第2話

文字数 5,228文字

 時間外通用口をくぐって右手の守衛室と非難階段、左手の公衆電話と三基のエレベーターを横目に通り過ぎると、目の前に診察室がずらりと並び、左手に広い待合室が現れた。必要最低限の明かりしか点いていないが、ナースステーションの明かりで暗くはない。
 他に患者はいないのか、それとも診察中なのか、近藤は一番後ろの端の席にぽつんと座っていた。猫背をさらに丸くし、うなだれた背中に胸騒ぎがした。
「……近藤」
 夜勤の看護師がいるのにやけに静かな待合室に声が響く。近藤が、夢から覚めたようにぴくりと肩を震わせて顔を上げ、ゆっくりと振り向いた。駆け寄る紺野の動きに合わせて視線が動く。
 側で立ち止まった紺野を見上げる近藤の左腕には包帯が巻かれ、よく見ると黒いパンツや靴には大きな染みができており、前髪の隙間からわずかに覗く目はぼんやりとして虚ろだ。紺野はごくりと喉を鳴らし、呟くように問うた。
「北原は……」
 近藤は一度瞬きをした。
「まだ、手術中」
 ぽつりと返ってきた答えに、紺野は静かに息を吐いて胸を撫で下ろした。まだ安心はできないけれど、ひとまず聞きたくない言葉を聞かずにすんだ。
「ついさっき、お兄さん夫婦が来た。東山区に住んでるんだって。僕の聴取は、一応終わってる。監視してた人たちも、呼び出しがあって戻った」
「そうか……」
 北原がこんなことになって監視は必要なくなり、捜査員たちに緊急招集がかけられたからだろう。それに、今は紺野についていた監視二人の姿もない。中までは入って来ないか。都合がいい。
 紺野は包帯に視線を留めた。
「大丈夫か、それ」
「うん、大したことない。それよりさ、紺野さん」
 言いながら、近藤はゆっくりと腰を上げた。うん? と聞き返そうとした間際、信じられない力で腕を掴まれ、勢いよく引っ張られた。視界が歪み、どすんと尻もちをついたような音と共に椅子の前足が浮き、看護師たちが一斉に振り向いた。椅子に押し倒されたのだと分かった時には、すでに近藤の顔が至近距離にあった。
 両方の肘掛けに両手をついて、覆いかぶさるように紺野に迫った近藤が、小さく低い声で尋ねた。
「ねぇ、鬼代事件って何? 紺野さんたちは、一体何を調べてたの?」
 ゆっくりした口調と、長い前髪の隙間からこちらを見据える目に、紺野は息を飲んだ。見開かれた目には、静かな怒りの色がはっきりと見て取れる。落ち着いているとか、気落ちしているとか、襲われてショックを受けているとか、そんなものではない。これまでの態度は、ずっと、怒りを押し殺した故のものだったのだ。
「僕はね、あの場にいたんだよ。何もできずに目の前で仲間をやられたんだよ。分かるでしょ」
 まさか近藤の口から仲間などという言葉が出てくるとは思わなかった。友達とか仲間とか友情とか、そんな感情はくだらないと感じるタイプだとばかり思っていた。だからといって、話すわけには。
「紺野!」
 近藤から視線を逸らした時、下平の声が響き渡った。近藤が顔を上げた。
「何してんだ!」
 叫びながら駆け寄り、下平が近藤の肩を掴んで引き剥がした。
「下平さん待っ」
「誰だ、お前」
 慌てて腰を浮かした紺野の言葉を遮り、下平は近藤から紺野を庇うように間に立ち塞がって、威嚇するように睨みつけた。近藤が不快そうに口をへの字に曲げた。
「それはこっちの台詞だよ。あんたこそ誰」
 剣呑とした空気に口を挟んだのは、看護師の一人だった。
「あの、お静かに願います」
 少々怯えた顔で注意され、下平と近藤が我に返った。紺野がすみませんと看護師に謝り、改めて腰を上げる。北原の容体は気になるが、家族が来ているのなら任せて、今自分がやるべきことをやらねば。だが、外に出るのはまずい。
 紺野は声を潜めた。
「下平さん、近藤、非常階段へ」
「近藤……?」
 下平が驚いたように反復して、近藤を凝視した。
「お前が近藤千早か」
 呼び捨てが気に食わなかったのか、近藤は返事もせずにぷいとそっぽを向いて時間外通用口へ足を向けた。一方紺野は、違和感を覚えた。近藤から連絡があったと言ったはずなのに、どうして彼がそうだと分からなかったのだろう。
 近藤の後を追いながら、下平が尋ねた。
「北原の容体は」
「まだ手術中だそうです」
「……そうか」
 紺野は、近藤の背中を睨むように見据える下平の横顔を、ちらりと横目で窺った。
 一階であるためか、防火扉が開けられた非常階段へこっそり忍び込む。踊り場に取り付けられた照明で十分明るいが、人に見られると都合が悪い。階段で二階の踊り場まで上がると、示し合わせたように三人が足を止めた。
 振り向き、気だるそうに腕を組んで背中を壁に預けた近藤が、声量を落として尋ねた。
「それで? このおじさん誰」
「下京署の下平だ」
 下平が険しい顔のまま自ら名乗った。
「下京署……?」
 近藤が下平に顔を向け、確認するように呟いた。
「もしかして、工事現場で高校生が襲われた事件の?」
「察しがいいな」
 意味深な喧嘩腰の口調に、近藤が辟易した様子で溜め息をついた。
「あのさ、さっきから何なの? 初対面だよね。喧嘩売られる心当たりないんだけど」
「本当にないか?」
「……どういう意味?」
 怪訝な声で問い返され、下平が食い入るように近藤を見下ろす。
「下平さん、ちょっと待ってください」
「紺野」
 険悪な空気に堪らず紺野が口を挟むと、下平が顔を向けた。
「こうなった以上隠す必要はねぇ。お前、こいつの行動に疑問を持たなかったのか」
 もしやとは思ったが、やはりか。下平だけでなく、おそらく明たちも同じだ。電話で気を付けろと言ったのは、近藤が絡んでいたから。質問の意味を察し、紺野は真っ直ぐ下平を見返して尋ねた。
「少女誘拐殺人事件の件ですか」
 下平が目を丸くした。
「お前気付いて……。なんで……っ」
 下平は、荒げかけた声を、はっと気付いて一旦飲み込む。
「なんで言わねぇんだっ」
「近藤は違うからです」
 きっぱりと言い切った紺野に、下平は眉を寄せた。
「根拠は」
「以前、二度ほど同じことがあったんです。別件だと思われていた事件の相互性に近藤が気付き、調べたところ解決に至りました」
 近藤が、性格に難はあるが仕事はできると評価される所以だ。
「鬼代事件は長期的に計画されている。今回のための布石かもしれねぇだろ」
「自分が企てた事件の遺留品鑑定をしても、結果は見えています。近藤の性格からすると、『面白くない』と思うはずです」
「面白くない……?」
 下平が不謹慎なと言いたげに眉をひそめ、近藤はうんうんと頷いた。
「こいつはそういう奴です」
 近藤から資料を受け取って相互性に気付いた時、久々に来たかと思った。けれど、前例があるからといっても近藤の見立てがいつも正しいとは限らない。だが犬神と遭遇して鬼代事件と繋がり、すぐに誘導されているのではと思った。
 もちろん、布石である可能性も考えた。鬼代事件の犯人は複数。近藤でなくても、誰かが件の犯人を何かしら、例えば金で雇って事件を起こさせ、「近藤千早はこういう人物だ」と印象付けるためのものだった、という可能性もなくはない。けれど件の犯人たちからは、誰かに雇われた、頼まれた、そそのかされたという供述はなく、誰かと接触した形跡もなかった。それに近藤の性格を加味すれば、協力者である可能性は否だ。
「それに、事件が起こった時、どの刑事が担当するか分かりません。もし布石だとしたら、新人が配属されるたびに同じことをして印象付けなければいけない。俺たちが話すという確証がないですから。しかし、ああいったことは三年前、北原が配属されてから一度もないんですよ。近藤から話を振られることもなかったですし、同じことがあった時、先入観を持たせないために俺も話していません。だから北原は知らなかったんです」
「つまり」
 近藤が口を挟んだ。
「北原くんと下平さんは、僕が鬼代事件の犯人だと疑ってたわけだ」
「そうだ。まだ疑いは晴れてねぇぞ。お前のことを知らない俺が納得するには、根拠が弱い」
 近藤が大きな溜め息をついた。
「疑り深いなぁ」
「人の命がかかってんだ、慎重になって当然だろうが。この件だって、こっちに潜り込むための自作自演だとも考えられる」
 本人を目の前に忌憚なく言い放った下平を見上げ、近藤は「ふぅん」と意味深な相槌を打った。
「じゃあ、これは?」
 そう言うと近藤は尻ポケットを探り、一冊のメモ帳を取り出した。血痕を拭き取った跡があるそれは、見慣れたものだ。
「北原くんから預かった。紺野さんに渡してくれって」
「北原に?」
「本当にそう言われたのか」
 受け取る紺野とは逆に、下平は疑いの姿勢を崩さない。
「本当だよ。それと伝言。たいら、だって」
 紺野と下平が同時に目を剥いた。
「その顔は心当たりがある顔だね。もしかして、襲ってきた奴の名前?」
「そうだ。だがそれだけじゃ潔白の証明にはならん」
 近藤はうんざりした様子で頭を掻いた。
「あいつさ、クスリやってるんじゃないかってくらい目付きヤバかったけど、正確に僕の顔目がけて蹴り入れてきたんだよね。あれが普通なら、相当ヤバいよあいつ」
「お前のその怪我、平良にやられたのか」
 下平が尋ねた。
「そうだよ。おかげで打撲だよ打撲。冗談じゃないよ、何あれ」
 下平が腕を組み、思案するように顎をさすった。けれど目にはまだ疑いの色を滲ませたままだ。
「お前、よく防げたな」
 何気なく紺野が尋ねると、近藤は一瞬不満そうに口をつぐんで、ぼそぼそと答えた。
「子供の頃から空手やってるんだよ。でも護身術程度だし、ここ最近は忙しいからサボってるけど」
「空手? お前が?」
 そのわりには姿勢が悪すぎやしないか。意外な答えに紺野が目を丸くすると、近藤は苛立ったように溜め息をついた。
「あともう一つ。これで納得してくれなかったら、もう諦める」
 近藤はそう前置きをして言った。
「あいつ、僕が蹴りを防いだ時に言ったんだ。何もんだお前、って。北原くんを監視してた二人も聞いてるはずだから、聞けば分かる」
 この証言は、おそらく決定打だ。それに、防犯カメラ映像を確認すれば、声は分からなくても様子くらいは確認できる。蹴りを防がれたことに驚いてそう尋ねたのなら、動きが止まったはずだ。
 紺野は唇に手を添えて思案する下平を見やった。やがて、下平が腕を解いて顔を上げた。
「本当に信じていいんだな?」
「そう言ってるでしょ。もし僕が犯人だったら、気の済むまで殴っていいよ」
「その言葉、忘れんなよ」
 はいはい、と近藤が肩を竦めておどけてみせた。下平はしばらく近藤の顔を見つめ、降参とばかりに嘆息した。
「分かった。疑って悪かったな」
 さらりと謝罪を口にした下平を今度は近藤がしばらく見上げ、口元に笑みを浮かべた。
「なんだ、堅物だと思ってたら素直なんだね」
 可愛気のない返事に下平は一瞬きょとんとした顔をし、ふっと噴き出した。
「何? 僕おかしなこと言った?」
「いいや」
 そう言いながらも肩を震わせる下平と首を傾げる近藤を眺めて、紺野もまた笑みを浮かべる。下から人の声と複数の足音が聞こえた。北原の家族だろうか。
 ひとしきり笑ったあと、下平が紺野に視線を向けた。
「それにしても紺野。いくら近藤が違うって分かってたとしても、気付いてたなら言えばよかっただろ」
「すみません。下平さんなら気付いたら指摘してくると思っていたので。北原も、いくら以前のことを知らなくても近藤のことをよく知ってますし、まさか疑っているとは思わなくて」
「そうだよ。下平さんはともかく、北原くんは僕のこと知ってるんだよ? ちゃんと謝ってもらわなきゃ」
 近藤は心外そうに言って腕を組み、下平は自嘲気味に嘆息した。
「余計な気ぃ回したのが裏目に出たか」
「余計な気? ですか?」
「仲が良いんだろ、お前ら。北原も言ってたぞ」
 紺野は心底嫌そうに顔を歪めて近藤と顔を見合わせ、同時に下平を振り向いた。
「別に仲良くありませんっ」
「そうそう、仲良しなんだよ」
 デジャヴだ。声量を押さえた真反対の答えに、下平は声を殺して笑った。北原の時といい、下平の感覚はどうなっている。
 まったく、と紺野は一つぼやいて、ふと手の中のメモ帳に目を落とした。
 近藤と仲が良いと言われるのは心外だが、少なくとも北原と下平はそう思っていた。だからこそ、もし近藤が犯人だった場合を想定して言わなかった――いや、言えなかったのだ。もし逆の立場だったら、悩んだ末に同じことをするかもしれない。
 紺野は乱暴に頭を掻いた。
「……ありがとうございます」
 ぽつりと呟いた声に、下平は「おう」と言って微笑んだ。
 メモ帳には、生々しい血の跡が残っている。近藤を疑っていたのなら、おそらく少女誘拐殺人事件の捜査資料のことを尋ねようとしたのだろう。しかし、何故わざわざ近藤にこれを預けたのか。話しそびれた疑問でも書いてあるのか、それとも――。
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