第1話

文字数 2,533文字

 何の前触れもなく、目が覚めた。
 ぼんやりとした視界に映ったのは、見知らぬ白い天井。どこだここ、と考える余裕もないくらい頭がぼんやりして、全身が酷くだるくて重い。自分の体ではないようだ。
 不意に、微かな人の話し声を聴覚が捉えた。ぼそぼそと小声で、まるでひそひそ話をしているような声。そして、カタン、と乾いた音が響き、続けて布が擦れる音と、ぱたん、ぱたん、と床を叩くような音が近付いてきた。スリッパを履いて歩く時の足音。ゆっくりで、どことなく遠慮がちだ。
「兄さん……?」
 囁くように、けれど驚いたように名前を呼んだのは、聞き慣れた声。
 ――ああ、陽か。
 まだはっきりしない頭がやっとそれだけ認識し、無意識に姿を探そうと視線が泳いだ。そこへ覆い被さるようにして覗き込んできたのは、今にも泣きそうな顔をした弟だった。
 お前なんて顔してんだ。いつもなら笑ってそう突っ込むのに、声が出なかった。喉が干上がっている。
「おー、起きたか。馬鹿主」
 次に悪態と共にひょっこり視界に入ってきたのは、にやついた顔をした憎たらしい式神だ。誰が馬鹿だこの単細胞。頭は少しずつ覚醒しているのに、やはり声は出ない。
「あ、水持ってきます」
 うっすらと口を開けたままの晴に、陽が察して素早く身を翻し、志季はしょうがねぇなとぼやいて腰を折った。背中の下に腕を差し入れて、ゆっくりと上半身を起こす。とたん、ぐにゃりと視界が歪んだ。とっさに息を詰め、俯いて片手で顔を覆う。
「貧血か。まあ、あれだけ出血すりゃあな」
 志季がぽつりと呟いた。
 貧血、出血。誰が――そうだ。
 今にも酔いそうなくらいぐらぐらと揺れる頭が一気に覚醒し、記憶が蘇った。
 巨大結界を発動させるために伊吹山へ向かい、満流と対峙した。腹立たしいことに、実力差は歴然だった。激しい攻防戦の末に脇腹を抉られ、大量の出血と痛みで身動きが取れず、死を覚悟した。満流の攻撃を受けた陽が倒れ、このままでは殺されると思った。だから、どうせ死ぬのならと、徐々に薄れていく意識をかろうじて保ち――行使した。神降ろしの呪を。
 晴は顔を覆っていた手を恐る恐る外し、見開いた目でその手を凝視した。
 ――何で、生きている?
 体の傷は、不動明王を降ろした際に治癒したのだろう。全身の倦怠感は出血と、不動明王を降ろした反動。人の体に神を降ろせば負担が大きくて当然だ。だが、あの術の対価が霊力だけで済むはずがない。
 第六感が働いた。
 ――誰が、対価を支払った?
「……な……」
 何で、と言いかけて驚いた。自分のものとは思えないほど、掠れた声。
「晴、ちょっと下がってもたれろ。そのままだとしんどいだろ」
 聞こえているのかいないのか、志季は平然と言いながら枕を宮に立てかけて、クッション代わりにした。そんな志季をゆらりと見上げる。陽が、水のペットボトルの蓋を開けながら舞い戻ってきた。
「は……っ、けほ……っ」
 陽、と言い終える前に喉が痛み、咳き込んだ。
「兄さん……っ」
「おいおい、大丈夫かよ」
 軽い口調で言いつつも、志季が何度も空咳を繰り返す晴の背中をさする。やがて収まった頃、陽が安堵の息を吐いた。
「兄さん。とりあえず飲んでください。喉、乾いてますよね」
 そう言って差し出した陽の目は、驚くほど冷静だった。頭で考えるより先に、本能で手が伸びた。
 晴はペットボトルを受け取ると、一口だけ口に含んで少々苦しげに飲み下した。じんわりと喉が潤っていく。それから一気に半分ほど飲み干し、大きく息を吐き出して、手の甲で口を拭った。
 全身に水分がいきわたり、頭が冴えていく。
 もし、もしもだ。自分の代わりに誰かが対価を払ったのだとしたら、陽がこんなに冷静にいられるはずがない。それに、各地では戦いの最中で、まさか神降ろしの呪を行使したとは誰も思わないだろう。唯一察することができたのは、宗一郎たち。だが、彼らの所に式神はおらず、移動手段がなかった。つまり、誰も自分の代わりに対価を支払うことなどできないのだ。しかし神との契約は覆せない。ならば、不動明王との間で交渉が行われ、何らかの条件が加えられたと考える方が現実的だ。
 晴は手で顔を覆い、もう一度深く息をついた。自分も陽も生きているのならば、不動明王がどんな条件を出してきたのか何となく分かる。そして陽と志季は、自分の気持ちを汲んでくれた。二人には辛い思いをさせてしまったけれど、そもそも死ぬ覚悟で術を行使したのだから、今さら未練もない。この安堵感は、誰も自分の身代わりになっていないことへのものだ。
 晴は顔を覆っていた手を喉へ下ろし、うっすらと口を開いた。
「あ……あ、あー」
 恐る恐る発した声は、いつもの自分の声に戻っていた。痛みもなくなっている。ほっと胸を撫で下ろす。
 浮かない顔なんぞしていたら、話すことも話せないだろう。晴は一つ咳払いをして、少しぎこちない笑みで陽と志季を見上げた。
「世話かけて悪かったな。志季、お前がここまで運んでくれたのか? あとで車取りに」
「晴兄さん。動けるようでしたら、先にお風呂に入られますか。それとも、報告を?」
 陽が人の話を遮るなんて。こちらを見下ろす陽と珍しく真剣な面持ちの志季に、晴はわずかに顔を強張らせた。二人が纏う張り詰めた空気は、怒りではない。明らかな緊張だ。神降ろしの呪を行使したことへの叱責なら緊張する必要などないし、真っ先に志季が責め立ててくる。ということは、二人が緊張しているのは、「報告」の内容に対して。
 どちらか決めあぐね、晴は視線を逸らしてペットボトルを握る手に力を込めた。胸がざわつく。嫌な予感がする。聞いてはいけない、聞きたくないと第六感が警鐘を鳴らす。二人がここまで緊張感を漂わせるような「報告」とは、どんな内容なのだ。もし、推測とは違った結末だったとしたら――いや、あれ以外の結末など考えにくい。
 そう思うのに、二人の態度が不安を煽る。
「……報告を」
 喉の渇きは治まっているのに掠れた声は、自分でも分かるほど緊張していた。
「はい」
 俯いたまま顔を上げようとしない晴を見据え、陽と志季は隣のベッドにゆっくりと腰を下ろした。陽が深く息を吸い込んで、静かな声色でそれを語った。
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