第14話

文字数 3,822文字

 佐々木いわく、熊田が好きなファミレスは、関西を中心にお手頃価格で和食を提供する和食レストランだ。年を重ねるごとに洋食より和食を好むようになり、家族と外食する時は必ず候補に入る。子供二人からは「またぁ?」と苦い顔をされるため、時折昼食に利用するようになった。
 メニューも豊富でお手頃価格、というのも選んだ理由の一つだが、最大の理由は座敷の個室があることだ。入口で対応してくれた店員にその旨を伝えると、まだ客が少ないこともありすんなり通された。
 熊田と佐々木、テーブルを挟んで妙子が席につく。程よく冷えた店内に一息ついてから、それぞれが日替わり定食や和膳を注文した。
 扉の向こうから店内のざわめきが微かに届く中、先に口を開いたのは妙子の方だった。
「今日は、本当にありがとうございました」
 深々と頭を下げた妙子に、ほうじ茶をすすっていた熊田と佐々木は湯のみを静かに置いた。妙子はゆっくりと頭を上げ、あの、と遠慮がちに尋ねた。
「岡部は……」
 熊田は一拍置いて答えた。
「救急隊員の話では、おそらく腎臓病ではないかと」
 妙子は顔を曇らせた。心配そうな表情ではあるが、何に対しての心配なのか。
「それで……」
「ええ、多分」
 そうですか、と妙子は小さく呟いて湯のみに視線を落とした。あの様子では検査すらしていないだろうが、しかし病に冒されていることくらいは気付いていただろう。だからこそ、娘に会いに京都へ戻ってきた。けれど結局、会えなかった。
 妙子が脱力するような息を吐いて、自嘲気味の笑みを向けた。
「お二人がいて頂いて、良かったです」
「え?」
 揃って瞬きをする。
「もし、私だけであの話を聞いていたら……何をしていたか……」
 視線を逸らし、語尾を小さくして呟いた妙子は、酷く怯えた顔をしてまた俯いた。そんな彼女を見て、佐々木が静かに問うた。
「あの、不躾かもしれませんが、どうしてそこまで……」
 いくら家政婦とはいえ、あまりにも思い入れが強すぎるのではないか。言外にそう言った熊田と佐々木に視線を上げ、妙子は気を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。
「今から、もう二十年も前の話になります。夫が、仕事中に胸の痛みを訴えて病院に行ったんです。検査の結果、異常なしとしてそのまま帰されました。私が夕方頃にパートから帰ると、夫が酷く苦しんでいたので慌てて救急車を呼びました。その間に意識がなくなり、別の病院で処置が行われましたが……手遅れでした」
 熊田と佐々木は息を詰めた。もしかして、という思いと、まさかという思いが同時に湧き上がる。
「お医者様に事情を説明すると、心筋梗塞が見落とされた可能性があると言われました。そこで弁護士さんに相談したところ、同じ答えが返ってきました。まさかと思っていたので、信じられませんでした。ですが、過去にそういった事例は実際にあるそうです。証人尋問で医師は見落としを認め、和解が求められ……私は、それを受け入れました。しかし――」
 妙子は一拍置いて、目を伏せた。
「医師の口から、直接の謝罪はありませんでした」
 熊田と佐々木から同時に痛々しい息が漏れ、妙子は気持ちを立て直すようにほうじ茶を喉に流し込んでから、再び口を開いた。
「私は、どうしてもそれが許せませんでした。だからせめて一言謝って欲しくて、病院へ行きました。――鞄に、包丁を忍ばせて」
 最後に付け加えられた言葉に、目を剥いた。そんなことをしそうな人には見えないのに。
「こんなことしてはいけないと分かっていても、どうしても抑えきれなくて……、でも、いざとなると怖くて。矛盾してますよね」
 自嘲気味に笑った妙子に、そんな、と佐々木が呟いて、熊田と共にほんの小さく首を横に振った。見落としを認めたにも関わらず、直接の謝罪はない。許せなくて当然だ。和解すればそれでいいという話ではない。しかしそれでも躊躇うのは、人として当たり前の心理だ。
「途方に暮れて、病院の近くにある公園のベンチでぼんやりしていると、男の方に声をかけられました。それが、栄晴様でした。ご友人が入院されていて、お見舞いがてら散歩に来ていたそうです。ちょうど桜の季節だったので、栄晴様は私の隣に腰を下ろして、静かに桜を見上げておられました。しばらくして、こう尋ねたんです。後ろに立っている、右の眉に傷がある男性は旦那様ですか? と」
 え、とつい驚きの声が漏らした熊田と佐々木に、妙子はくすりと笑って頷いた。
「夫には、二人の息子たちが小さい頃、誤っておもちゃをぶつけてできた傷がありました。それが、右の眉です」
 妙子は右の眉尻辺りに指を当て、切るようにして下へ引いた。
「もう驚いたのなんのって。初めは夫の知り合いかと思ったんですが、違うとおっしゃるし。私がぽかんとしている間に、栄晴様は夫の特徴を次々と言い当てて、ますます驚きました。それを見て、少し楽しんでらっしゃったようにも思えます」
 その時のことを思い出したのか、妙子はくすくすと小さく笑って肩を震わせた。ひとしきり笑ってふと息をつき、笑みを湛えたまま続ける。
「そして、おっしゃいました。心配しておられますよ、と」
 先日の朝、紺野が車の中で飲み込んだ言葉を思い出した。ともすれば気味悪がられるかもしれない、彼らの能力。彼も承知していたはずだ。
 土御門栄晴という人間がどんな人物だったのか、興味が湧いた。
「情けないことに、号泣してしまいました。突然夫を亡くしたことへの悲しみや、これからの生活への不安。一人で子供を育てていける自信がないこと。それと、あの日夫から連絡が来た時、どうしてすぐに帰らなかったのかという後悔。知らない女のそんな身の上話を、栄晴様は黙って聞いてくださいました。ひとしきり話し終えたあと、栄晴様はおっしゃったんです。よろしかったら、うちで家政婦として働きませんかと」
 は? という言葉を飲み込んだ。またずいぶんと唐突な話だ。きょとんとして瞬きをする熊田と佐々木に、妙子は少し困り顔をした。
「突然でしょう。私も驚きました。もう驚いてばかりで、正直少し警戒しました」
 そうでしょうね、と頷いていいのか分からず、代わりに体がわずかに前後した。
「栄晴様は敏い方でしたので、そんな私の気持ちを察したんでしょう。いつでもご連絡くださいと言って名刺を渡され、そのまま何も言わずに去って行かれました」
 言葉少なに相手の気持ちを尊重し、茶目っ気もある。少しずつ、彼の姿が形作られていく。
「その頃、私はパートを休みがちになっていました。気持ちが追い付かないのもそうですが、パート仲間の方たちに気を使わせてしまうことが申し訳なくて。かなり迷って、一週間ほど過ぎた頃に連絡をしました。当時はまだ陽さんがお生まれになっておらず、栄晴様と奥様の佳澄様、明さんと晴さんの四人、それと家政婦さんが一人いらっしゃいました」
「貴方の前にも家政婦がいたんですか?」
 熊田が思わず口を挟むと、ええ、と妙子は頷いた。
金田冨美枝(かねだふみえ)さんという、七十過ぎの方でした。八年ほど前に亡くなっています。彼女が引退を考えていて、それで私に声をかけてくださったんです」
「そうですか。すみません、中断させてしまって」
「いえ……」
 と、妙子が続けようとした時、引き戸の向こう側から「失礼します」と声が届いた。注文の品がきたらしい。一拍置いて引き戸が開けられ、店員二人によって膳が運ばれてくる。
 それぞれの前に置かれ、店員が下がると熊田がとりあえずと笑みを浮かべた。
「先に食べてからにしましょう」
 はい、と佐々木と妙子が頷き、手を合わせてから箸を付けた。とはいえ、黙々と食べるのも何だか気まずい。と思っていたら、佐々木が尋ねた。
「栄晴さんは、どんな方だったんですか?」
「そうですね……大きな方でした。百九十くらいあったと思います。でもとても穏やかで、物腰が柔らかくて……」
 妙子は一旦言葉を切り、お吸い物をすすってから言った。
「おっとり、というよりは、ぽやんとした方でした」
「ぽやん?」
 蕎麦をつまんだ熊田と、サバの煮つけをほぐしていた佐々木が同時に聞き返す。妙子が頷きながら笑った。
「人としての器も大きく聡明でしたが、天然と言いますか、ちょっとずれている感じです」
「……そう、ですか……」
 紺野の明への評価は、頭の回転はいいがとにかく腹黒くていけ好かない狸、だった。千年以上前から続く家柄の、しかも祖先はあの安倍晴明である土御門家の当主が天然と腹黒狸。アリなのかそれ、という言葉を蕎麦と一緒に飲み込んだ。
「その分、奥様の佳澄様がしっかりしておられました。本当に美しくて気丈な方だったんですよ。栄晴様は、よく奥様と冨美枝さんに叱られていました」
「叱られ……そうですか……」
 妙子からしてみれば当然の光景で懐かしいのだろうが、何だろう。やはり、どんな立場であっても旦那は嫁に敵わないのだろうか。
 複雑な顔で蕎麦をすする熊田と、炊き込みご飯に手を付ける佐々木を見やり、妙子が追い打ちをかけた。
「そういえば、初めて土御門家でお会いした時、栄晴様は晴さんを背中に乗せてお馬さんごっこをしていらっしゃいましたね」
 熊田は、ごふっと噴き出しそうになった蕎麦を根性で押しとどめた。妙子がうふふと楽しげに笑う。咳き込む熊田の背中を、佐々木が慌ててさすった。
 格式が高く、気品ある気高いイメージがあったのだが、完全に崩壊した。
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