危ない 道徳教科書 (2018/10/10)

文字数 878文字

2018年9月15日 第1刷発行
著者:寺脇研
宝島社



著者は文科省キャリア官僚、今何かと話題の多いお役所出身の寺脇さんの緊急発信を拝見した。
2018年4月から「道徳」が小学校において教科化され、来年2019年からは中学校でも正式な教科としての道徳の授業が始まる。
つまり、今小学校の孫3人は1学期を終え道徳教科の評価採点がされたということである。
本当のところ、僕はこの件について何も知らなかった。
僕の時代にも、1958年から(僕は小学2年)「道徳の時間」という教科以外の教育活動があったことを知り、これまた全く記憶がないことに驚いた。
当時は、「道徳の時間」を他の遅れている教科に振り替えたり、週一時間の決まりも厳しいものではなかった…という背景があったのだろう。
だからと云って、僕は道徳心のない高齢者になってしまったかというとそうでもない、自分でいうのは何だけど。

著者の論点もそこにある。
道徳は教科書で教えるものではない、また教師が子供たちを採点できるものでもない、まさにその通り。
失礼な極論であるが、教師がいかほどに道徳に優れ教えるくらいの徳を持ち合わせているかはなはだ疑問である。
むろんこれは教師に限らず子供たちに接するすべての大人にも言えることである。

道徳とは教科書で教えるものでも、誰かがお喋りのなかで理解させるものでもない。
道徳は一人ひとり(大人も子供も)が自分で考えて悟り、間違い、修正し、形作っていくものだと信じている。

著者が心配しているのは、保守面をした現安倍政権が型にはまった「道徳」を推し進めようとし、それを忖度する役人、教科書会社が拙速で危険な道徳教育に手を貸していることだ、僕も全くその意見に賛同する。

憲法改悪による人権侵害、国家優先主義に抵抗できないような(戦前のような)子供たちをこれからどんどん洗脳しようとしている。
国のための犠牲は尊い、全体の秩序を乱す行為は身勝手だと洗脳し、一方で日本は優れた国家だから国に尽くせと。

道徳とは、誰かが教えるものではない。
子供たちは自分で考え、他人と話し合い、道徳を定めていけばいい、きっとできる。
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