第5話

文字数 4,276文字

「晴」
「はいっ」
 不意に名を呼ばれ、晴は反射的に姿勢を正した。しまったと思った時にはもう遅かった。嚙み殺された低い笑い声を聞きながら、晴はバツの悪い顔をした。こちらが文句を言えないと分かった上でこれだ。このおっさんは、と苦々しい思いが込み上げる。
 ひとしきり笑ってから、宗一郎は唐突に告げた。
「エゴだよ、晴」
 脳みそがフリーズした。エゴ。何の話だ。
「――は?」
 意味が分からなさ過ぎて思わず出た間抜けな声に、再び宗一郎が喉を鳴らした。これは完全に遊ばれている。苦々しい思いが苛立ちへと変わる。こんな時くらい真面目に話せないのか。
 こちらの苛立ちを知ってか知らずか、しばらくして、宗一郎は気を落ち着かせるように長く息を吐いた。
「お前が……いや、お前たちがと言った方が正しいか? お前たちがどう思うか分かっていて、私は不動明王と交渉した。私は自分がしたいようにしただけだ。エゴ以外の何物でもない。だからお前たちが責任を感じる必要はない――と言ったところで、お前たちは納得しないだろうな」
 見透かされている。沈黙は肯定。宗一郎が続けた。
「ならば、お前はその力をさっさと使いこなせるようになりなさい」
 思いもよらない提案に、晴は目をしばたいた。
「え、は?」
「そして、明と陽を守れ」
「待て、何の話……」
「申し訳ないと思っているのなら、私の言うことが聞けるな?」
 要するに、処罰の話らしい。だが何故、宗一郎を身代わりにしてしまった処罰が、明と陽を守ることなのか。そんなこと言われなくても分かっているし、処罰としては不適当だ。宗史を、ならばまだ納得のしようがあるのに。
 やっぱり、この男の考えていることはよく分からない。分からないが、あれこれ指摘や反論ができる立場でもない。ただ、宗一郎がこちらの心理状態を全て見透かした上でこんな処罰を下したことだけは分かる。
 改めて、理解した。
 陽はきっと、どんな理屈を並べ、どれだけ時間をかけて説得しようとしても、絶対に首を縦には振らないだろう。例え口では分かったふりをしたとしても、心の中で一生罪悪感を抱えて生きていく覚悟なのだ。そしてそれは、きっと宗史も同じだ。彼のことだ。あの「ありがとう」は、「賀茂家(おまえら)の責任じゃない」と言ったことに対してのもので、納得したからではないだろう。栄晴の死は賀茂家の責任だと、これから先ずっと抱えて生きていくつもりなのだ。また大河も同じだ。宗史からどんな説得をされたとしても、影正から「お前が責任を感じる必要はない」と言われても、はいそうですかと頷く奴ではない。
「ありがとう」は、お前のせいじゃないと、責任を感じるなと言ってくれた者の優しさへの答えであって、心の中でどう思うかは、本人の勝手なのだ。
 それは、自分も同じだ。共に罪を背負うと言ってくれた陽に礼を言っても、本音は違う。宗一郎に何を言われても、どんな正論や理屈を並べられても決して納得などしないし、どれだけ過酷な処罰を受けても、この罪が消えるなんて思わない。一生抱えて生きていく。例え、宗一郎が望んでいなくても。
 宗一郎はそれを理解した上で、こんな処罰を下した。一見こちらの罪悪感を利用したようにも思えるその内容は、狙いがあってもなくても、彼の優しさだ。ならば。
「承知しました」
 これが、正解なのだろう。
 電話の向こうで、宗一郎が満足げに微笑んだような気がした。
「他に何かあるか?」
 感傷に浸る暇もなく話を進めた宗一郎の声に、微かに布切れの音が重なる。
「ああ。宗には、俺が話す」
 迷いも躊躇いもなかった。幼い頃から隣にいて、気が付けば一緒に仕事をするようになっていた。二つ違いの幼馴染み。彼の性格はよく分かっている。筋は通さなければという責任感はもちろんあるが、ここで宗一郎に任せては、あとから何を言われるか分かったものじゃない。いっそ軽蔑されて、罵詈雑言と共に雪女も真っ青のあの冷たい目で見下ろされるのだ。想像するだけでも寿命が縮む。
 宗一郎が、ふ、と短く笑った。
「分かった。では、寮へ行く前に一旦うちへ寄りなさい。宗史にも伝えておく」
「ああ。あ、っと。それともう一つ」
「うん?」
 聞くだけ無駄だと分かってはいるが、念のため。
「陽から聞いたんだけどさ。誰、スーツの男二人組って」
「そのことか。お前がし……っ」
 突如、宗一郎が不自然に言葉を詰まらせた。
「どうした?」
 訝しげに尋ねるが、返ってきたのは沈黙だった。何だ、この不自然なほどの静けさは。不安が頭をもたげる。晴は身を乗り出し、おいどうした、と再び問いかけようとした――間際。
「あっはっは!」
「ちょっと明ッ!」
 これまた突然、宗一郎の弾けたような笑い声と尚の怒声が鼓膜を襲った。続けざまに、ぎょっとして離した携帯から、
「あんたおじさまを笑い死にさせる気!? ていうか何でその選曲なのよ、やめてよ、あたし彼のファンなんだから! あんた相変わらず音痴ね!」
 などと言った雑言が、遠ざかりながら漏れ聞こえた。
 くつくつとした宗一郎の笑い声を聞きながら、晴は深々と溜め息をついた。明は入浴中らしい。しかも歌いながら。
 それにしても、尚はさっきの処罰の話を聞いていたのか。まさか明も一緒にいたとは思いたくないが。マジか、と晴が一人顔を赤くしていると、宗一郎が笑いの隙間で言った。
「あっ、あいつは……っ、栄晴の才能をしっかり受け継いでいるな……っ」
「迷惑な才能だ」
 思わず出た突っ込みに、再び宗一郎の笑い声が響く。
 母の佳澄は、某大手企業が運営する音楽教室の先生であり、同時にピアニストだった。先生をする傍ら、依頼があればラウンジやバーでピアノを弾いていたらしく、栄晴と出会ったのも、とあるバーだったと聞いている。当然音感は確かで、歌も平均点以上だった。しかし反対に栄晴の音楽の才能は壊滅的で、幼い頃、添い寝をしながら歌ってくれた子守唄があまりにも酷く、大泣きをした記憶がうっすらと残っている。そしてその傍迷惑な「才能」は明へと受け継がれ、あまつさえ赤ん坊の陽に同じことをした。明の中で佳澄の才能の遺伝子は行方不明だ。
「あっ、もう、ほら見なさい。おじさま死にかけてる、ってこら明ぁー! 歌うなっつってんだろうが!」
 とうとうキレた尚の低い怒号がしたと思ったら、携帯を奪い取ったのだろう、もうあれ雑音よ雑音とぼやきながら電話口に出た。
「あ、晴? 久しぶり。悪いわね、もっとゆっくり話したいんだけど、どうせあとで会えるし、そろそろ支度しなきゃいけないから切るわね」
「は? え、ちょ……っ」
「じゃあね、あとでねー」
「待て尚……っ」
 一方的に喋ったと思ったら、尚は止めるのも聞かずに通話を切った。
「あいつ……」
 尚が神戸へ引っ越して七年。その間、明とは時折連絡を取り合い、出張で神戸へ行った時は会っていたようだが、晴たちは栄晴の葬儀以来、一度も顔を合わせていない。近況は明から聞いていたが、直接会うのは実に六年ぶりになる。昔から騒がしいというかマイペースというか、快活すぎる男ではあったが、六年経った今でも健在らしい。
 晴は携帯の画面を眺めて、二度目の深々とした溜め息をついた。結局、スーツの二人組の男の正体は曖昧に終わってしまった。
「まあ、どうせはぐらかされただろうしな」
 一応聞いただけなので別に構わない。そう言い聞かせて携帯を放り投げ、ゆっくりとベッドから抜け出す。恐る恐る腰を上げて、ほっと胸を撫で下ろした。まだ気だるさはあるものの、ひとまず貧血の症状は出ない。陽がせっかく風呂の支度をしてくれているのだから、ここは有難く入らせてもらおう。
 脱衣所は、壁や天井、床まで一面天然木で設えてある以外、一般家庭のそれと大差ない。広さもそこそこ。使い終わった二人分のタオルが畳まれて洗面台の端に置かれ、鏡や洗面ボウルには水一滴付いていない。アメニティもきちんとゴミ箱に捨ててある。間違いなく陽が片付けたのだろう。
 こういうところで性格が出るんだよなと苦笑しながら、晴は鏡に映った自分の姿に目を止めた。報告で聞いてはいたが、本当に服が昨日と違う。大量に流れたはずの血も付いていない。Tシャツを脱ぐと、深く抉られたはずの脇腹にはわずかな傷さえ残っていなかった。
「そりゃそうか……」
 神を降ろしたのだ。その人智を越えた力で治癒された。だから自分は今、生きている。
 下着まで着替えさせられていたことに一瞬固まったが深く考えないことにして、晴は浴室の扉を開けた。聞いていた通り、正面にはたっぷりの湯が張られた檜風呂と、その向こう側に大きな窓。温泉ではないらしいが、解放感は文句なしだ。
「へぇ、すげぇな」
 琵琶湖の水面が太陽の日差しを反射して、きらきらと白く輝いている。鮮やかな青い空とのコントラストが綺麗だ。
「は――……」
 かけ湯をして浴槽に身を沈めると、自然に長い息が出た。ちょうど良い湯加減に、檜の柔らかい香りが漂い、目の前には絶景。贅沢な朝風呂だ。
 しばしぼんやりと風景を眺め、静寂の中で晴はゆっくりと脇腹をさすった。あるはずの傷がないことが、否応にも現実を現実だと実感させる。
 宗一郎は「お前たち」と言い換えた。あれには、陽と志季、そして明も含まれている。ただ、呪を行使した時、明の側には尚がいた。風呂で歌うくらいだ。あの様子なら大丈夫だろう。表向き、だろうけれど。
『進む道を明るく照らし、清らかに晴らす、陽の光となれ』
 三人が揃って初めて、父の願いを意味するこの名前。単純に、陰陽師として目指すべき姿を示しているものだとばかり思っていた。もちろんその意味もあるのだろう。けれどきっと、一方的に守り守られるのではなく、兄弟三人で互いに助け合い、支え合って目指せと。そんな意味もあるのかもしれない。
 栄晴がもっと早く、この名前の意味を教えてくれていたら――。
 そんなことがふと頭をよぎり、晴は自嘲的な笑みを浮かべた。
「アホか」
 名前の意味や霊力量なんてどうでもいい。そう思えなかった。大河のように、相手を信じて成長を続ける道を選べなかった。割り切れなかったのは、自分の弱さなのに。
 栄晴と佳澄がこの状況を知ったら、どう思うだろう。逆の名前を付けたことを後悔しただろうか。意味を伝えずに死んでしまったことを悔やんだだろうか。
 今ここにあの人たちがいたら、どんな言葉をくれるだろう。
「――っ」
 晴は唇を嚙み締め、脇腹に添えた手を強く握った。
 迷いも躊躇いもない。それでもやっぱり――宗史たちの反応が、怖い。
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