第9話

文字数 3,302文字

 マスクで顔を隠して、藤本が周囲を警戒し、岡部は鍵を開けて事務所に忍び込み、さらにキーボックスも開けて車の鍵を盗んだ。昔は免許を持っていたという藤本が運転し、さっさとその場をあとにした。時間はほんの五分かそこらだった。
 敷地の入口のチェーンをきちんと戻し、予定通り待機位置へ向かう車内で、藤本はハンドルを叩きながらげらげらと高笑いを上げた。
「だから言っただろ、田舎は防犯意識が低いんだって。今どきあんな鍵使ってるなんて信じらんねぇ。しかも防犯カメラもねぇときた。どんだけ平和ボケしてんだっつーの」
 かつて犯した罪に対して、罪悪感はあるし後悔もしている。けれどそれでも、成功した時の高揚感は堪らない。まんまと人を出し抜いた気分に任せ、岡部もまったくだと頷いた。
 しかし、それはすぐに萎えた。待機位置は、町からもっと北に上がった国道の狭い脇道。入ってすぐの場所に廃屋があって奥には畑が広がり、さらに進むと行き止まりになっている。こんな時間に人が入ってくることはない。その場所に、依頼主である男がいたのだ。スーツに磨かれた革靴、整えられた髪は、サングラスをかけていなければエリートサラリーマンに見える。車はどこかに置いてきたらしい。手袋をし、紙袋を提げていた。
 初めて男の姿を見たとたん、急に現実味が帯びてきた。これから自分たちは、見ず知らずの男を殺すのだ。自然と手が震えた。
 一旦通り過ぎ、バックで脇道に入って車を停車させると、男は運転席の窓から覗き込んできた。藤本が窓を開け、どうもと声をかける。外灯の明かりはほとんど届かないが、少し欠けた月の光は、人口の明かりが少ないこの場所では十分すぎるほど明るい。サングラス越しに、見られているのが分かった。
「見逃すなよ」
「分かってるって。着物なんだろ、さすがに見落とさねぇよ」
 男はそれだけを告げ、下げていた紙袋を藤本に手渡した。
「差し入れだ」
「おや、こりゃどうも。お気遣いいただいて」
 へっへっへ、と藤本が厭らしく笑って受け取ると、男はさっさと踵を返して立ち去った。国道を渡り、左へ進んで細い道へと消えていく。国道と平行にもう一本道路が走っているのだと、藤本は紙袋を開けながら言った。
「お、コーヒーとスコーンか。ちょうど腹減ってたんだ。気が利くじゃねぇか」
 言いながらプラスチックのカップに入ったコーヒーと個別包装されたスコーンを手渡され、岡部は眉根を寄せた。
「ミルクとシロップいるか?」
「え、ああいや、いい……」
 そうか、と言って藤本は自分の分にミルクとシロップを入れて蓋をし、刺したストローに口を付けた。
「ちょっと藤ちゃんっ」
 思わず身を乗り出した岡部を、藤本は横目で見やる。
「何だよ」
「何だよって、ちょっとは警戒しろよ。ドラマでもよくあるだろ、こういうの。薬が入ってたらどうするんだよ」
 必死の形相の岡部に目をしばたき、藤本は失笑した。
「それいつのドラマだよ。今どきそんなの流行ってねぇだろ」
「流行りとかそういう問題じゃ……」
「あのなぁ、俺たちを殺したら目的が果たせねぇんだぞ。そんなことするわけねぇだろ」
「で、でも……」
「そんなに心配なら飲まなきゃいいだろ。俺は飲むけどな」
 そう言って藤本は美味そうにコーヒーとスコーンを平らげた。一方岡部は、どちらにも口を付けなかった。
 時間も遅かったため、通る車は少なく三十分で三台ほど見送った。
「ほんとに通るのかよ。なんか眠くなってきたな」
 緊張感が薄れてきたのか、藤本は大あくびをした。
「藤ちゃん」
 叱咤するように名を呼ぶと、藤本は分かってるよと拗ねたようにぼやいて自分の頬を両手で叩いた。
 そのすぐあと、十二時を少し回った頃。一台の車の走行音が近付いてきた。すっかり目も慣れ、法的速度は四十キロ。次第に近づいてくる音と、アスファルトを照らすヘッドライトの明かり。
 二人は前のめりの体勢で目を凝らし、集中した。あっという間に通り過ぎた車に乗っていたのは一人。顔までははっきり見えなかったけれど、着物を着ていたことは分かった。
「藤ちゃん、今の……!」
「分かってるって」
 藤本は目をしばたかせながら、すぐに車のエンジンをかけて発車させた。少し速度を上げて追いつき、ナンバーを確認する。事前に聞いていたナンバーと同じだった。
 藤本は速度を落とし、車間距離を開けた。この先の直線のあとに来る左カーブ直前にぶつけ、対向車線の向こう側の崖に落とす予定だ。
 どくどくと心臓が激しく踊る。アシストグリップを握る手に汗が滲み、岡部はジーンズに手を擦りつけて改めて握り直した。
 と、不意に車体が揺れた。
 振り向くと、藤本がしかめ面で何度も瞬きをしている。急激に不安に襲われた。
「ふ、藤ちゃん、大丈夫か?」
 尋ねた岡部に藤本は舌打ちをかまし、アクセルを踏み込んだ。直線に入った。
「ちょっ、藤ちゃん! もしかして眠いんじゃ……!」
「うるせぇ!」
 ああクソ、と悪態をつき、頭を振って目を見開いた藤本を見て、強烈な恐怖を覚えた。この状況で眠気が収まらないのは、どう考えてもおかしい。やっぱりあのコーヒーに薬が入れられていたのだ。
「藤ちゃん中止だ! このままじゃ……!」
「うるせぇっつってんだろッ!」
 腕を掴んだ岡部の手を振り払い、鋭く一喝した藤本の横顔はまさに鬼の形相だった。ハンドルにしがみつくように身を乗り出し、瞬き一つせずに前を走る車を凝視している。さらにアクセルを踏み込んだらしい、エンジンが低く唸り、速度が上がった。
 一気に距離が縮まり、標的の車が一瞬にして目の前に迫る。
「藤ちゃんッ!」
 恐怖に顔を歪ませた岡部の絶叫が車内に響き、驚いた顔で、男がルームミラー越しにこちらを見たのが分かった。次の瞬間、ドンッ! と金属がぶつかる鈍い音と体を大きく揺さぶるほどの激しい衝撃が伝わり、そして長く甲高いブレーキ音が鼓膜を襲った。
 恐怖のあまり硬く目をつぶっていて、何がどうなったのかは分からなかった。
 強制的に意識を引き戻したのは、ドーンと轟いた爆発音と煙の臭いだった。逃げなければ、と本能で感じた。
 朦朧とする意識の中で体が動くことを確認してシートベルトを外し、ふと目に入ったのはだらんと下がった藤本の腕。そうだ藤本は、とやっと気が付いて視線を上げ、
「ひ……っ」
 喉の奥から引き攣った悲鳴が上がった。作動したエアバッグに頭をうずめ、目を見開いたままこちらを見ていた。口や鼻、目からも大量の血が流れ、ハンドルが異様なほど腹に食い込んでいる。内臓が圧迫されて、破裂したのか。
 ガタガタと体が震え、力が入らない。何故、こんなことになった。だからやめろと言ったのに。藤本が言うことを聞かないから。不意に、生気の消えた藤本の目と目が合った気がした。
「ひぃ……っ、うあ、あああぁぁ……っ」
 言葉にならない悲鳴を上げながら何度もドアを開け損ねて、必死の思いで車から転がり出た。四つん這いのまま地面を這いつくばり、振り向いて映ったその光景を目にして、やっと自覚した。自分が、何をしたのか。
 車は土の山に激突してフロント部分が大破。ボンネットは跳ね上がり、エンジンルームから大量の煙が上がっている。このままでは炎上し、爆発するかもしれない。そう思った時、やっと、道路の向こう側の崖下からもうもうと白煙が上がっていることに気が付いた。
 本当に、崖の下に落ちたのだ――いや、落としたのだ。自分と、藤本が。
 パニックになった。
 殺した。誰かも分からない一人の男を。何故彼が命を狙われたのかも知らずに、どんな人物かも分からないまま――殺した。
 それからの記憶は、ほとんどない。とにかくその場から離れたくて、土の山を乗り越えて山の中に逃げた。遠くで鳴るサイレンを聞いた気がする。どこをどう走ったのか、気が付いた時には夜が明けていた。
 大木の根元に腰を下ろしても興奮と恐怖は収まらず、ただひたすら体が震えていた。落ち着けと自分に言い聞かせ、これからどうするか考えた。
 防犯カメラはなかったけれど、自分には前科がある。捕まる可能性が高い。逃げなければと、そう思った。
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