理解できないものは身につかない

文字数 801文字

 当たり前の話しなんだけれどね。
 
 まず、思想とはどんなに崇高なものであっても個人のものでしかない。
 例えば何かを見て、それについて考えたとしても『もともとの思想が自分と密接な関係』になければ一時的なものにしかならない。

 それは『常に』戦争と平和について考えている人と、触発されて一時的に意見を持つ人では全然違うという意味だ。
 もっと身近なもので言えば、『綺麗好き』な人は片付けることが『習慣』になっているからいつもキレイにしておける。しかし『年末大掃除』などで触発された時しか片づけをしない人は、その時限りになってしまうのと同じこと。

 それは『初詣』にも言えること。
 一年間に何度もお参りに行く人が、その年の初めにお参りすることを『初詣』という。
 しかし大半の人が暮れと年始しかお参りに行かない。
 それは初詣とは言わないということ。
 すなわち何の意味もなく、なんのご利益もない。
 なので俺はお参りに行くということはしない。無駄な行為でしかないので。
 それはすなわち、習慣あってこそという意味である。

 習慣は人に多大な利や得を与えるもの。
 俺が毎日更新できる、何作も更新できるのは習慣の積み重ねによるものである。
 誤字脱字が多いので後から修正はするが、基本一発書き。
 常日頃からエッセイを書き、なるべく語尾を重ねなくても済むときは重ねないように心がけている。その為、そんなに悩むことなく書ける。

 エッセイはどうしても語尾が重なる。
 何故か?
 常に受動と能動の位置が決まっているから。
 するのか? されるのかしかないのは全てにおいてそうなのだが、視点(位置)が自分でしかないため、どうしても変更することが出来ない部分が存在するのだ。

 つまりはエッセイでの自分と、小説での一人称一視点は厳密にいうと違うから。
 他人事として書けないのが前者。他人事として書けるのが後者。
 これは非常に大切なことなのである。
 
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