自分を呪うのも救うの自分

文字数 1,602文字

「お前は宗教家になったら危ない」
 かつて母に言われた言葉だ。

 俺の母はキリスト教。俺は宗教を持つことを否定はしないが、自分自身は無宗教である。何かに縋らなきゃならないのは、弱いからだと思っている。
 自分の道を決めるのは、未来を決めるのは神なんかじゃない。
 どんな道を選ぼうとも、未来を歩もうとも自己責任。それが幸せの道だろうが、不幸の道だろうが。

『信じる者は救われる』
 それが神の教えなら、俺はそんなもの信じないと思った。
 何故なら”神と言うのは、全ての人類に対して平等であると思うから”。
 ”信じた者しか救わないなら、それは神なんかじゃない”。
 それは自分に都合の良い”人間”なのだ。

 それが俺の考え方。真っ向から母の言葉を否定した俺は結果、
「お前は宗教家になったら危ない」
と言われた。

──ああ、そうかよ。

 そう思った。俺は神なんか信じない。信じるのは自分だけ。
 他人は信じるに値はしない。

 人の信頼とは地道に築くものであり、保身のため、自分のためなら簡単に他人を裏切るのが人間だ。人間は”未熟な生き物”。キリスト誕生とされる時から2000年以上が経つのに、いまだに争うことをやめない。
 どんなに願っても世界は平和にはならない。

 それは人類が未熟だから。

 隣人を愛せ。
 受け入れられないなら、離れるのも一つの選択。
 攻撃するのは間違っている。

 多様性は受け入れるものではなく、当たり前に存在するもの。
 それは人間がコピーやクローンではない証拠なのだ。
 もし自分と同じ考えの人しかいなければ、恋なんてしない。
 他人を愛することなんてできない。

 人を虐げ、自分と同調させる行為はただの支配。
 それは未熟の象徴。

 未熟な生き物が足掻くのがこの世界。
 世界は汚れていて、何処にも光はない。
 このクソみたいな世界で、世界平和を願った。

 ずっと思ってきた。
 どうして人は多様性を当たり前だと受け入れて、手を取り合って共存する道が選べないのだろうか? と。争っていては、いつか地球は人の暮らせない世の中になる。人類は滅びる。

 かつて俺に、
「幸せにしてあげたい」
と言ってくれる人がいた。
 だが俺は幸せになりたいとは思ってなかった。自分が不幸だとも思わないけれど、俺の願いは幸せになることではないから。

 俺の願いはたった一つ。
 世界平和。
 多様性を受け入れ、人が手を取り合って共存する世界。

 子供頃、
『いつか心から好きな人が出来て、その人とずっと一緒に居られたなら幸せだろうな』
と夢をみた。
 しかしそんな日は来なかった。
 誰も好きになることはなかった。
 それどころか他人に興味すら起きなかった。

『あんたは何にも興味が無いよね』
と職場で言われた時、ハッとした。

 その原因が無性愛者(他人に性欲が向かない)であることにあると気づいた時絶望した。俺は親兄弟にすら興味がない。死のうが生きようがどうでもいい。何してようが、まったく興味がわかない。
 そんな自分を母は支配しようとした。
 そこにあったのは暴力による支配だった。

 その体験は、自分をおかしくした。
 多少の好意では理解が出来なくなった。
 狂ったような独占欲と執着心を向けられないと愛されていると感じられなくなった。

 自分は壊れているなと思うけれど、病んではいない。
 悲観もしてはいない。

 進撃の巨人という作品に出会い、自分の思想が間違っていることに気づいた。
 俺はずっと、人類に同じ一つの敵が存在したなら、世界は一つになるのではないかと思っていた。それが世界平和へ繋がるのではないかと思っていたのだ。

 でも違った。
 世界が平和になるには人類が滅ぶしかない。
 なぜなら人類は未熟だから。
 どんなに協力し合わなければならない局面でも自己を優先するのが人間。
 未熟な人類。

 この世は救われることなんてない。
 世界が平和になることもない。
 このまま破滅の道を歩み続けるのだろう。
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