その意味を知って思うこと
文字数 1,850文字
進撃の巨人の中で”進撃の巨人”がどんな思想でどんな役割の巨人なのか知った時、思わず笑いが漏れてしまった。それは面白いということで笑ったのではなく、どちらかと言うと苦笑いに近い。
簡単に説明すると、進撃の巨人とは他に影響されることなく、進み続ける”我が道をいく存在”なのだ。
これは推論に過ぎないが、宿主の性格によって道は違うのだろうと思う。
この主人公は恐らく”自己犠牲”によって大切なモノを守ろうとした。
大切なモノたちを信じ、想いを託した。
主人公の選んだ道とは”自分が悪者になることによって、世界に平和を齎 す”ことだったのだろう。その過程の中で敵、味方が同じ目的を持ち、協力し合う関係へとなっている。
だが”自己犠牲”は大切なモノの心を傷つける行為であることも忘れてはいけない。
何故、人は物語 に惹かれるのだろうか?
崇高な思想も信頼関係も、フィクションの中にしか存在しないと思っているからなのではないだろうか?
少なくとも自分は、裏切られたり利用されたりするような人生だったので、そんなものは物語の中にしか存在しないと思っている。中身のない会話はしたくないし、陳腐な関係も望まない。
一方的に頼られるのもごめんだ。
自分の足で立ち、崇高な思想を掲げ、良き信頼関係を築く。そんな相手がいたとして、出会えるのは何十億分の一の確率でしかない。
良い人間関係とは対等を差す。
物語を見て、こんな人物と友人になれたら……と思ったことはないだろうか?
物語の人物のような人間が実在しないことには、ある理由があると考えられる。
物語はフィクションだ。
フィクションだからリアリティを持たせる必要がある。
多くの物語には、実際に存在しそうな素朴な人物がたくさん出てくる。それはリアリティを持たせるため。仮に”スパダリ”と呼ばれる”人の理想の塊”であっても、探せばどこかには存在するはずだ。
しかし残念なことに、容姿に関しては”好み”というものがあるので、”誰から見てもスパダリ”になる可能性はないに等しい。
これは”フィクションをノンフィクションに変えるための壁”の一つだと思う。
『条件を全て満たす者は探せばどこかにいる可能性はあるが、それは万民にとってではない』
と言うことである。
人は”存在しないからこそ強く惹かれる”。
存在しそうでしない存在。これが一番、人を惹きつけるのではないか?
進撃の巨人で言えば、主人公や団長、ジャンやエルミンのようなタイプの人は世界中を探し回れば、どこかに存在はするだろう。この物語を見ていて、存在しそうで存在しないのでは? と思ったのはリヴァイ兵長である。
一つ一つの要素は、存在する。しかし複雑に混ざり合い絶妙なバランスで成り立つ。そのバランスが、逆に人間らしさを醸し出しているのである。
──閑話休題
しかしながら、物語の人物像のような人が存在しないという確定要素はそこにあるのではない。
物語の登場人物は”リアリティを持たせる”必要があるので、実在しそうな人物として描く。なので”実在しそう”ではある。だが同時に、彼らは”必然性”で組み立てられていることを忘れてはいけない。
何が言いたいのかと言うと、俺たちはあくまでも”彼らの一面”を見ているに過ぎないということ。
実在する人物は、提示されている面意外に色んな面を見ることが出来る。
しかし物語の人物と言うのは、どんなにエピソードを増やそうとも”彼らの一面”しか知ることはできない。それは作者の選んだ”彼ら一面”に過ぎない。
俺たちは知らず知らずのうちに、彼らの見えない部分を想像で補い、人物像を完成させているのだ。だから物語の人物とは人によって完成された姿は違う。
もしかしたら理想を押し付けているかもしれない。
結果として”物語の中の人物はこの世に存在しない”。
人は裏切る生き物。
裏切りとは”相手の期待を裏切る”ということを差している。
『裏切者』
それは自分の期待を裏切った、信頼を裏切った者に向けられる言葉。
しかし……誰も、誰であっても相手の期待通りになる義務はない。
絶対なる信頼関係は物語の中にしか存在しない。
それは、人間とは自由だから。
信頼を裏切ってはいけない義務がないから。
自由は人を解放し、同時に人を苦しめる。
自由の正体は解放と苦しみなのである。
物語は人に希望と光を与えるが、それと同時に絶望的としか言いようのない真理に気づかせる。
真実は自分の心の中にある。
いつだって。
簡単に説明すると、進撃の巨人とは他に影響されることなく、進み続ける”我が道をいく存在”なのだ。
これは推論に過ぎないが、宿主の性格によって道は違うのだろうと思う。
この主人公は恐らく”自己犠牲”によって大切なモノを守ろうとした。
大切なモノたちを信じ、想いを託した。
主人公の選んだ道とは”自分が悪者になることによって、世界に平和を
だが”自己犠牲”は大切なモノの心を傷つける行為であることも忘れてはいけない。
何故、人は
崇高な思想も信頼関係も、フィクションの中にしか存在しないと思っているからなのではないだろうか?
少なくとも自分は、裏切られたり利用されたりするような人生だったので、そんなものは物語の中にしか存在しないと思っている。中身のない会話はしたくないし、陳腐な関係も望まない。
一方的に頼られるのもごめんだ。
自分の足で立ち、崇高な思想を掲げ、良き信頼関係を築く。そんな相手がいたとして、出会えるのは何十億分の一の確率でしかない。
良い人間関係とは対等を差す。
物語を見て、こんな人物と友人になれたら……と思ったことはないだろうか?
物語の人物のような人間が実在しないことには、ある理由があると考えられる。
物語はフィクションだ。
フィクションだからリアリティを持たせる必要がある。
多くの物語には、実際に存在しそうな素朴な人物がたくさん出てくる。それはリアリティを持たせるため。仮に”スパダリ”と呼ばれる”人の理想の塊”であっても、探せばどこかには存在するはずだ。
しかし残念なことに、容姿に関しては”好み”というものがあるので、”誰から見てもスパダリ”になる可能性はないに等しい。
これは”フィクションをノンフィクションに変えるための壁”の一つだと思う。
『条件を全て満たす者は探せばどこかにいる可能性はあるが、それは万民にとってではない』
と言うことである。
人は”存在しないからこそ強く惹かれる”。
存在しそうでしない存在。これが一番、人を惹きつけるのではないか?
進撃の巨人で言えば、主人公や団長、ジャンやエルミンのようなタイプの人は世界中を探し回れば、どこかに存在はするだろう。この物語を見ていて、存在しそうで存在しないのでは? と思ったのはリヴァイ兵長である。
一つ一つの要素は、存在する。しかし複雑に混ざり合い絶妙なバランスで成り立つ。そのバランスが、逆に人間らしさを醸し出しているのである。
──閑話休題
しかしながら、物語の人物像のような人が存在しないという確定要素はそこにあるのではない。
物語の登場人物は”リアリティを持たせる”必要があるので、実在しそうな人物として描く。なので”実在しそう”ではある。だが同時に、彼らは”必然性”で組み立てられていることを忘れてはいけない。
何が言いたいのかと言うと、俺たちはあくまでも”彼らの一面”を見ているに過ぎないということ。
実在する人物は、提示されている面意外に色んな面を見ることが出来る。
しかし物語の人物と言うのは、どんなにエピソードを増やそうとも”彼らの一面”しか知ることはできない。それは作者の選んだ”彼ら一面”に過ぎない。
俺たちは知らず知らずのうちに、彼らの見えない部分を想像で補い、人物像を完成させているのだ。だから物語の人物とは人によって完成された姿は違う。
もしかしたら理想を押し付けているかもしれない。
結果として”物語の中の人物はこの世に存在しない”。
人は裏切る生き物。
裏切りとは”相手の期待を裏切る”ということを差している。
『裏切者』
それは自分の期待を裏切った、信頼を裏切った者に向けられる言葉。
しかし……誰も、誰であっても相手の期待通りになる義務はない。
絶対なる信頼関係は物語の中にしか存在しない。
それは、人間とは自由だから。
信頼を裏切ってはいけない義務がないから。
自由は人を解放し、同時に人を苦しめる。
自由の正体は解放と苦しみなのである。
物語は人に希望と光を与えるが、それと同時に絶望的としか言いようのない真理に気づかせる。
真実は自分の心の中にある。
いつだって。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)