愛でもない青春でもない旅立たない (2020/7/29)

文字数 1,590文字

2005年9月20日 第1刷発行
著者 前田司郎
講談社



新刊書がどっさり届いたのはいいが、積読(つんどく)状態の本も結構気になって実は今、積読一掃をしているのだけども、積読にはそれなりの理由で積読になっているものや、もうとっくに積読以前になぜこの本が手元にあるのかもよくわからなくなっている本もある。
本書はその点 積読の由来はまだ覚えていた、ぼんやりではあるけれど。

きっかけは2016年の映画「ふきげんな過去」に妙に感動してしまったことにある、その監督・脚本が前田司郎さんだったというわけで、その時僕は前田さんの処女作と最新作(小説)を手に入れた、「きっと面白いに違いない」と思って。

なぜそんなに前田さんに入れあげた理由が当時のシネマレビューにある(以下) :
《 中略・・・主人公一家の会話がすばらしい、脚本の前田司郎さん(監督も)の才能が乱れ打ちしていた。できそうでなかなかできない、本当に日常で使われているリアルな会話がここに再現される。はたして、そんなリアルがシネマに必要なのか? シネマはつかの間の夢の世界を見たいのではないか? そんな迷いも吹っ切れた「しゃべくり」に呑み込まれていた僕だった。台詞、発する俳優のトーン、受けて応える相方の台詞、その微妙な間、あるいは間の消失。
そこには既存のシネマらしさはなかった、だが少なくとも意図的な臭さもなかった、素晴らしい。…中略 》

この会話とは 主演の二階堂ふみ(娘)と小泉今日子(母)の会話のことを言っている。

そうなのだ、前田さんは原型は劇作家、そのモットーとして「ストーリーに興味はない」という、この映画が奇妙なファンタジー模様だったのもわかる。

その時の手に入れた新作小説は「道徳の時間」と「園児の血」という短編2編セット、子供の世界を大人の視線で語る圧倒的「変さ」に僕の脳はしびれて壊れたようになってしまい、処女作である本作(ようやく出てきた)には当時手を出す勇気がなかった。

それ以来だとすれば、4年間ほど積読時代を過ごした本書であるが、よくよく見るとタイトルからして不真面目のように思えるのは、僕が映画ファンだからだけではないだろう、1982年制作のあの名作「愛と青春の旅立ち」を全否定するタイトルなのだから。
ちなみにリチャード・ギアとデボラ・ウィンガーは記憶に残るアメリカンカップルを演じていた。

閑話休題、
では本書はどんな内容の前田司郎処女作かというと、だらだらと学生生活を過ごす男の子のお話、それだけ。
2005年刊行の本書だがこの内容は僕の学生時代である1980年頃にそっくり、四半世紀日本の学生は進化も劣化もしていないことを証明するかのような、学友との付き合い、バイト、セックスへの興味、悪夢の描写が書き連ねられる。
僕には、自分の不満足な青春が時を経て復讐のために復活したのかと恐怖した、これは懐かしさでも後悔でもなくただの嫌悪感だと思った。

という一方的批判では申し訳ないので、本書の表紙に記されている作者のメッセージを以下引用する:
【 青春とか愛とか、さして中身のない言葉はいらない。誰かに愛されているのか、だれを愛しているのかだってわからない。 旅立つこともない。僕は毎日自分のふつうの日常を散歩しているだけ。だから、歩くための道はあった方がいい。 時間も空も、足も。誰かのために歩いているわけじゃないけど。日常はそれなりに不幸だし。今もどこかで誰かが死んでいて、どこかで誰かが生まれている。そしてすべての人は生を死に続けている。それにいちいち涙を流さない。ただ食べて、出して、オイシイとかマズイとか言いながら。 僕は何者でここはいったいどこなのか? まぁどうでもいいんだけど。リアルなことはあると思うけど。 リアルな・・・たぶん、この小説は。僕らの時代の現実は、そう簡単には・・・・。】

ねっ、とても「変」でしょう?
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