第5話

文字数 3,733文字

 仕事上がり、更衣室で着替えをしていると、側で着替えていたナースが疲れた溜め息を漏らした。ナナと同じ、外来診療担当の先輩ナースだ。
「毎年そうだけど、今年はちょっと多いわねぇ、熱中症の患者さん」
 ああ、とナナはロッカーのドアの内側についている鏡でメイクを直しながら頷いた。
 毎年のことながら、熱中症で診察を受ける患者は老若男女関係がない。しかし今年はどういうわけか、若い男性患者が多い。しかも、ここ一カ月の話だ。
 数日間倦怠感が取れないと言って訪れ、話を聞くと皆示し合わせたように言うのだ。突然動けないほどのだるさに襲われ、やっと動けるようになった、と。だが熱があるわけでもなく、吐き気や頭痛、めまい、痙攣など、熱中症の症状は見られない。念のためにレントゲン撮影や血液検査を行っても異常は見つからない。とりあえず点滴を打ち、様子を見るよう言って帰宅させているが、一人二人ではない原因不明の倦怠感に医者たちは頭を捻らせている。
「年々気温が上がってますからね。若い男性は仕事場の環境でかかりやすいって言いますし」
「そうよねぇ。ちょっと気を付けてもらわないと。病院が忙しいって、あまり良くないわよねぇ」
 病院勤務の人間が言う台詞ではないが、正論ではある。忙しくない方が、皆が健康である証拠なのだ。ナナは、そうですねと苦笑いを浮かべてバッグを肩にかけると、ロッカーのドアを閉めた。
「お先に失礼します、お疲れさまでした」
「はい、お疲れ様ー」
 のんびりとした口調で労う先輩に会釈をし、ナナは更衣室を出た。
 関係者通用口から外に出ると、むっとした夏の空気がまとわりつく。6時50分。
 ナナが勤務する総合病院は、中京区にある。外来診療担当の看護師は、夜勤はなく日曜、祝日も休み。週休二日制の残り一日は事前に申請して取ることになっている。ナナがアヴァロンへ行くのは、大体休日の前日だ。
 ショップ店員をしているリンは、週末はなかなか休みが取れない。それでも月に一度は週末に休みを取って一緒にアヴァロンに入り浸り、そのまま一人暮らしのリンの自宅で一泊がお決まりのコースだ。あとは、十二時までと時間を決め、嫌なことがあった時のストレス発散、リンの「冬馬不足解消」のために付き合ったりと、なんだかんだで必ず週に一度は顔を合わせている。
 そんな日々が、もう二年ほど続いている。
 リンが一昨日、昨日と立て続けにアヴァロンに行っているから、さすがに今日は帰って大人しくするかと最寄りの駅へと向かう。徒歩十分の距離。ちょうど帰宅ラッシュで、大通り沿いにある病院前のバス停には人々が列を成し、車がひっきりなしに行き交い、人通りも多い。
 ナナは昨日の出来事を思い出して、一人溜め息をついた。
 草薙の息子と、嫌な噂。今日はまだ、下平から連絡はない。面倒な事件を抱えていると言っていたから、やはり早々は難しいか。無理を言っている手前急かすわけにもいかないし、龍之介がアヴァロンに来るとは限らない。
 ただ心配なのは、リンだ。
 昨日、龍之介(りゅうのすけ)に目を付けられたのはリンだった。見た目とノリの良さが目についたのだろう。突然声をかけてきたと思ったら、VIPルームに来い、と命令された。その時はどこの誰だか分らず、リンが龍之介の態度に腹を立て、嫌だ触るなと抵抗した。龍之介を諌めつつリンを宥めていると、騒ぎを聞いたスタッフが駆け付けて、耳打ちしてきた。噂だけは聞いていたから、こいつかと余計に腹が立った。
 リンは、好き嫌いがはっきりしている。だからと言って全てを表に出すほど子供ではないが、それでも龍之介に対しては異常なほどの拒否反応を示していた。当然だ、あんな噂を聞いていれば。
 スタッフが仲裁に入り、
「サイッテー」
 と吐き捨てたリンを見ていた龍之介のあの目が、どうにも気にかかる。
 甘やかされて育ち、自分の非を認めず、何でも思い通りにならなければ気が済まない。そんな人間は、患者の中にも少なからずいる。予約日を間違えて来たにもかかわらず譲らない患者、お気に入りの看護師がいないと大声で呼ぶ患者、急いでるから順番を繰り上げろと暴れる患者、セクハラは日常茶飯事、中には、俺を誰だと思ってると叫んだ患者もいた。誰だよ、と突っ込んだらどんな反応をするのだろう。
 龍之介は、そんな我儘な患者と同じ目をしていた。
「……」
 ナナはふと立ち止まり、バッグから携帯を取り出しながら歩道の端に避けた。
 昨日の今日だし、まさかとは思うが念を押しておいた方がいいかもしれない。確か今日は早番だと言っていたから、もう終わっているはず。
 ナナはリンへ通話すると、何の気なしに周囲に視線を巡らせた。
 片側三車線の大通り、大手車メーカーの販売店やマンション、不動産屋、道路の向こうには小洒落たカフェやCDショップ。と、大勢の人々に紛れて、病院の方向からこちらに向かってくる一人の男と目が合った。男はふいと視線を逸らし、そのままナナの目の前を通過した。少し先にあるマンションの前で立ち止まる。
 気のせい、だろうか。
 自意識過剰になっているのかもしれない。そう思っていると、電話がつながった。
「ナナだー、お疲れー。どうしたの?」
 いつもの間延びした声に、少しほっとする。
「お疲れ。あんた今どこ?」
 ちらりと横目で男を見やる。動きはない。
「えー、どこって、お店のロッカーだよ? 皆と喋ってた」
「あ、そうなの? あたし病院の近くなんだけど、どこ?」
 待ち合わせの相手を探すふりをして、周囲を見渡す。
「ナナ、何言ってるの?」
 きょとんとしたリンの顔が目に浮かぶ。けれど実際の目に映ったのは、マンションの周囲の植え込みの花壇に腰を下ろし、同じように周囲を見渡す男の姿だった。
 気のせいかもしれない。そうであって欲しい。けれど。
「え? もしかして迷子? しょうがないなぁ、もう」
 ナナは踵を返し、早足で来た道を戻る。ちょっとナナ大丈夫? とリンが本気で心配する声が聞こえる。ちょうど四条河原町方面のバスが滑り込んできて、駆け出した。四条烏丸に停車するはず。あのバス停からは、下京署もリンの職場も近い。
「今から行くから、ちょっと待ってて。バス乗るから切るね」
「えっ? ちょっとナナ……っ」
 独り芝居をしつつ、ナナはバスに飛び乗った。すぐに背後でドアが閉まり、通話を切る。
 混んでいるがすし詰め状態というほどではない。空いている吊革につかまって息を整えた。のんびりしている暇はない。再び携帯を操作しながらちらりと見やった先は、バス停のすぐ近くの歩道。追いかけたが間に合わなかったのだろう、男が苛立った顔でバスを視線で追いかけながら、誰かと通話していた。
 本当につけられてる。ということはリンも。
 どくんと心臓が大きく脈打った。急いでリンにメッセージを送る。
『男につけられてる。草薙の仲間かもしれない。今から行くから店から出ないで』
 すぐに既読が付き、返信が来た。
『それほんと!?』
『今撒いた。下平さんに連絡入れてどうすればいいか聞く。あたしが行くまで動かないで、絶対』
 少し間が開き、返信がある。
『分かった待ってる。気を付けてね、絶対だよ』
 文面は冷静だが、多分かなり動揺している。せめてもの気休めにと、ナナは「OK」とメッセージが付いた可愛らしいスタンプを一つ送った。続けて下平へショートメールを作る。不幸中の幸いとも思うが、こんなことで連絡を取ることになるなんて。
『男につけられています。とりあえず撒きました。草薙の仲間かもしれません。今、バスでリンの職場に向かっています。四条烏丸交差点にあるショッピングモールです』
 リンの職場は下京警察署の目と鼻の先だ。下平が署にいてすぐに気付いてくれれば、先にリンを保護してくれるかもしれない。
 もし到着しても連絡が来なかったら電話してみよう、とナナはとりあえず携帯をオフにした。胸に当て、ゆっくりと、しかし周囲の乗客に気付かれないよう深呼吸をして、吊皮を強く握る。
 昨日の今日で、どうして職場まで分かったのだろう。自宅ならアヴァロンの帰りにつけられていたのかと思うが、それならば昨日の帰り道で何かあってもおかしくない。それとも、個人情報を入手するような手段でもあるのか。
 どちらにしろ、今ピンチであることに変わりはない。
 呼吸は整ったけれど、心臓の鼓動は早い。ナナは一旦オフにした携帯を再度起動させ、アルバムのアプリを開いた。
 二年前からは考えられないくらい、たくさん保存された写真。そのほとんどは、アヴァロンでのものだ。リン、智也、圭介、アヴァロンで出会った友人、そして冬馬。
 リン以外はアヴァロンでしか会わないけれど、それでも少し愚痴をこぼせば親身に聞いてくれて、励ましてくれる。くだらないことで笑いあって、馬鹿みたいに大騒ぎして、小さなことで喜んで、誰かが傷付けば一緒に泣いて、怒って、また笑って。そんなことができる、大切な仲間だ。
 ナナは、声もなくリンの名を呼んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み