くらしのアナキズム (2021/10/24)

文字数 2,533文字

2021年9月28日 初版第1刷発行 
著者:松村圭一郎
株式会社ミシマ



安倍長期政権+疑似政権の審判を問う国政選挙を1週間後に控え、興味深い タイトルの図書に出会った、
「くらしのアナキズム」とは…はて如何なるものか?
まずは、帯広告コピーをご紹介する、実に興味津々にさせられること間違いない。
【国家は何のためにあるのか?ほんとうに必要なのか? 「国家亡き社会」は絶望ではない。希望と可能性を孕んでいる。 よりよく生きるきっかけとなる、〈問い〉と〈技法〉を人類学の視点から探る】
僕も含めて人は生まれた時から国家の枠の中にいる、こんなことは当たり前のことだと思っている。

著者はエチオピアの山村で人類学のフィールドワークをしていた時の調査内容から論をスタートさせる・・・・・
1936年生まれの古老の村は生まれた時はイタリア統治下の植民地、1941年にエチオピア王国が成立し、1974年軍部クーデターで 社会主義に、内戦を経て1991年連合政権が生まれ現在に至っている。
その間、エチオピア帝国時代は貴族がやってきて土地を占有し税や小作料を課す、その土地からも追い出され森に住むが、領主が孫の代の1950年代にはコーヒー・プランテーション計画のためまたも立ち退きの憂き目にあう。
1974年からの社会主義時代には急進的な土地改革が実行され土地はすべて国が接収して国営になり農園労働者となる。その当時長男を徴兵され死亡、老後年金も結局もらえなかった。
それでもこの古老は今も畑を耕し、庭に野菜や果樹を植え、家畜を育て、泉で水を汲み。盛で薪をひろい、家を自分で補修し、薬草を採集し、神や聖者に祈りを捧げ、近隣の人と力を合わせて生きてきた。
ケンカやもめごとも、災いや生活の困窮も、できるだけ自分たちで話し合い、互いに手をさしのべ、解決する。
・・・・・では、国って何のためにあるのか?
本当に必要なのか?

この導入エピソードに、僕は思いがけず衝撃を受けた。
この国は貴重な税金を正しく使っているのだろうか?
今のパンデミックの中でこの国は何をしてくれたのか?
翻って、いったい僕は何を国に訴えてきたのだろうか、
いや、何を訴えなかったのだろうか?

本書のテーマは、「アナキズム」は「無政府主義」という言葉から連想される破壊的なカオスでもなければ、あらゆる政治制度を否定する 主張でもない。それは、むしろより民主的な政治が可能になる社会形態を目指す理念だ。ではどうしたらそんなことが実現できるのか。

政策とか選挙(多数決)とかを民主主義の要だと勘違いしてはいないか・・・と著者は誘導する。
コミュニティを破壊するかもしれない多数決、その真意は反対者にも無視されたり、排除されたと思わせない高度なコミュニケーションが 必要なのであり、今の政治には完全に欠落しているものである。
納得して次に進む。

今般のパンデミックで国は巨大な組織であるがゆえに無能で、無力だった。ではどうしたら自分たちで身近な問題を解決できるのか? そのために必要なものは何か?
国や政治家よりも、むしろ自分たち生活者のほうが問題に対処するカギを握っている・・という自覚が本来の民主主義を成り立たせる のではないか? 
選挙による多数決政治は政治のようなものに参加している錯覚を創る道具ではないか?
政治をないがしろにした結果、政治家たちをつけあがらせてしまった。
もう一度納得。

パンデミックによる医療崩壊、経済停滞を目の当たりにして、いかに日本が危機への準備をしていなかったことが露呈した。
政治とは意思決定することではなくて、そのための地道な準備をくらしの中で行うことであり、効率化やコスト削減が第一義になっては決してならない。まして政治が生産性を謳うのは論外である。
再々度、納得する。

今、政治や経済が日々の生活から遠く離れた場所にある、国会の審議も株価の変動も手の届かない出来事に感じる。
こんな時代にアナキズムを考えるということは、政治や経済を僕らの暮らしにどう取り戻せるかということだ。
国家などの大きなシステムに頼らず、下からの民主的な「公共」の場を作る、そのためのコミュニケーション技法を獲得する。
一人ひとりが今の問題にかかわる、例えば「貧困問題」を国や自治体任せにせずちゃんと向き合う、声をかける手をさしのべる。
僕が小さい時には、そんなことは日常にあったことを鮮明に思い出して、納得する。
他人に干渉せず他人から干渉されずにいることで、自由を手に入れたかもしれないが、所詮人間は一人では生きていけない。
今回痛感した通り行政は万能ではない、もう一度周りの人たちの目を見て話しかけることが「くらしのアナキズム」の第一歩になる。
経済とは産業構造を維持し自分たちの利益を出すためのものから、他者と共に生き残るた原理であると考えを変更する。
誰のために働き、商品やサービスを提供し、運び、売るのか?
どんな価値観や社会を実現し、誰の生活を支えるためにお金を払うのか、「宛先」のある経済めざす。
三度目の納得。

とは言いながら、現在地球上で国家の統制や商業主義経済から逃れられる場所を見つけるのは不可能でもある。
ただじっとして流れに身を任せるだけではこの大きな渦から抜け出すことはできない。ささやかな抵抗が必要になる、もしこのままでいいと思わないのであれば。
より良いルールに変えるには、時にその既存のルールを破らないといけない、サボったり、怒りをぶつけたり、逸脱することも
重要な手段になる、自分の思いに素直になればいいだけだ。
正しい理念や理想を掲げて一致団結して進むのではなく、たえずそれぞれの「くらし」に立ち戻りながら、能力に応じて貢献し、
異なる意見を持つ他者との対話を絶やすことなく、しかしながら問題に対処していく。
真面目であるべき対象を取り違えることの無いよう。
大切な暮らしを守るために日々の生活で嫌のことには不真面目になる。
ルールとか正しさとか国家とか民族のために・・・といった錯覚のために一人ひとりの暮らしが犠牲にされることの無いように。
まったくもって、納得した。
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