否定をしない人は、肯定もしていないという話

文字数 1,074文字

 世の中の大半の人というのは『主観』でものを見て、『主観』で意見を言う。
 なので無責任。
 かといって『客観的』にものを見れたとしても、やはり『主観』でものをいう場合が大半。
 
 じゃあ『客観的』にものを見て、『客観的』な考えによりものをいう人ってどんな人かというと、『肯定も否定もしない』場合が多い。
 『客観的』にものを考えるということは、当然のことながら『主観』で話すことはない。

 例えばAという作品は、うまいが自分の好みには合わない。
 これは主観。
 客観的というのはこの場合、『うまいか下手かを冷静に』述べることではない。
 一般的にその作品がどの水準にあるのか? 
 それもまた一つの客観性ではあるが、『そもそも自分がその作品を評価しなければならない義務はない』という前提が先に来る。

 つまり結論としては『否定も肯定もしない』という答えが導かれるのだ。
 その心理は『倫理道徳観』と『常識、良識』を踏まえ、『他人を否定してはいけない』という考えからくるもの。

 もっとわかりやすく言えば、
『離婚をしたい』
と考えている人がいて
『離婚したいのだけれど』
と言われたとき、
『好きにしたらいいんじゃないの?』
 これが否定も肯定もしないということ。

 するもしないも『自分の責任において自由』であり、この先そのことを後悔したとしても『自己責任』ということ。
 単に『あなたの人生なのだから選択権はあなたにありますよ』と言っているだけ。
 しばしばこの『好きにしたら』の意味合いを勘違いする人がいるけれど、その人はあなたの味方でもなければ、肯定もしていない。
  
 否定をしないことって意外と難しいんだよね。
 誰が何を思おうが自由だし、どんな選択をしようが自由。これは当たり前のこと。
 けれども『経験者』は助言をしたくなる。
 それをぐっとこらえない限り『否定をしない』人にはなれない。

 そしてこの否定をしない人というのは『否定をする人』よりもずっとずっと、『肯定しない人』でもある。
『好きにしたらいいんじゃないの?』
 の裏側には『この先あなたに何が起きようとも知ったことではない』という気持ちが含まれる。

 例えばこの先が断崖絶壁だったとしても、
『どうなっているのか、行ってみたい』
と言われたら、
『行ってみたら? (自分はどうなっているのか知っているけど)』
と言うだろう。
 過ちを犯していると気づいていても、本人が痛い目をみるのを黙って静観しているだろう。

 仮に教えたところで、人は自分で経験しないと理解できない生き物なので、その選択は正しい。
 他人のことは放っておけばいい。
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