自分にできることは他人にできるわけじゃない
文字数 1,412文字
凄く当たり前のことだけれど、俺にできることが他人にできないようにあなたにできることは他人にはできない。人には向き不向きがあって、真似することは不可能。
人を作るものは断片的なものではなく、生まれて育った環境や好悪が関係してくる。
器用でなんでもできる人もいれば、器用だけれど向き不向きがある人もいるのだ。
有能な人と無能な人の違いというのは『物事の理解の仕方』にある。
ただし、それだけでは実践に生かすことはできない。
有能な人は大抵、合理主義であり無駄なことはしないものだ。
無駄なことをするということは、時間だけが無駄になるから。
もちろん無駄な時間を使わせる相手を好んだりもしないし、そういう人と関わらない。
有能な人になりたければ、情で動くべきではない。
仮にどんなに他人に時間を尽くしたところで何の意味もないのだから。
他人は基本、他人に感謝なんてしたりはしない。礼儀として他人に感謝の言葉を述べることはするだろう。しかし、根本的に無能な人間の感謝の言葉なんてただの言葉に過ぎない。
有能な人というのは必ず自分にプラスになるように成長していく。
ただし、他人を利用しようとする気持ちで他人に接してはいけない。
人間とは協力し合うことで何かを成す生き物。協力することにより、より大きな力を得ることが出来るものだ。
他人を利用しようとする人間は決して有能ではない。
人というのは有能な人間に自ずと集まるものだから。
さて、今回の話は『どんなにアドバイスしようとも無駄』だという話。
俺はTwitterを始めるまで、創作界というものにあるイメージを持っていた。
以前に何回か書いてはいるが……
1 毎日に何作も更新している
2 毎日一万文字は更新している
こういう人たちの集まりだと思っていた。
その上で切磋琢磨し、刺激を与えあっている人たちだと思っていたのだが実際はそんなことなかったよね。
わけのわからんことでいがみ合って炎上している人たちはたくさんいるし、更新せずに放置している人もたくさんいる。残念な人たちが多くいるところだった。
でも、その思い込みは自分にはプラスにしかならなかったわけである。
少なくとも自分にとっては一日に何作も更新するのは当たり前のことになっているし、何作も同時に書くのもスタンダート。さすがに仕事をしていて一万文字も更新する時間は取れないけれど。
良い思い込みは自分を成長させるものだと思う。
けれども、その思い込みで誰もが同じことをやれるかと言うと違うだろうと思う。
まず、作品の作り方からして違うから。
俺には『好きを詰め込む』というのが意味不明でならない。
それだと一作しか書けなくない? と思うのだ。別に悪いことではないけれど、人生にたった一作の大作を書く気なのか? それとも似たような物語ばかり書く気なのか? 疑問しかないのだ。
それにそれが人物だったとするならカオスになるのではないか? とも思うわけである。
好きな舞台(世界観)で好きなジャンルで、好きなタイプの人物を出して……それは良いと思う。
でもそれがどんな方向性のどんな話になるのか未知数。
小説は着地点を決めて書くものだと思うんだよね。そうなると登場人物は必然性で決まっていく。
つまり着地点さえ決めておけば、いくらでも書けるということ。
ただし、この方法で誰でも書けるとは限らない。そこに好きは関係ないから。
人を作るものは断片的なものではなく、生まれて育った環境や好悪が関係してくる。
器用でなんでもできる人もいれば、器用だけれど向き不向きがある人もいるのだ。
有能な人と無能な人の違いというのは『物事の理解の仕方』にある。
ただし、それだけでは実践に生かすことはできない。
有能な人は大抵、合理主義であり無駄なことはしないものだ。
無駄なことをするということは、時間だけが無駄になるから。
もちろん無駄な時間を使わせる相手を好んだりもしないし、そういう人と関わらない。
有能な人になりたければ、情で動くべきではない。
仮にどんなに他人に時間を尽くしたところで何の意味もないのだから。
他人は基本、他人に感謝なんてしたりはしない。礼儀として他人に感謝の言葉を述べることはするだろう。しかし、根本的に無能な人間の感謝の言葉なんてただの言葉に過ぎない。
有能な人というのは必ず自分にプラスになるように成長していく。
ただし、他人を利用しようとする気持ちで他人に接してはいけない。
人間とは協力し合うことで何かを成す生き物。協力することにより、より大きな力を得ることが出来るものだ。
他人を利用しようとする人間は決して有能ではない。
人というのは有能な人間に自ずと集まるものだから。
さて、今回の話は『どんなにアドバイスしようとも無駄』だという話。
俺はTwitterを始めるまで、創作界というものにあるイメージを持っていた。
以前に何回か書いてはいるが……
1 毎日に何作も更新している
2 毎日一万文字は更新している
こういう人たちの集まりだと思っていた。
その上で切磋琢磨し、刺激を与えあっている人たちだと思っていたのだが実際はそんなことなかったよね。
わけのわからんことでいがみ合って炎上している人たちはたくさんいるし、更新せずに放置している人もたくさんいる。残念な人たちが多くいるところだった。
でも、その思い込みは自分にはプラスにしかならなかったわけである。
少なくとも自分にとっては一日に何作も更新するのは当たり前のことになっているし、何作も同時に書くのもスタンダート。さすがに仕事をしていて一万文字も更新する時間は取れないけれど。
良い思い込みは自分を成長させるものだと思う。
けれども、その思い込みで誰もが同じことをやれるかと言うと違うだろうと思う。
まず、作品の作り方からして違うから。
俺には『好きを詰め込む』というのが意味不明でならない。
それだと一作しか書けなくない? と思うのだ。別に悪いことではないけれど、人生にたった一作の大作を書く気なのか? それとも似たような物語ばかり書く気なのか? 疑問しかないのだ。
それにそれが人物だったとするならカオスになるのではないか? とも思うわけである。
好きな舞台(世界観)で好きなジャンルで、好きなタイプの人物を出して……それは良いと思う。
でもそれがどんな方向性のどんな話になるのか未知数。
小説は着地点を決めて書くものだと思うんだよね。そうなると登場人物は必然性で決まっていく。
つまり着地点さえ決めておけば、いくらでも書けるということ。
ただし、この方法で誰でも書けるとは限らない。そこに好きは関係ないから。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)