少女を埋める (2022/2/10)

文字数 1,660文字

2022年1月30日 第1刷発行
著者:桜庭一樹
文藝春秋



「著者(桜庭さん)初の自伝的小説集」とはなんとも刺激的なコピーが付けられた帯ではないか!
早速予約購入したのは桜庭ファンとして、前作「小説 火の鳥 大地編」に肩透かしを食らうほどの不完全燃焼感を抱いていていたからであり、自伝的であろうとも、いや自伝的小説という未体験ゾーンにしかないような発見に大いに期待して早々に届いた本書を手にした。

表題タイトル「少女を埋める」の他に「キメラ」、「夏の終わり」の 2短編が含まれている。
読み始めるとすぐに強烈な違和感に襲われる・・・これは自伝ジャンルではなく日記・ブログではないか、それもかなり最近の? と。
内容はと言うと、2021年3月父親の看取りのための故郷島根帰省にかかわる本人一人称の記録、淡々と帰省中の出来事が綴られていくなか、僕は桜庭さんの赤裸々な告白を聞かされることになる。
故郷の田舎が嫌いなこと、両親から離れるために作家になったこと、母親の異常な干渉の数々。
自伝というよりは私小説それも家族小説の様相を呈してきた。
その矛先は、最期にはエイヤッと飛躍して現代社会批判になる。
こんな文章が出てくる。
(以下引用)
共同体とは、生命体に似た人間集合体だ、何しろ生命体だから、エゴイスティックな生命本能を持っている、状況の維持と規模の拡大こそがこの生命体の目的だ。いじめを隠蔽しようとする教育委員会も、セクハラの被害者や企業の内部告発者のほうを排除しようとする力も、個人の幸福でなく全体の利益と維持を目指す人たちも、一人の我がままを国家が合わせることはない、一億人以上いるのに少数派にはつきあえないと嘯く政治家も・・・
(引用終わり)
桜庭さんのこのような憤りは僕にもよくわかる、この2年間の鬱積した不合理な毎日、明るみに出てくる世の中の歪み、日本という旧弊なシステムにいら立つうちに、何か(例えれば故郷・家族)に八つ当たりしてしまう自分がいて、そのきっかけで自分を素直に開放するかすかな希望を感じる自分もまたいる。
という受け取り方もできよう、
とはいえ、
まるでドキュメンタリーのように、フィクションの要素など感じ取れない自称自伝的小説だった、最初の違和感は依然残ったままであった。

第二編「キメラ」を読み始めると、しかし様相ががらりと変わってくる。
「少女を埋める」と同じ日記・ブログ形式ではあるが内容は執拗な文学論争、そこから生み出される作家 桜庭一樹の矜持が綿々と放たれる。
朝日新聞 文芸時評に掲載された評論の中で「少女を埋める」に関する誤った評論を攻撃し、謝罪と訂正記事を要求する桜庭さんの生生しい息遣い溢れる主張に僕は圧倒される。
詳細をここに再現することは本レビューの目的とするところではないが乱暴にまとめると:
「少女を埋める」の中で母親(桜庭さんの)が亡くなった父親を看護の経過の中で虐待していたというような文章はどこにもない・・・(桜庭主張)。
小説であるからには文脈から想像することは読者の立場から不合理ではない・・・(評者主張)
「キメラ」は《少女を埋める評論論争》の顛末を細部にまで記録した歴史的証拠として書かれていることは、次の第三編「夏の終わり」に明確に宣言されている。
そこまでに桜庭さんが文学論争こだわった理由も明らかにされている、
母に迷惑をかけたくないから。
母や家族から逃れ独り立ちする強い心根を持つ少女が、今作家として大成し何ゆえに母の身を案じるのか?
ここが本作(三部作)の興味深くも切なくて女前なところだった。
桜庭さんは一人の人間として父・母を認めたうえで正直に二人を批判してきた、その事実は本作でしっかりと描かれている。
だが、そのことを他人から指摘されたり、まして糾弾されることには耐えられない。
それは文学者としての心構え以前、人としての優しさだったのだろう。

そう思うと、桜庭作品のひとつひとつが家族からの旅立ちであり、
家族への深い敬意に満ちたものであることに気づく。
ようやく僕の違和感は消えていってくれた。
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