創作とは自分の中の譲れないものとの闘い

文字数 1,099文字

 昨日は『第三の選択─Even if it's not love─』を一万文字くらい更新したわけだが。
 読んでくれている人たちはきっと
『この人の書く異性恋愛ものの男性主人公は、まったく幸せそうではない』
と感じているだろう。

 まあ、このエッセイを読んでいる人なら薄々気づいてはいるだろうが。
 俺はパンセクシャルでありながら、男が嫌いであるw
 実在する人がどうのというよりは本能的なものが嫌いで、特に日本人男性がとてつもなく嫌いなのだ。

 アホしかいないもんな。
 ニュースとか観ていても。

 確かに、身近に真面目に働いている人はいるんだよ。
 なので『抽象的な形としてのオス』というものが嫌いなんだよね。
 最近は女性もオス化しているなと感じる。

 性交は愛ではない。別に愛に直結したりもしない。
 海外と比べてみればわかりやすいが、個人投稿であっても海外のRというのは愛を感じる。
 日本人というのは○○とやりました的なもの。
 つまり、恋人でもなければそこに愛があるわけでもない。
 ただの性欲発散でしかなく、気持ち悪い。
 求めあってはいない。ただ女性を道具扱いしてやれたことを自慢しているだけ。

 これね、不思議なことに海外の同性ものがそれなんだよね。
 まあ、たまに愛を感じるものあるけれど。
 日本人が投稿しているものは、同性同士のものの方がマシなこともある。
 これは動画のはなしだけれど。

 映画観ていてもそうだよね。
 洋画のラブシーンと邦画のラブシーンは全然違う。
 なので邦画は見ない。面白くないし。

 さて相変わらず本題からそれているが。
 作品を作るとき、書きたいものを書きたいように書いている人には無縁の話だとは思うが。
『創作は自分自身との闘い』
 俺はいつもそう感じている。

 人は自分の世界の中だけで生きているわけじゃない。
 もちろん、作品の中の人物もそうだと思う。
 だから何か倫理道徳に反した行動をしようとしたとき、周りからどう見えるのかを考えると思う。
 正義感の強い人はそのキャラが道を踏み外すことを良しとしないかもしれない。
 けれども必要なルートならば書かなければならないだろう。

 それはきっとプライドとの戦いになると思うんだよ。
 深いものがかける人は、深く考えているから深いものがかける。
 もし全く自分自身と戦うことがなかったなら、どこか矛盾したものが混じっているかもしれない。

 例えば『窓は右』にしかなかったはずなのに、どうしても主人公を右の窓から外に出したくない。
 だからないはずの『左の窓』というものがいつの間にか存在している。
 ご都合主義っていうのは簡単に言うとそういうことなんだよw
 
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