第2話

文字数 2,622文字

      *・・・*・・・*

 上野国に近い山の奥深く。時は丑三つ時。月の光が頼りない夜だった。
 薄暗い山の中を、ひたすらに走っていた。体にはまだ大きすぎるひと振りの刀を胸に抱え、大地を覆う枯れ葉を蹴り、好き放題に伸びた木の枝に顔や腕を切られ、それでも足を止めるわけにはいかなかった。
 吐き出される荒い息、内側から激しく叩く心の臓。そして、追って来る複数の足音。自分が今どこにいて、どのくらい走ったのか、もう分からなくなっていた。
「あ……っ」
 地面から顔を出した木の根に足を取られ、体勢を崩した。とっさに刀を庇って身をよじり、右半身を下にして地面を滑る。草履が脱げて衣は汚れ、頬や腕や足が擦り切れた。
 いつまでも倒れているわけにはいかない。痛みに顔を歪めながら体を起こし、裸足で駆け出そうとしたその時。ザッ、と枝葉を散らせながら、目の前に大きな影が降ってきた。
 驚いて息が詰まり、尻もちをつく。弾かれたように見上げたその影に、体が硬直した。
 自分の何倍もあろうかという大男。血で汚れた衣からごつごつとした岩のような筋肉が覗き、こちらを見下ろす目は燃え盛る炎のように爛々と輝いている。蔑むような笑みが浮かんだ口から覗くのは鋭い二本の牙。そして手には、べったりと血のついた刀。
 同じ鬼なのに、得体の知れない化け物のようだ。
「いたぞ!」
「こっちだ!」
 後ろから、複数の追手の声と足音が近付いてくる。
 微かな悲鳴すら、喉に詰まって出て来なかった。縫い止められたように大男から目を離せない。逃げろと本能が警鐘を鳴らすのに、体は小刻みに震えるばかりで動いてくれない。
 足音がすぐそこまで迫り、大男が刀を振り上げた。枝葉の隙間から差し込むわずかな月の光が反射して、刀身が鈍く光った。
 ――殺される。
 そう覚悟をし、腕の中の刀を抱き寄せた――その時だ。不意に、大男の左胸から刀身が顔を出した。刀を振り上げたまま動きが止まり、刀身の先端からは血が滴り落ちる。
 何が起こったのかなどと考える隙もないほど、一瞬だった。
 ズッと生々しい音を立てて刀身が抜かれ、大男の横っ腹に足がめり込んだ。ごぼっと大量の血を吐き出して勢いよく空を飛び、近くの木に激突する。メキメキと乾いた音を立てて木が倒れ、大男は下敷きになったまま、動かなくなった。
「くそっ、あいつがやられ……」
 追い付いた追手が、中途半端に言葉を切ったと思ったら目を剥き、足を止めた。
「退け! ――柴だ!」
 その切羽詰まった声に、我に返った。
 とんと地面を軽く蹴って頭上を飛び越えた彼を、視線で追いかける。
『柴主はとても強く、とてもお美しい。そしてお優しい方よ』
『いつかあの方の役に立てるよう、強くなりなさい――紫苑』
 そう、父母からよく聞かされていた。大人の男鬼は、美しいなどという言葉からは程遠い、無骨で大柄な者がほとんどだ。ましてや三鬼神の座に就くほどの鬼が美しいなんて――そう、思っていた。
 紫苑は興奮気味に体ごと振り向いた。
 あちこちから臓腑を抉ったような悲鳴が上がり、鮮血が飛び散る。みるみるうちに木々も雑草も大地も真っ赤に染まり、屍が積み上がり、返り血が柴を赤く染めてゆく。
 しかし、綿密に計算され尽くされたような整った顔立ちは、眉一つ動かない。動きに合わせてしなるように舞う漆黒の長い髪。弱々しい月明かりに照らされた、きめ細かく青白い肌。そして、無駄のない洗練された動き。
 地獄絵図の中にありながら失わないそんな美しさは、身震いするほどだった。
 あれが、鬼。
 あの方が、柴主。
 あの方が――我が主。
 大きく刀を振り上げて襲いかかった最後の一人を、柴は鋭いひと振りで切り捨てた。どっと倒れた男鬼を冷ややかな眼差しで見下ろし、強く刀を振って血を払い落とす。
 あれほど怒号が響いていたのに、今は微かな呻き声一つない。
 水を打ったような静寂の中、柴が刀を収めた。顔に飛び散った血を拭い、不意にこちらを振り向く。視線が合って、思わず息をのんだ。
 決して大柄ではないのに、放つ存在感に圧倒された。かつ一挙手一投足があまりにも優雅で、目が離せなかった。
 ゆっくりと歩み寄った柴が目の前で足を止め、膝をついた。黒と見紛うほど濃い深紅の瞳が、真っ直ぐにこちらを覗き込む。
「怪我は」
 低く落ち着いた声で静かに問われ、紫苑は小さく首を横に振った。転んだ時にできた擦り傷はもう治っている。柴が細く安堵の息をついた。
「よく、無事でいてくれた。定円(じょうえん)(ふじ)の子の紫苑、で間違いないか?」
 定円は父、藤は母の名だ。柴は、子が生まれるたびに自ら採った川魚や木の実を手に、各集落まで足を運ぶらしい。貴方の時もそうだったのよと父母から聞いていたが、覚えていたのか。それとも、父母や集落の誰かから逃したことを聞いたのだろうか。
 紫苑が目を丸くして小さく頷くと、柴の目にわずかな憂いの色が浮かんだ。その痛々しげな眼差しに、改めて刀を胸に寄せる。
「……父上と、母上は……」
 分かっていても、聞かずにはいられなかった。唇を震わせながら問うた紫苑に、柴はゆっくりと目を伏せ、小さく首を左右に振った。
 すっかり寝静まった頃合いでの夜襲だった。集落では、野鬼の襲撃を警戒し当番制で見張りを立ててはいるが、多勢に無勢であっという間に大混乱に陥った。だがこちらも鬼だ。黙ってやられるわけにはいかない。柴の根城や近くの集落でも常に見張りや見回り役がいる。援軍を乞う狼煙を上げ、男も女も武器を手に応戦し、しばらくして見回り役らしい者が二名駆け付けたが戦況が変わるはずはなく、次々と殺されていく。
 寝床の側にある洞窟の奥には、いざという時のための抜け穴があった。大人一人がやっと通れるくらいの広さで、普段は大きな岩で隠してある。援軍は間に合わないと判断したのか、嫌だ、私も戦いますと縋っても、母は無理矢理そこへ押し込み、父からは愛刀を渡された。
『ここはもう駄目だろう。お前は先に行きなさい。私たちもあとで追いかける』
『どうか無事で――私たちの、愛しい子』
 そう言って抱きしめてくれた温もりと、閉じられていく岩の隙間から見た二人の笑顔が、鮮明に蘇る。
 紫苑は声を詰まらせ、抱き寄せた刀に歪めた顔を寄せて俯いた。欠かさず手入れをして、いつかはお前にと、約束してくれた。
 それが、こんな形で――。
 張り裂けそうなほど胸が痛んで、堪え切れない嗚咽が途切れ途切れに漏れる。
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