込んできた。
 そこまでだ、と告げたのは、知らない男の声。さらに、大河と宗史を呼んだのは、おそらく土御門晴。どうなっている。雅臣が大河に負けただけでなく、満流と昴も勝てなかったとでもいうのか。何があった。
「考えてる場合じゃないわね」
 弥生は携帯を耳から離した。雅臣は独鈷杵奪取に失敗した。加えて、何があったのか知らないが、満流と昴は拘束されている。そうでないと宗史と晴が大河の元へ行けるはずがない。
ならば。
「シロ、クロ、行くわよ」
 携帯をポケットに突っ込みながら告げると、犬神は待ってましたとばかりにピンと尻尾を跳ね上げた。
 独鈷杵奪取に失敗した上に、牙の動向も探れないなんてとんだ失態だ。だが満流は、独鈷杵奪取は初めから期待していない。だとしたら、多少強引でも牙の動向を探らなければ、初めから勝率の低い戦いを挑んだ意味がない。この状況は健人と真緒にも伝わっているから、間違いなく悪鬼を使う。
 大河と独鈷杵が揃う向こうだけでも十分だろうが、加えて両親がいるこちら。牙にとって、独鈷杵や影綱の血を引く子孫を捨て置くことはできないだろう。
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