第2話

文字数 3,207文字

 母へのプレゼント以外で花を買うなんて、初めてだ。
「……彼女にも贈ったことないのに」
 それが男で、北原(きたはら)で、しかも見舞いの品として。近藤(こんどう)は、渋い顔で病室へ向かいながら人知れず嘆息した。
 丸一日が過ぎても、未だ目覚めたと連絡がない。
 あの時、霊刀なるものは完全に北原の体を貫いていた。北原を励ますためにあんなことを言ったけれど、正直、生きているのが不思議なくらいだ。大怪我を負い、手術をすれば体力を消耗する。そして体内の組織が破壊された臓器を修復しようとエネルギーを使い、その分睡眠を取ることで体力を回復しようとしているのなら、目覚めないのも無理はない。
 だから、たかが一日くらいで気を揉む必要はないと分かっている。けれど、その後無事に目覚めるとは限らないのだ。容体が急変することも、このまま一生目を覚まさない可能性だってある。
 もし、そうなった場合――。
 近藤は首から下げた職員証をTシャツの中から引っ張り出し、病室の前で待機している警察官に職員証を提示する。扉を叩くと中から女性の声が届いて、ゆっくりと横にスライドした。顔を出したのは、少し疲れた顔をした北原に似た女性。紺野(こんの)から姉がいると聞いている。彼女がそうだろう。
 女版北原くんだ、と心の中で突っ込んで、近藤は再度職員証を掲げた。
「科捜研の近藤です」
 ああ、と女性は思い当たった顔をして近藤を見上げた。襲われた時の状況は、警察から簡単に聞かされているだろう。どうぞと促され、近藤は病室へ足を踏み入れた。
「これ」
 そっけない一言を添えて花束を差し出すと、彼女は小さく「ありがとうございます」と言って受け取った。数秒ほどぼんやりとそれを見つめ、はたと我に返る。
「あ、花瓶。えっと……」
「適当に話して帰るから」
 熊田たちや本部の同僚たちからのものだろう、窓辺に飾られた花瓶は二つ。ここ最近では、花そのものや水に感染症の恐れがあるからと、生花の持ち込みを禁止している病院もあると聞いた。だがすれ違った看護師からも止められなかったし、ここは大丈夫らしい。花瓶はナースステーションからの借り物だろう。
 遠回しに「お気遣いなく」と告げた近藤に、彼女はじゃあと軽く会釈をして病室を出た。
 扉が閉まってから、近藤はゆっくりとベッドに歩み寄る。窓から見える空は青く澄み渡り、夏の陽射しが明るく差し込むのに、静かな病室に響く規則的なモニターの音は酷く冷たくて、物悲しい。
 ベッドの横で足を止め、北原の顔をじっと見下ろしてから、モニターへ視線を移す。顔色は悪くない。心拍数も脈拍も正常。
 何も、問題はない。
 近藤は北原へ視線を戻し、サマーカーディガンのポケットに両手を突っ込んだ。
「……北原くん」
 モニターの音に掻き消されそうなほど、静かな声で呼びかける。
「ここだけの話だけど、僕はさ、君のことが結構気に入ってるんだよ。――だって僕たち、同類でしょ」
 初めて北原を紹介された時から、何となく感じていた。それが正しいと分かったのは、北原が急ぎの鑑定結果を聞きに顔を出した時だった。どうせ紺野に言われたのだろうと思い、同情心から聞いてみた。あの人人使い粗いでしょ、体育会系だし口悪いしさぁ、よく相棒やってるね、と。すると北原は、心の底から切実に同意したあと、言ったのだ。紺野は自分の夢を否定しなかった、と。
 そして、
『紺野さん、普段あんなですけど本当は優しいですよ。信頼できる人だし、尊敬してるんです』
 笑ってそう付け加えた。
 ――知ってる。
 口が悪くて、手も早くて、単純。でも真っ直ぐで、正義感が強くてお人よし。
「それに、早く起きないと、紺野さん取られちゃうよ?」
 沢村(さわむら)なんて刑事知らない。紺野の隣にいるのは北原で、二人が一緒にいる姿を見るのが好きだった。他の誰かなんて、認めない。
「紺野さんの相棒は、北原くんでしょ」
 だから、早く起きなよ。
 声に出すことなく呟いて、近藤はポケットに突っ込んだ両手を握った。指一本、まつ毛一本、反応しない。近藤は唇を一文字に結び、振り切るように踵を返してその場から離れた。
「あっ」
 突然開いた扉に驚いて、花瓶を抱えた北原の姉が大仰に体を震わせた。
「どうも、お邪魔しました」
「え、あ……」
 言いながらするりと横をすり抜け、足早に去っていく近藤の背中を、彼女と警備の警察官は呆然と見送った。
 脇目も振らず廊下を進んで一階へ下り、ロビーを突っ切って外へ出る。
「あっつ……」
 自動ドアをくぐったとたん襲った熱気に顔を歪め、近藤は空を仰いだ。こんな灼熱の中を歩いたら溶ける。長居をするつもりはなかったのだから、来た時のタクシーに待っていてもらえばよかった。近藤は息をつき、歩道へと足を向ける。
 と、尻ポケットの携帯が着信を知らせた。液晶には「科捜研」の文字。
「もしもし?」
「ああ、近藤くん? 今大丈夫かな?」
「うん」
 歩道に出てタクシーを探す。病院前だから通ってもおかしくないはずなのだが、今のところ影も形もない。見つからなければ呼ぶか。
「……どう?」
 別府(べっぷ)の遠慮がちな声に、遠くへ投げた視線が落ちる。
「……うん」
 答えにならない返事。しかし別府は、そう、と溜め息交じりに呟いた。
「それで、どうしたの? わざわざ電話してくるなんて」
 気を取り直し、再び視線を上げて話題を変える。遠くの方に社名灯らしき物を屋根に付けた車を見付けて、近藤は目を細めた。
「ああうん、あのさ、ついさっき血痕のDNA鑑定の依頼が来たんだけどね」
「うん?」
 空車のタクシーだ。近藤が手を上げると、タクシーはウインカーを付けて路肩に寄り、目の前を少し通り過ぎて停車した。
「ずいぶん古いものみたいだから、近藤くんにお願いしようと思って。すぐに戻って来られる?」
「うん、今から戻る。急ぎ?」
「そうみたい」
 タクシーを追いかけて、自動で開いたドアをくぐって乗り込んだ。
「分かった。戻ったらすぐにやる」
「うん、じゃあよろしく」
「うん」
 軽く返事をして、近藤は通話を切りながら「府警本部まで」と運転手に告げた。冷えた車内にほっと息をつく。
 午前中、下平(しもひら)からメッセージが届いた。捜査本部に不審なDVDが遺失物として届けられ、ドライブレコーダーに土御門明とおぼしき男の姿が映っていた。任意同行がかけられるらしいから、科捜研に持ち込まれた場合は急いで解析を頼む、という内容だった。
 状況は理解したが、そもそも、どうしてグループメッセージではなく個人的に送られてくるのか。紺野が自由に動けない今、正確に把握できる下平に全ての判断が任されているのだろうが、彼が送って来なければ情報が回って来なかったことになる。それでも、解析依頼が来れば察することくらいはできるが、来なければ一人だけまた除け者だった。
 むう、と唇を尖らせて車窓へ顔を向ける。
 さらに昼前、予想通り右京署から映像解析の依頼が舞い込んだ。正確には、映像が何重にも重ねられていて時間がかかりそうだから協力してくれという依頼。本来近藤の専門は法医学だ。急ぎならば専門の者に任せる方がよほど早い。だから同僚に任せて昼休みに抜け出し、今に至る。
 科捜研には科捜研の、刑事には刑事の立場とやるべきことがある。それは分かっている。けれど、昨日のグループメッセージから外されていたことといい、今日の情報の寄越し方といい、ないがしろにされている感じがして面白くない。
 以前、少し喧嘩した時に紺野が言った言葉を思い出す。
『お前を巻き込むわけにはいかねぇんだよ』
 図らずとも被害者となって鬼代事件の本質を知り、それでもこれ以上関わらせまいとしているのかもしれない。いくら武道の心得があるといっても、所詮は護身術程度だ。紺野や陰陽師たちのように、本格的な訓練を積んでいるわけではない。ただの科捜研の所員。
 分かってるけど。近藤はぼそっと呟き、前髪で隠れた額の傷をさすった。
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